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2月16日 | 日刊スポーツ、「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」との記事を掲載。しかし東芝音工・石坂範一郎専務は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題だ」とコメントを出す。因みにこの石坂専務こそ坂本九の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり、その子息が後に東芝EMIに入社してビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクター、現ユニバーサルミュージック会長・音楽評論家・石坂敬一である。
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3月3日 | 英音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』、「ビートルズが夏に来日公演」の噂を報道。 |
3月14日 | ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインがパートナーのビック・ルイスを通じて日本の協同企画(現・株式会社キョードー東京)の永島達司に日本公演の協力を要請。当時エプスタインはビートルズの収益の25%を取ると言われていた。同じ頃、ビック・ルイスのアシスタント、ラルフ円福(エンプク)というハワイのスポーツ関係のプロモーターが中部日本放送(CBC)事業部・佐久間一彌の元にも話を持ち込む。CBCはメトロポリタンオペラなどの大きな海外アーティストの招聘に実績があったため。
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3月15日 | 来日したEMI社長・サー・ジョセフ・F.ロックウッド、羽田空港での記者会見で「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と噂を肯定。ただし詳細は語らず。 |
3月22日 | 協同企画の永島達司、ロンドンでエプスタインと交渉。永島は高額なギャラを想定し、「ビートルズを扱うことは名誉だし、入場料を1万円としても客は来るだろう。だがファンは未成年が多い。5千円でも負担が多すぎて弊害が生じるだろう」と考え、辞退するつもりだったという。ところがエプスタイン側から「日本公演は金儲けが目的ではない。むしろ入場料が高すぎてビートルズの評判が落ちることはこちらも望まない。ギャラの点は相談に乗るのでとにかく(ロンドンに)来て欲しい」と言われたという。その交渉の結果、エプスタインからはギャラは「1ステージ10万ドル」、「1万人以上収容できる屋内会場。入場料はティーンエジャーの負担にならないように6ドル(当時のレートで2,160円)以下」という条件が掲示された。これはビートルズが行ったコンサートの中でも最低の金額だった。実は前年行われたイタリア・ミラノのコンサートでは入場料が高すぎて2万人のところ7千人しか集まらなかったという失敗があったからである。 |
4月6日 | AP通信、「6月下旬から西ドイツ、日本、アメリカ、カナダでの演奏旅行にビートルズがでかける用意をしている。日本では数回コンサートする模様」と報じる。 |
4月7日 | 日本の『ミュージック・ライフ』誌、ロンドンのエプスタインのオフィスに確認の電話をする。秘書のウェンディ・ハンソンは「コンサートの日程・場所・宿泊場所などは未定。あと1週間くらいですべて決まる。混乱を抑えるため前売り券の発売日に合わせて発表します。ただ、6月30日前後に日本に行くのは間違いない」などと返答があった。 |
4月9日 | 毎日新聞夕刊で「ビートルズは6月末来日が濃厚になってきた。来日すればカラヤン以上の話題になるだろう」云々と報道。 |
4月14日 | 毎日新聞夕刊などがビートルズ来日公演の詳細を発表。「日本では中部日本放送と協同企画が協同主催する。主催者から大蔵省に申請している外貨(8万ドル)の許可が下りればビートルズは6月28日来日、30日、7月1日・2日の3日間東京の日本武道館で公演を行う」 |
