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広島・長崎(原爆特集) | 参考資料 | ||||||||||||||||||||
原子爆弾(原爆)は、ウランやプルトニウムなどの原子核が起こす核分裂反応によって爆発させる核兵器である。
原子爆弾は大量の放射線を放出し、また放射能を有する塵などを多量に排出したため、被害は爆発の熱や爆風だけに留まらず、原爆症と呼ばれる放射線障害や白血病や癌などの病気を被爆者に引き起こし、その影響は現在も続いている。 原子爆弾の威力は通常兵器と比べ極めて大きく、無差別かつ大量に殺戮する大量破壊兵器であるため、この兵器の保有・使用に伴う危険性は世界中で危惧されており、現在では他の核兵器と共に包括的核実験禁止条約、核不拡散条約などで国際的に規制する動きがある。現在水爆・中性子爆弾を含む核兵器を確実に保有する国は開発の早い順に米・ソ連(現ロシア)・英・仏・中・印・パキスタン・イスラエル・北朝鮮の9ヵ国。保有していると考えられている(非公表)国はイスラエル・シリア・イランの3ヵ国。 日本は、佐藤栄作首相の時代に「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を掲げ、核兵器の保有・持ち込み禁止を世界に表明している。 |
『原爆はこうして開発された』 『原子爆弾の誕生 』 | ||||||||||||||||||||
原爆投下までの背景 1938年12月、ドイツのオットー・ハーン、リーゼ・マイトナーらによって原子の核分裂が発見され、核分裂が大量のエネルギーを放出することが確認された。1939年、第二次世界大戦の戦局の泥沼化を脱却すべく核エネルギーを武器として利用する方法をほぼ同時期に米英と独で研究が始められた。とりわけアメリカでは、ドイツから亡命したユダヤ人物理学者レオ・シラードがヒトラー率いるナチスドイツで研究が始められたことに危機感を抱き、アインシュタイン博士の同意を得てルーズベルト大統領に核兵器開発の意見書を送ったことから、本格的な研究が密かにかつ速やかに始められた。それは1941年12月6日(アメリカ時間)。何と日本の真珠湾攻撃の前日であった。これが後に「マンハッタン計画」に発展する。 | 『オットー・ハーン―科学者の義務と責任とは (World Physics Selection:Biography)』 『核分裂を発見した人―リーゼ・マイトナーの生涯』 | ||||||||||||||||||||
マンハッタン計画 1940年にはアメリカで核分裂実験に成功。1941年には原爆計画の政策グループが発足。レズリー・リチャード・グローヴス准将がリーダーとなる。翌1942年、科学者のリーダーとして物理学者のロバート・オッペンハイマーが選任され、最優先項目「AAA(スリーエー)」としてハーバード大、コロンビア大などの優秀な研究者たちが集い、原子爆弾の開発に当たった。これらは主にニューヨークに本拠を置く米陸軍のマンハッタン工兵地で行われたためコード名「マンハッタン計画」と呼ばれ、極秘に進められた。 1945年7月16日朝5時半にニューメキシコ州アラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で世界初の原爆実験「トリニティ」が実行された。「トリニティ」とはオッペンハイマーが名づけたものでキリスト教のいわゆる「三位一体」を表し、この時使用された原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget=「道具または装置」) と呼ばれた。ガジェットはプルトニウム239を燃料とする爆弾である。起爆装置として爆縮レンズを用いた方式のテストを目的として製造され、鉄製のタワーの上に備え付けられた。実験は成功し、開発者たちは10マイル(約16キロ)離れたベースキャンプでこれを観察した。彼らは爆発から数秒後には熱線と大音響と強烈な爆風を感じ、空を見上げると1万メートルまで達した巨大なキノコ雲を目撃した。そのひとり、科学ジャーナリストのウィリアム・ローレンスは「巨大な火の玉、さらに巨大なきのこ雲。