ビートルズ来日パート1(日本外交史外伝)
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beatlesinjapanザ・ビートルズ来日パート1
1966年6月に行われたビートルズの来日コンサートにまつわる話題を特集
パート1は来日前後の出来事、来日に関わった有名人などを紹介しています。
ビートルズ来日時の演奏曲目と使用楽器、トリビアについてはパート2へ!


 

↑「ビートルズ 東京コンサート プルーフ ポスター」
  公演前後の出来事などを時系列で紹介
以下すべて1966年(昭和41年) すべて敬称略

主な資料は
ビートルズ・レポート―東京を狂乱させた5日間 (話の特集?完全復刻版)
PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2006年 06月号 [雑誌]
ミュージック・ライフが見たビートルズ
プロモートについては
ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 (幻冬舎文庫)
熱狂の仕掛け人―ビートルズから浜崎あゆみまで、音楽業界を創ったスーパースター列伝
来日取材については
BEATLES 太陽を追いかけて (竹書房文庫)
ビートルズにいちばん近い記者 星加ルミ子のミュージック・ライフ』などが詳しくためになった。
(このページの一番下に参考資料一覧があります)
2月16日日刊スポーツ、「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」との記事を掲載。しかし東芝音工・石坂範一郎専務は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題だ」とコメントを出す。因みにこの石坂専務こそ坂本九の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり、その子息が後に東芝EMIに入社してビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクター、現ユニバーサルミュージック会長・音楽評論家・石坂敬一である。
3月3日英音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』、「ビートルズが夏に来日公演」の噂を報道。
3月14日ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインがパートナーのビック・ルイスを通じて日本の協同企画(現・株式会社キョードー東京)の永島達司に日本公演の協力を要請。当時エプスタインはビートルズの収益の25%を取ると言われていた。同じ頃、ビック・ルイスのアシスタントラルフ円福(エンプク)というハワイのスポーツ関係のプロモーターが中部日本放送(CBC)事業部・佐久間一彌の元にも話を持ち込む。CBCはメトロポリタンオペラなどの大きな海外アーティストの招聘に実績があったため。
3月15日来日したEMI社長・サー・ジョセフ・F.ロックウッド、羽田空港での記者会見で「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と噂を肯定。ただし詳細は語らず。
3月22日協同企画の永島達司、ロンドンでエプスタインと交渉。永島は高額なギャラを想定し、「ビートルズを扱うことは名誉だし、入場料を1万円としても客は来るだろう。だがファンは未成年が多い。5千円でも負担が多すぎて弊害が生じるだろう」と考え、辞退するつもりだったという。ところがエプスタイン側から「日本公演は金儲けが目的ではない。むしろ入場料が高すぎてビートルズの評判が落ちることはこちらも望まない。ギャラの点は相談に乗るのでとにかく(ロンドンに)来て欲しい」と言われたという。その交渉の結果、エプスタインからはギャラは「1ステージ10万ドル」、「1万人以上収容できる屋内会場。入場料はティーンエジャーの負担にならないように6ドル(当時のレートで2,160円)以下」という条件が掲示された。これはビートルズが行ったコンサートの中でも最低の金額だった。実は前年行われたイタリア・ミラノのコンサートでは入場料が高すぎて2万人のところ7千人しか集まらなかったという失敗があったからである。
4月6日AP通信、「6月下旬から西ドイツ、日本、アメリカ、カナダでの演奏旅行にビートルズがでかける用意をしている。日本では数回コンサートする模様」と報じる。
4月7日日本の『ミュージック・ライフ』誌、ロンドンのエプスタインのオフィスに確認の電話をする。秘書のウェンディ・ハンソンは「コンサートの日程・場所・宿泊場所などは未定。あと1週間くらいですべて決まる。混乱を抑えるため前売り券の発売日に合わせて発表します。ただ、6月30日前後に日本に行くのは間違いない」などと返答があった。