4月26日 | 永島、19日に渡英、詳細を交渉の末、永島の誕生日に合わせこの日エプスタインと契約書を交わす。 |
4月27日 | 読売新聞紙上でビートルズ来日実現の正式発表が行われる。「我が国音楽界の最大の話題であり、音楽愛好家にとってまさに千載一遇の機会であります。ご期待ください」 |
5月3日 | 公演の日程・チケットの入手方法が正式決定。公演は4月14日の報道通り、30日、7月1日・2日の3日間。ただし1日・2日は昼・夜の2回公演で計5回。武道館ではアリーナ席には入場させず、一回の公演に1万人限定。入場料は2100円、1800円、1500円の3種類。窓口でのチケット販売は一切行わず以下の入手方法が取られた。 1.主催者の読売新聞社に往復はがきで申し込む。(3万枚)2.協賛のライオン歯磨、東芝音楽工業、日本航空の3社の応募要領に従って応募する(2万枚) |
5月5日〜5月10日 | チケットの応募期間。読売新聞社には一日に2万通の往復はがきが届き、すべての会議室がハガキの山に埋もれてしまう。(他社も同じような状況) |
5月12日 | 読売新聞朝刊12面に全面広告が掲載される。スポンサーのライオン歯磨による「歯磨き、または制汗剤ヴァンの空き箱を送るとビートルズ公演のチケットが当たる!」という懸賞の広告であった。 |
5月17日 | ハガキの抽選会が行われる。集まったハガキは20万8825枚。 |
5月20日 | AP電が「ビートルズは混乱を避けるため羽田に降りず、チャーターしたヘリコプターで立川あるいは大阪か名古屋に降りること、29日ではなく別の日にすることも検討中」などと報道。 |
5月25日 | 日本武道館、ビートルズ公演を認可。当時読売新聞社事業部・企画部の鈴木啓正は武道館に「英国女王陛下から勲章をもらった芸術家に貸してもらいたい」という口説き文句を使ったという。右翼団体の反対運動や国会でも議論となった日本武道館借用問題に一応の決着が付く。万が一使えなくなった場合の代替の会場として後楽園球場が候補となる。永島はニューヨークでエプスタインにその旨を伝えていた。 |
5月26日 | この日発売された「サンデー毎日6月12日号」で、主催者の読売新聞社主で日本武道館館長の正力松太郎が「ペートルなんとかというのは一体何者だ?そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」と発言。これは長い間ビートルズファンには有名な「迷言」として知られていたが、後年になって下記のような事実が分かった。 |
5月29日 | TBSの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言、全国のファンから抗議の電話とハガキが殺到した。右翼などからも同様のビートルズ反対運動が起こっており、正力松太郎もその急先鋒と言われていたが後年、彼の許可で日本公演が実現したらしいことが分かった。永島談「あとは正力さんが政治家や右翼を説得。警察庁にも国力を挙げて警備をしてくれるようにと長官を口説いて約束させたというのですから、大変な力だったわけです」。 |
6月9日 | 読売新聞に、日本武道館理事長の赤城宗徳の声明が発表された。「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場であるので再三お断りしましたが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することになりました」 |
6月10日 | 再び『時事放談』で細川と小汀が「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチ○イ少女ども」などと発言し放送局に抗議が殺到した。 |
6月19日 | 警視庁少年課、大阪から家出して来たビートルズファンの二人の少年を保護。警視庁はビートルズ対策会議を開き、「安保」「日韓」以来の警備体制を敷くことを決定。この頃、全国の中学・高校の教師・PTAがコンサートへは行かないように生徒たちに通達するなど、問題が広がる。 |