…静寂・熱風、そして大雷鳴」という言葉を残している(『0の暁』)。この時はまだ放射能による汚染という概念が無かったため、「二次被爆」というさらなる脅威まで軍人・開発者ともに認識していなかったと言われる。関係者はマスコミに「弾薬庫が爆発した」と発表し、ポツダム会議に臨むトルーマン大統領に「赤ん坊は申し分なく生まれた」の暗号電報が送られた。 この実験の成功を受けて、次に用意された2つの爆弾はサンフランシスコに停泊していた巡洋艦インディアナポリス号に積み込まれ、太平洋テニアン島に運ばれた。 | 『資料 マンハッタン計画』 『神の火を制御せよ 原爆をつくった人びと』 『オッペンハイマー 上 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』 『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた―巨大プロジェクトで国を変えた男』 『ヒロシマを壊滅させた男 オッペンハイマー』 『0の暁 (1950年) 』 | ||||||||||||||||||||
原爆投下の決定まで 1944年9月、米英のチャーチル、ルーズベルトはケベック会談で「原爆の使用・管理は秘密にし、爆弾が完成したら日本に使用すること」などを確認している。 しかし、1945年になって状況は激変する。2月ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヵ月後に日本に参戦が決定。4月にはルーズベルトが急死。副大統領トルーマンが大統領に就任すると、ヨーロッパ戦線において連合国の快進撃が続き、ついにベルリンでヒトラーが自殺しドイツが降伏。連合国側がヨーロッパで勝利を治めたことで、連合国の関心は最後まで抵抗する日本国に一気に向けられた。5月7日にはトルーマンが原爆問題特別委員会で原爆の日本投下を決めた。この時すでに実験効果をはかるためあまり空襲を受けていない小倉(現北九州市)・新潟・広島・京都を標的とすることなどが結論づけられていた。つまり日本への投下は「核実験」の一環であったことは明白であった。またこの頃にはアメリカ軍が沖縄に上陸し、6月には全島を占領、さらに九州や関東への侵攻を検討していた。 | 『ヤルタ会談 世界の分割―戦後体制を決めた8日間の記録』 『ヒロシマ あの時、原爆投下は止められた』 『原爆投下とトルーマン』 | ||||||||||||||||||||
二つの原爆 原爆開発に当たって最大の課題は材料にあった。ウランは天然に存在するが核分裂のためには分離・濃縮が必要であり、そのために様々な方法が試行錯誤されたが1944年になってようやく実現した。またプルトニウムに関してはウランに比べ製造が容易だったが、爆発しやすいという性格から扱いが難しかった。しかしそれも爆薬の力を借りた「衝撃波レンズ」の技術が開発されてこちらも実現化した。いずれも2〜3年という短期間に克服されたのは特筆に価するが、アメリカ屈指の研究家たちが総動員に近い形で貢献し約18億ドル(現在の200億ドルに相当)の巨費を投じていたからに他ならない。 因みに日本でも陸軍・海軍・理化学研究所などで研究されていたが、ウランを手に入れること自体が難しく、また、どうしてもウランの分離の方法が分からなかった。広島の報を聞いた研究者の一人は「どうやってウランを分離したのか!?」と悔しがったという。 こうして開発された原爆は2種類あり、ひとつは「ガジェット」と同様プルトニウム239を材料にしたもので通称「ファットマン(ふとっちょ)」(長さ3.25m、直径1.25m、重さ4.5t)。隙間をあけて置かれたプルトニウムの周りを爆薬で囲い、その爆薬の爆発の力でプルトニウムが中心に集められ急激に核分裂を引き起こすというもの。爆薬を大量に使うことから爆弾が大きく丸く太った形になる。 もうひとつは通称「リトル・ボーイ(ちび)」(長さ3.05m、直径0.71m、重さ4t)。これは燃えやすいウラン235を材料にしているが、ウランを2つに分けて設置し、爆薬の力で2つのウランがくっつくと核分裂が引き起こし、猛烈な爆発を起こす。これは「ファットマン」に比べて構造が単純なのでやや長細く小さい。「リトルボーイ」の方が威力もやや小さいが、こちらの方が先に使用された。 「ファットマン」にはプルトニウム239が約8キログラム搭載され、そのうち1.2sが核分裂した。「リトルボーイ」にはウラン235が約60s搭載されていたがそのうちの700gが核分裂しただけである(弁当箱1個分にすぎない)。だがその威力は…。(下記) | 『リトルボーイとファットマン―パロディ絵本』 | ||||||||||||||||||||