6月20日 | TBS報道特別番組『話題をつく』で、『時事放談』の決着をつけようと若いビートルズファンをスタジオに招き、細川らと対談をさせる(放送は27日)。細川らの差別用語が飛ぶ大論争になって大きな話題となる。同日警視庁は暴走ファンの取締りを開始、非行少年・少女683人を補導する。 |
6月25日 | ビートルズからのメッセージ「歓迎していただくのはうれしいですが、どうか節度を持って静かに聞いて欲しいです」云々が届き、翌朝の読売新聞朝刊に掲載される。 |
6月27日 | ドイツ公演を終えたビートルズ一行は日航ビッカースバイカウント機412便「松島」に乗り日本に向けて出発。 |
6月28日 | 28日夜の到着の予定だったが、台風4号の影響でアンカレッジで12時間待機状態。この間、日本では警視庁が空港はもちろん、高速道路も一般客の立ち入りを禁止し、羽田空港に向かうタクシーを片っ端から止めて、午前2時までにファンと思しき約250人を追い返した。その他千人に及ぶファンを検問その他で締め出した。 |
6月29日(水) 午前3時39分 | ビートルズの乗った日航機が羽田の31番スポットに到着。日航から贈られたハッピを着たビートルズの4人がにこやかに手を振ってタラップを降りてくる。それを見ることが出来たのは関係者と250人の報道陣だけであった。一行を載せたピンクのキャデラックは、独占放送権を得た日本テレビのカメラクルーを乗せた車と、警備陣のパトカー前後5台に囲まれて、滑走路から直接高速へ(国賓並み!税関パス!)。そのまま夜明けの東京の街を駆け抜け(およそ20キロの道を19分10秒で)、東京永田町の東京ヒルトンホテルに入った。エプスタインが道を見て「日本は車が無いな…」と言ったそうだが、それは彼らのために交通規制されていたからだ。4人は10階(最上階)のプレジデンシャル・スイート(1005号室)に投宿。クルーらも10階を貸し切って宿泊。9階以下のほとんどの部屋は報道陣が借り切って、何か情報が流れる度に彼らが駆け回った。新進カメラマン浅井慎平が正式カメラマンとして選任され、以後離日までメンバーに密着して撮影を行う。 |
午前7時30分 | 一行は仮眠。8時にはNHKニュース、『小川宏ショー』その他の番組で到着の模様を報道。 メンバーは11時にルームサービスの朝食(グレープフルーツジュース、スクランブル・エッグなど)を取る。 |
午後12時 | 原宿グリーンファンタジアの真珠屋が訪問。永島からメンバーへの歓迎のプレゼントのために呼ばれた。ビートルズは愛妻のために真珠を選ぶ。ポールだけは義妹のためにブローチを選んだ。 |
午後3時 | ヒルトンホテル紅真珠の間で記者会見が行われる。その直前にE.H.エリックによるインタビューが行われる(1日の日本テレビ特番で放送される)。会見場には国内外の記者123社216人、カメラマン約70人が集まる。個別のインタビューには一切応じず、3団体の代表(東京音楽記者会、雑誌芸能記者クラブ、日本外国特派員協会)からの質問に限られた(質問者は内外タイムス文化部小坂、文藝春秋社小田切と外国を代表してロイター通信東京支社長ケビン・ギャリー)。 会場には雛壇が設けられ、左からジョン、ポール、ジョージ、リンゴの順で並んだ。マネージャーのエプスタイン、ビック・ルイス、広報担当のトニー・バロー、読売新聞企画部中山久人次長も同席。インタビューの前に10分程度のフォトセッションが行われた。質問の内容などについては「ユニオシの日記」を参照のこと。司会は読売新聞の伊藤(事業本部企画部員)。通訳(永島)による明らかな意思の不通とマイクなどのトラブルが多発し、何度か中断の不手際があった(今では考えられないが)。午後4時45分終了。 |
午後5時から6時 | イギリス大使フランシス・ランドール卿が表敬訪問。続いて加山雄三と東芝音楽工業の石坂範一郎専務、高嶋弘之ディレクターが訪問し会談と会食(石坂、高嶋はエプスタインと会談)。 加山「僕のLP『ハワイの休日』を持っていったらステレオでかけるので照れくさかった。その後彼らの新しいレコードを聞かせてくれた。日本食は何が一番?というので「すき焼き」と答えたら早速用意されて皆で食べた。僕が卵につける食べ方を教えた」。 さすが若大将(映画の若大将はすき焼き屋のせがれという設定である)、卵に浸けて食べることを教えたが、誰も箸を上手く使えず、肉を一本の箸で刺して食べたそうだ。ジョンは椅子をどけて床に正座しテーブルに顔をのせて食べた。加山が「それは行儀が良くないよ」と言ったらジョンが「僕は今日本人の気持ちを味わっているからいいんだ」と言ったという。「誰かが絵を描きたいと言い、水彩画で4人が30分以上は描いていた。俺の心の中には彼らが俺の前で絵を描いたという誇りがある」などと証言。新作とは何だか不明だが6月10日に発売された『ペイパーバック・ライター』か? |