原爆投下(ヒロシマ) 1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B29エノラ・ゲイ号が「リトル・ボーイ」と呼ばれるウラン型原子爆弾を広島市上空高度9,600mから投下。細工町(現:広島市中区大手町)の島病院上空約500mで爆発した。これが人類史上初めて実用された核エネルギーであり、世界で初めて実戦で使用された核兵器であった。わざわざ「ガジェット」と違うウラン式の方が使われているのは、プルトニウム式はすでに実験済みなので、「別の方式での威力を試したかった」証拠だと思う。 被害状況:爆発と同時に約7万5000人が即死。10万人以上が負傷。1945年12月末までに約14万人が死亡。市民32万人・軍人4万人が直接被害を受けた。また市内7万6000の建築物のうち92%が崩壊。爆心地から5km以内の木造家屋60%が倒壊。 | 『カウントダウン・ヒロシマ』 | ||||||||||||||||||||
原爆投下(ナガサキ) 1945年8月9日午前11時02分、米軍爆撃機B29ボックス・カー号が「ファットマン」と呼ばれるプルトニウム型原子爆弾を高度9,000mから投下。爆弾は長崎市北部(現在の松山町)の上空550mで爆発した。 被害状況:爆心地から500m以内で90%、1q以内で80%の人が即日または直後に死亡。1945年12月末までに7万4000人が死亡(長崎市の人口26%相当)。また市内の建物の約36%が全焼または全半壊した。因みに広島型原爆より大きいのに被害が少ないのは長崎市が山に囲まれた狭い地形であったからに過ぎない。 | 『天主堂も友達も消えた!―長崎への原爆投下 (ビジュアルブック 語り伝えるヒロシマ・ナガサキ)』 広島と長崎の両方で被爆したという驚愕の自伝↓『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆 (朝日文庫 や 24-1)』『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』 | ||||||||||||||||||||
投下後の影響 トルーマン大統領は原爆投下の理由として「日本の真珠湾攻撃の奇襲攻撃、アジア侵略への報復、ポツダム宣言の勧告に対する再三にわたる日本の拒否」によるものという声明を発表。また物理学者コンプトンも「もし原爆を使用しなかったならば日米戦争はさらに続き、新たに数百万の人が死んだだろう。原爆はこの人たちの命を救ったのだ」と意見を述べた。これはアメリカが「原爆投下」を正当化する代表的な言葉であり、今なお多くのアメリカ人が賛同しているようである。 だが当時の日本はアジア・太平洋・中国大陸など各地ですでに敗北状態にあり、沖縄を占領された6月23日にはすでに御前会議で降伏のための具体策が考えられていた。つまりほとんどノックアウト寸前であった。それでも原爆投下が敢えて行われたのは前述した通り「核実験」の一環であったことと、ヨーロッパの戦後を巡ってソ連との対立が深まっていたという背景から、ソ連の参戦が8月8日に迫っていたことに対して、ソ連が手を出す前に日本を降伏させる必要があったと考えられる。実際トルーマンが投下の命令を下したのは7月25日(ガジェットの成功の直後であり、ポツダム宣言の直前)で「8月3日以降速やかに投下せよ」とはっきりと日付を示している。究極の兵器・原爆は世界を牽制し、戦後の日本を始め世界を支配する意図を持って使用されたと考えるのが妥当だろう。 なお、戦後トルーマンは全部で18個もの原爆の日本投下を承認していたことが分かっている。もし実現していたら日本人は「根絶やし」だったろう。これはヒトラーのユダヤ人虐殺(600万人といわれる)に匹敵するホロコーストである。 | 『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』 『原爆投下とトルーマン』 『原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀』 『アメリカの歴史教科書が描く「戦争と原爆投下」―覇権国家の「国家戦略」教育』 『実録第二次世界大戦史 第五巻 戦争裁判と原爆の悲劇/アメリカの敵、日本 [DVD]』 | ||||||||||||||||||||
原爆被害後の広島・長崎そして世界 太平洋戦争(そして第二次世界大戦)は1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏に応じて遂に終了した。しかし、かろうじて生き残った広島・長崎の人々の地獄は続いていた。直接熱線や熱風などの衝撃による火傷や怪我を負わなかった人々をも襲ったのはケロイド、白血病や貧血などの血液の異常、甲状腺ガン・肝臓ガン・乳ガンなどのガン、白内障など、放射能を浴びたことによる後障害である。さらに被爆した妊婦の胎内の子にも大きな障害を与えていることも判明した。重軽傷者を含む「被爆者」は広島・長崎を合わせて約40万人にも及び、60年以上経た現在でも苦しみ、毎年これら「原爆症」による死者が出ている。井伏鱒二の『黒い雨』などに描かれているようにずっと健常であったが数年後に突然発症して亡くなる例も多かった。しかし米軍指導の連合軍による日本進駐時代にはこれら惨状は日本国内でも報道されることがなかった。1954年3月にアメリカがビキニ環礁で行われた水爆実験に日本の第五福竜丸が巻き込まれた事件をきっかけに日本国内で原水爆禁止運動が巻き起こった。これは大きな波紋を世界に与え、翌1955年には広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催されるに至った。また、哲学者ラッセル、物理学者アインシュタインらから核兵器の危険性を訴えた声明が発せられるなど、世界的な規模で反核運動が燃え広がった。こうしてようやく「被爆者の惨状」は世界にも広く知られ、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ヒバクシャ」をスローガンとともに「ヒバクシャ」は世界でも通用する言葉となった。 しかし…。60年代に安保に対する政治的な立場から国内の大きな反核組織は原水爆禁止日本協議会(略称「原水協」)と原水爆禁止日本国民会議(原水禁)、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に分裂し、それぞれ統一した活動をしていない。ヒロシマ・ナガサキの原爆の日にかろうじて協力しているくらいである。どんな立場であれ「世界を破滅させる」兵器には理屈抜きで反対すべきであろうに。世界史上唯一の被爆国がこんなことでは、おそらく核兵器は世界から無くならないであろう。 |
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その他 「マンハッタン計画」には研究・開発に延べで約50万人が関わったとされる。その中には後にレコード・エンジニア兼プロデューサーになり、クリームやエリック・クラプトンの名曲『いとしのレイラ』を作ったトム・ダウドもいた。詳細は→ 「ノーモア・ヒロシマ No more HIROSHIMA」は、被爆からおよそ1ヶ月後の1945年9月3日、イギリスの『デイリー・エキスプレス』紙のピーター・バーチェット記者が外人記者として世界で初めて広島を取材し、その惨状を世界に伝えた記事の最後に記された言葉であり、以後反核運動のスローガンとして世界に広まった。 原爆を落とした「エノラ・ゲイ」、「ボックス・カー」と名づけられた戦略爆撃機はB29である。