午後8時 | メンバー数人がホテル地下のスチームバスへ。その後部屋で夜食。 |
午後9時30分 | フジテレビ『スター千一夜』で記者会見の模様を、10時45分には日本テレビ『11PM』で『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長とファンらが出演した特番が放送される。 |
6月30日(木) 午前3時 | 一行就寝。 |
午前10時 | 日本武道館に一番乗りのファンが現れる。 |
午前11時 | 午前中は全員で鎌倉から箱根までドライブする予定だったが警視庁の反対に会い断念。ブランチ中、テーラー山形屋の宮川健二が訪問。メンバーのスーツを仕立てるため全員の採寸とデッサンを行う。これはスーツ好きなポールが山形屋の噂を聞いて呼んだとのこと。宮川はメンバーが日本の謡曲のようなものを聴いていたと証言。 みやげ物業者もやって来る。後に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに登場する福助人形などを購入(この福助人形は今もヨーコ・オノの自宅台所にあるそうだ)。 |
午後5時 | 武道館開場。警官と機動隊1,700人、装甲車40台、ジープ、パトカーなど70台を導入、付近の警備に当たった。 |
午後6時40分 | E.H.エリックの司会により日本人ミュージシャンによるオープニングアクトが10分遅れで開始される。ミュージシャンと曲名は以下
ボーカル:尾藤イサオ、内田裕也、演奏:ジャッキ−吉川とブルー・コメッツ&ブルージーンズ(この時寺内タケシは契約の問題で不在。一説に裕也さんと大喧嘩中で共演を拒んだとも) 『ウェルカム・ビートルズ』(コンサートのために作られたオリジナル曲でブルコメの故・井上忠夫作。三原綱木によるとビートルズのコード進行を真似たという)
ザ・ドリフターズ 『のっぽのサリー Long Tall Sally』(6月30日の夜公演、7月1日昼の部の2回のみ)言わずと知れたコメディグループ。前座用のステージではなく、ビートルズと同じステージに登場。これは「待望のビートルズ登場!と思わせて実は…」という演出だったらしい。
ドリフ at 武道館(1966) 増補版
望月浩 『君にしびれて』 1965年、17歳でデビューした青春歌謡、エレキ歌謡で大人気のアイドル歌手。
桜井五郎(曲不明)
ブルージーンズと共に活躍したロカビリー歌手。レイ・チャールズやリトル・リチャードのカバーを得意とした。バリー・マクガイアのカバー曲でソロデビュー。デイブ・クラーク・ファイブのカバー『若さをつかもう』などのヒットがある。後、プロデューサーになり、テレサ・テンを育て、萩原健一のマネージャーなどを務めた。また映画製作などにも関わっている。
この他尾藤イサオ『ダイナマイト』、内田裕也『朝日のない街』、ブルーコメッツ『キャラバン』などを演り、前座だけで合計約1時間半あった。
ザ・ビートルズ - 武道館コンサート前座 [最長版]
前座の出演者は当時最大の芸能プロだった渡辺プロダクションが仕切ったが、全員ノーギャラであった。 今では忘れられてしまった人もいるが、1966年の『ミュージック・ライフ』誌の人気投票では日本の歌手部門で望月浩が3位、尾藤イサオが4位、内田裕也が8位(因みに1位は坂本九)、バンド部門ではブルージーンズが1位、ブルー・コメッツが3位、ドリフターズが何と5位という人気者揃いだった(因みに平岡精二クインテットが8位)。
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午後6時45分 | ビートルズ、キャデラックでホテルを出発。約5分後に武道館に到着。 |
午後7時35分 | ビートルズのコンサート始まる(第1回)観客席の通路には私服の警官550人、制服の警備員が占め、観客は立ち上がることも禁じられた。しかし興奮の坩堝となった会場では4人が頭痛などを訴え救護所で手当てを受けた。演奏曲目は別掲。日本テレビがビデオ収録したが「観客席が写っていない」とエプスタインからのクレームで放送されず、エプスタインがテープを持ち帰った。後にこのビデオは日テレ系のレコード会社バップがVHSソフトとして発売(現在は廃盤)。 |
午後8時5分 | 11曲を演奏し終演。ビートルズはステージから直接駐車場へ。キャデラックでホテルに戻る。部屋で夕食。 |
午後9時30分 | メンバーの数人はスチームバスへ。 |
午後10時 | ジョンを除く3人がホテル内の従業員用エレベーター地下一階の調理場を通ってナイトクラブ「スターヒル」に現れる。ビブラトーン奏者の平岡精二のバンドが演奏していたが、ビートルズが「演奏していいか?」と頼み、店がその場にいた客に事情を話し、店を締め切って彼らに飛び入り演奏をしてもらった。左利きのポールに合ったギターは無かったが、リンゴはドラムを叩いた。曲名は不明。ビートルズの演奏を至近距離で見られたその場にいた客は本当にラッキーだ。ポールはまた真夜中に紅真珠の間にあったヒルトン特注の銀色のピアノを弾きに行っている。 |
7月1日(金) 午前10時半 | テーラー山形屋の宮川、スーツの仮縫いのため部屋に再訪問。デザインについてはビートルズからの要望は特に無く全面的にまかされ、当時流行のコンチネンタルスタイルに仕上げた。それにしても背広の本場の国からやって来てこんな忙しい間にわざわざ日本でスーツを仕立るとは。(因みに「背広」の語源はロンドンのセビルロー通りから。アップルの本社はこの通りにあった) |
午前11時 | ジョン、カメラマンのロバート・ウィテカーに成りすまして車でホテルを抜け出す。原宿のオリエンタル・バザーと麻布材木町の朝日美術店、南青山の北川象牙店に立ち寄り、漆塗りの彫り物・中国製飾り玉・香炉などを購入(しめて500万円くらい!)。朝日美術店の経営者・若山秀子の証言では「ピンクのキャデラックで突然やって来た。30分くらいジョンと話しているうちに外に停めてあったキャデラックを見つけたファンが殺到し、警察が交通渋滞になるので出てくれと言われた。ジョンを裏口から逃がした。その時、『土足のままでいいの?』と聞かれた」。正午ごろホテルに戻る。朝日美術店はその後いくつか古美術品を持ってホテルを訪問。若山「ビートルズは公演が終わって部屋に入るとすぐ靴を脱いでくつろいだ。ジョンは骨董品を並べたところにすぐに駆け寄って観ていた。ひとつずつ次々とこれはどういうものか?と質問していた。ジョンが選ぶものはすべて良い物ばかりで、どこかで日本美術を観てきたのかそれとも直感なのか?びっくりした」云々と証言。ジョンが一番気に入ったのは香炉で100万円で購入している。 |
午前11時 | ポールがロードマネージャーのマル・エバンスを連れて黒いトヨペットでホテルを脱出。明治神宮、神宮外苑を通って皇居前広場へ到着。車から降りて二重橋まで5分ほど散歩。しかし報道陣が追跡し、警官の説得で車に戻る。わずか45分たらずの外出だった。 |
午後1時 | 日本のビートルズファンクラブ(BFC)会長、下山鉄三郎(映画館松竹セントラル支配人)、通訳の会田公が訪問。BFCはここで公認クラブとして認められ、日本のファンのために描いた絵をビートルズから受け取る約束をする。下山はジョージから日航のハッピを譲り受けた。 |
午後2時 | 日本武道館、昼の部開演、オープニングアクト始まる。 |
午後3時 | ビートルズの公演始まる(第2回)。セットリストは1日目と同じ。日本テレビが収録。3時35分で終了し、メンバーらは武道館の貴賓室で夜の部までの時間を過ごす。 |
午後6時30分 | 夜の部開演、オープニングアクト始まる。 |
午後7時30分 | ビートルズの公演始まる(第3回)。午後8時3分終演し、一行は待機していた車でホテルに戻る。 |
午後9時 | 日本テレビ系列で特別番組『ザ・ビートルズ日本公演』が放送される。視聴率は関東59.8%、関西46.1%。街頭テレビは通常9時までだが1時間延長され、新橋でおよそ200人、上野公園で80人が観る(この時間帯では日本放送史に残る記録)。もちろんビートルズもエプスタインとともに部屋で観た。 |
午後10時 | マスコミにはオフレコで5人の赤坂の芸妓が訪問、唄や舞を披露するが、あまりの「ゆったり感」にビートルズの連中は眠気をもよおし、半ばで帰ってもらう。 |