B29は1939年9月に「2千マイル(3,219キロ)の行動半径を持ち、高度3万フィート(9,144メートル)以上での飛行可能な爆撃機」という米陸軍の要望で開発が始められた。「超空の要塞(スーパーフォートレス)」と呼ばれたこの爆撃機は、7.2トンものの爆弾を積むことができ、その名の通り当時世界最高の爆撃機であったが、航空機史上画期的だったのは「与圧装置」「空調」の設置であった。今の航空機では当たり前だが、機内で酸素マスクや防寒服を着用せず乗務員が地上と同じように快適に過ごせたのはB29が最初であった。日本で撃墜されたB29にTシャツ一枚の米兵士が乗っていたのを見て、日本軍は「防寒服も無いほど敵は困窮している。日本は勝てる!」と馬鹿な勘違いをしたという。このB29の開発費、原爆の開発費の合計は約50億ドル(現在に換算すると5千億ドル程)。これは当時の日本の国家予算に相当する。硫黄島、テニアン島など日本に近い島が米軍に占領されて、日本列島がB29の行動範囲に入ると毎日のようにB29の大軍が日本各地を空襲した。この爆撃機によって日本の軍需基地はもちろん、大都市のほとんどが焼かれ、民間人も無差別に殺された。その極めつけが広島・長崎であった。 | 『トム・ダウド いとしのレイラをミックスした男』 | ||||||||||||||||||||
広島・長崎を描く作品(原爆文学) 永井隆『長崎の鐘 (アルバ文庫)』 井伏鱒二『黒い雨 (新潮文庫)』 林京子『祭りの場(講談社文芸文庫)』(第73回芥川賞受賞作) 大江健三郎『ヒロシマ・ノート (岩波新書)』 大田洋子『屍の街 半人間 (講談社文芸文庫)』 原民喜『夏の花 (集英社文庫)』 峠三吉『詩集 にんげんをかえせ』 村田喜代子『鍋の中(八つの小鍋―村田喜代子傑作短篇集)』(第97回芥川賞受賞作 黒澤明『八月の狂詩曲』の原作) 遠藤周作『女の一生〈2部〉サチ子の場合 (新潮文庫)』 三島由紀夫著『美しい星』 梶山季之『ケロイド心中』梶山は広島出身 梶山美那江編(梶山の妻)『積乱雲―梶山季之 その軌跡と周辺』 阿川弘之『春の城 (新潮文庫)』 マリアン・D. バウアー『ヒロシマから帰った兄』 堀田善衛『審判』 阿川弘之『春の城 (新潮文庫)』 大庭みな子『浦島草 (講談社文芸文庫)』他、大庭は広島育ち。 小田実『HIROSHIMA (講談社文芸文庫)』 松谷みよ子『ふたりのイーダ (児童文学創作シリーズ)』 ビートルズも観た川内康範の『吾等原爆に降伏せず』 佐多稲子『歴訪』『樹影 (講談社文芸文庫)』。佐多も長崎出身。 井上光晴『明日』(映画『TOMORROW 明日』の原作)。長崎育ちの井上は原爆についての著作多数。 竹西寛子『儀式』 ほるぷ出版刊『日本の原爆文学』全15巻がほとんど網羅している。 広島・長崎を描く作品(絵本・漫画・アニメ) 中沢啓治『はだしのゲン (1) (中公文庫―コミック版)』 こうの史代『夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)』『この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)』 児玉辰春著・北島新平画『絵本 よっちゃんのビー玉 』 うみのしほ著・狩野富貴子画『おりづるの旅-さだこの祈りをのせて (PHPにこにこえほん)』 木下蓮三・木下小夜子監督『ピカドン』(短編アニメ) 丸木位里・俊『ピカドン』 広島・長崎・原爆を描く映画 黒澤明監督の『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』 広島生まれの新藤兼人監督は『原爆の子』『第五福竜丸』『さくら隊散る』。また、原水爆実験で放射能を浴びた被害者を描く『第五福竜丸』がある。 著書も多数で『新藤兼人・原爆を撮る』など 今村昌平『黒い雨』(井伏鱒二原作) 『カンゾー先生』にはラスト、広島のキノコ雲を見ながら「ありゃ肝臓じゃあ〜」と言うシーンがあるが、これは坂口安吾の原作肝臓先生 (角川文庫)には全く無いシーン。 黒木和雄『TOMORROW 明日』、『父と暮せば』 吉村公三郎『その夜は忘れない』 今井正『純愛物語』 吉田喜重『鏡の女たち』 蔵原惟繕『ヒロシマ』(日本未公開・日本カナダ合作のテレビドラマ。