午後11時 | メンバー数人がホテル地下のスチームバスへ。 |
7月2日(土) 午前11時 | おみやげ業者が部屋を訪問。みやげ物の購入や絵を描いて過ごす。ジョンはメガネを購入。 |
午後0時 | 『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長と長谷部宏カメラマンが部屋を訪問(単独で取材できた唯一のマスコミだった)。読者人気投票で1位になったので記念の盾を手渡す。星加「当時赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』のイヤミの「シェー」のポーズを教えたらジョンとポールが乗ってやってくれた(シェーをするジョンの写真が残っている→『ミュージック・ライフが見たビートルズ)」。しかしリンゴは「こんなに稼いでいるのにいったいどこで金を使えばいいんだ?」、ジョンが「世界中に行っても窓から見る景色しか知らない。もう解散だ!」とヒステリーを起こして叫ぶのを聞いた。エプスタインから「今の発言は絶対に書くな!」と真顔で頼まれたという。星加らは午後2時15分ごろまでインタビューなどをし、4人が描いた絵を貰ったが、部屋に置き忘れてしまった。 |
午後2時 | 昼の部開演。オープニング・アクト始まる |
午後2時20分 | ビートルズ、ホテルを出発。およそ5分で武道館に到着。 |
午後3時 | ビートルズのステージ始まる(第4回)。 |
午後3時35分 | 終演。夜の部まで楽屋で過ごす。楽屋には楽器屋などが訪れて売り込みをする。 |
午後6時30分 | 夜の部。オープニング・アクト始まる |
午後7時30分 | ビートルズのステージ始まる(第5回)。ジョンは丸いサングラスをかけていた。 |
午後8時3分 | 終演。この日救護所に運ばれたのは18人。これですべての公演が終わり、ビートルズは楽屋に戻らず直接車でホテルへ。機材は羽田空港の国際貨物に運ばれた。 |
午後10時 | 音楽評論家湯川れい子、週刊読売の契約記者として「武道館」と日本語で書かれた腕章を渡すという名目で部屋を訪問。(公式な取材ではないのでいつ追い出されるか内心どきどきしながら)30分ほど会談。カメラマンの同行が不可だったため、持参のカメラでリンゴとツーショットの記念写真を撮り、絵を貰った。湯川談「何かと気を遣ってくれるのはポールで、言いつけられて椅子や何かを持ってくるのはジョージだった。1枚残ったフィルムでリンゴと一緒に撮りたいと言ったら、リンゴは真っ赤になってうれしそうにしていた。ジョンだけは端っこで無愛想にしていた」。湯川がビートルズ解散後何年かたってダコタアパートに訪ねた時、湯川「ホテルでのあなたは冷たかったわね?」と聞いたら、ジョンは「あの時の僕は何もかもうんざりしていたんだ」と答えたという。ビートルズの連中との全会話は回想録『湯川れい子のロック50年―見た!聞いた!会った!世界のスーパースター達』に掲載されている。 |
午後11時 | メンバーはホテル内のナイトクラブ「スターヒル」に行く。ピアノなどを弾いてくつろぐ。 |
7月3日(日) 午前0時 | 羽田空港に警備体制が敷かれ、見送りに来た約2000人のファンが追い返される |
早朝 | テーラー山形屋、仕立てあがったスーツを届ける。メンバーが試着し購入。1着46,000円のところ35,000円に割り引いたそうだ(しつこいが大卒初任給平均が24,900円の時代ですぞ)。その後ヒルトン地下のおみやげ物屋で象牙の中をくりぬいて作った彫刻を1ダース購入。 |
午前9時40分 | ビートルズ、部屋をチェックアウト。3分後にキャデラックでホテルを出発。もちろん警視庁の交通規制下。 |
午前10時7分 | 一行は約千人の警官・機動隊に守られた羽田空港に到着、日本航空機ダグラスDC8「鎌倉」に乗り込む。 |
午前10時43分 | 一行を乗せた飛行機が離陸。次の公演地、フィリピンのマニラに旅立つ。日本に滞在したのはのべ約103時間。結局警備にはのべ8,000人が動員され、補導されたティーンエジャーは合計6,500人を越えた。 |
ビートルズ来日時の演奏曲目と使用楽器、トリビアについてはパート2へ!
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