ロジャー・スポッティスウッドと共同監督) 山田典吾『はだしのゲン』 アラン・レネ『二十四時間の情事』(主演・岡田英次) スティーブン・オカザキ『Survivors』『マッシュルーム・クラブ』『ヒロシマナガサキ』 原爆開発者の物語『シャドー・メーカーズ』、このほかスティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』には原爆を運んだ船の話が、『太陽の帝国』には長崎の原爆投下の光が中国大陸で見えるシーンがある。『ブラック・レイン』には若山富三郎扮する親分が「原爆のせいで(松田優作扮する)サトウのような仁義を弁えぬヤクザが生まれた」云々という台詞があり、映画のタイトルの由来となっている。 また、ハリウッドで撮影を学んだカメラマンハリー三村は進駐軍の要請を受けて、原爆投下まもない広島の町をカラー撮影している。三村は広島出身であった。 広島・長崎を描く音楽 團伊玖磨『交響曲第6番広島(團伊玖磨:交響曲全集)』 芥川也寸志『芥川也寸志:ヒロシマのオルフェ』 秋吉敏子ジャズ・オーケストラ『ヒロシマ そして終焉から 』 武満徹 ギター曲『ヒロシマという名の少年』武満徹 ギター作品集成() 林光『『原爆小景・完結版』(~林光:合唱作品集)』 早川正昭『原爆の死者のための鎮魂曲集』 フラワー・トラベリン・バンド『ヒロシマ』(メイク・アップ ) ツトム・ヤマシタ 『Atomic Bomb』 原田真二『広島からはじめよう』 キセル『エノラ・ゲイ』(窓に地球 ) 沖縄のメタルバンド、鉄カブトの『エノラ・ゲイ』(TETSUKABUTO) ジョルジュ・ムスタキ『ヒロシマ』(私の孤独~ジョルジュ・ムスタキ・ベスト・セレクション) アルカトラス(イングウェイ・マルムスティーン)『ヒロシマ・モナムール』(アルカトラス) トッド・ラングレンズ・ユートピア『ヒロシマ』 O.M.D.(オーケスタラル・マヌーヴァル・イン・ザ・ダーク)『エノラ・ゲイの悲劇』 ゲイリー・ムーア『ヒロシマ』 ウルトラヴォックス『ヒロシマ・モナムール』(HA!HA!HA!) サンドラ『ヒロシマ』 クシシュトフ・ペンデレツキ『広島の犠牲者に捧げる哀歌』(ペンデレツキ:管弦楽曲集1 交響曲第3番/広島の犠牲者に捧げる哀歌/他) タンジェリン・ドリーム『長崎〜春』『広島〜秋』 ウリ・ジョン・ロート&エレクトリック・サン『組曲エノラ・ゲイ(ヒロシマ・トゥデイ):エノラ・ゲイ~チューン・オブ・ジャパン~エノラの急襲~哀悼の詩』(ファイアー・ウインド ) スクーター『エノラ・ゲイ』(O.M.D.のカバー:ジャンピング・オール・オーヴァー・ザ・ワールド ) ノルウェイのヘビメタバンド WITCHHAMMER『エノラ・ゲイ』 ×× バンド名、芸名では スペインのロックバンド「ヒロシマ」 日系三世によるアメリカのフュージョン・バンド「ヒロシマ」 アメリカのヒップホップ系プロデューサー「ヒロシマ」 ドイツのヘビメタ系バンド「エノラ・ゲイ」(F.O.T.H.) 「原爆オナニーズ」という日本のパンクバンドもあるが、彼らは一体何のつもりで名乗っているのだろうか? その他(核兵器・核問題、原爆開発、原爆被害などを扱った作品) SFには小説・映画にゴマンとあるので特に有名なものだけを紹介。 まずは水爆実験によって原始生物が怪物化するという代表作『ゴジラ』。原爆の恐怖から逃れた一家を描く『性本能と原爆戦』、核戦争後の世界を描く『渚にて』、核戦争の恐怖を描くキューブリック監督の『博士の異常な愛情』、シドニー・ルメット監督の『未知への飛行 フェイル・セイフ』、いわゆるキューバ危機を描いた『13デイズ』、『十月のミサイル(TVムービー)』、原爆を手にした者を描く長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』(脚本はレナード・シュレーダー)、核武装したテロリストとシュワちゃんが戦う『トゥルーライズ |
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