4月9日毎日新聞夕刊で「ビートルズは6月末来日が濃厚になってきた。来日すればカラヤン以上の話題になるだろう」云々と報道。
4月14日毎日新聞夕刊などがビートルズ来日公演の詳細を発表。「日本では中部日本放送と協同企画が協同主催する。主催者から大蔵省に申請している外貨(8万ドル)の許可が下りればビートルズは6月28日来日、30日、7月1日・2日の3日間東京の日本武道館で公演を行う」
4月26日永島、19日に渡英、詳細を交渉の末、永島の誕生日に合わせこの日エプスタインと契約書を交わす。
4月27日読売新聞紙上でビートルズ来日実現の正式発表が行われる。「我が国音楽界の最大の話題であり、音楽愛好家にとってまさに千載一遇の機会であります。ご期待ください」
5月3日公演の日程・チケットの入手方法が正式決定。公演は4月14日の報道通り、30日、7月1日・2日の3日間。ただし1日・2日は昼・夜の2回公演で計5回。武道館ではアリーナ席には入場させず、一回の公演に1万人限定。入場料は2100円、1800円、1500円の3種類。窓口でのチケット販売は一切行わず以下の入手方法が取られた。
1.主催者の読売新聞社に往復はがきで申し込む。(3万枚)2.協賛のライオン歯磨、東芝音楽工業、日本航空の3社の応募要領に従って応募する(2万枚)
5月5日〜5月10日チケットの応募期間。読売新聞社には一日に2万通の往復はがきが届き、すべての会議室がハガキの山に埋もれてしまう。(他社も同じような状況)
5月12日読売新聞朝刊12面に全面広告が掲載される。スポンサーのライオン歯磨による「歯磨き、または制汗剤ヴァンの空き箱を送るとビートルズ公演のチケットが当たる!」という懸賞の広告であった。
5月17日ハガキの抽選会が行われる。集まったハガキは20万8825枚。
5月20日AP電が「ビートルズは混乱を避けるため羽田に降りず、チャーターしたヘリコプターで立川あるいは大阪か名古屋に降りること、29日ではなく別の日にすることも検討中」などと報道。
5月25日日本武道館、ビートルズ公演を認可。当時読売新聞社事業部・企画部の鈴木啓正は武道館に「英国女王陛下から勲章をもらった芸術家に貸してもらいたい」という口説き文句を使ったという。右翼団体の反対運動や国会でも議論となった日本武道館借用問題に一応の決着が付く。万が一使えなくなった場合の代替の会場として後楽園球場が候補となる。永島はニューヨークでエプスタインにその旨を伝えていた。
5月26日この日発売された「サンデー毎日6月12日号」で、主催者の読売新聞社主で日本武道館館長の正力松太郎が「ペートルなんとかというのは一体何者だ?そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」と発言。これは長い間ビートルズファンには有名な「迷言」として知られていたが、後年になって下記のような事実が分かった。
5月29日TBSの『時事放談』で細川隆元小汀利得「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言、全国のファンから抗議の電話とハガキが殺到した。右翼などからも同様のビートルズ反対運動が起こっており、正力松太郎もその急先鋒と言われていたが後年、彼の許可で日本公演が実現したらしいことが分かった。永島談「あとは正力さんが政治家や右翼を説得。警察庁にも国力を挙げて警備をしてくれるようにと長官を口説いて約束させたというのですから、大変な力だったわけです」
6月9日読売新聞に、日本武道館理事長の赤城宗徳の声明が発表された。「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場であるので再三お断りしましたが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することになりました」
6月10日再び『時事放談』で細川と小汀が「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチ○イ少女ども」などと発言し放送局に抗議が殺到した。
6月19日警視庁少年課、大阪から家出して来たビートルズファンの二人の少年を保護。警視庁はビートルズ対策会議を開き、「安保」「日韓」以来の警備体制を敷くことを決定。この頃、全国の中学・高校の教師・PTAがコンサートへは行かないように生徒たちに通達するなど、問題が広がる。
6月20日TBS報道特別番組『話題をつく』で、『時事放談』の決着をつけようと若いビートルズファンをスタジオに招き、細川らと対談をさせる(放送は27日)。細川らの差別用語が飛ぶ大論争になって大きな話題となる。同日警視庁は暴走ファンの取締りを開始、非行少年・少女683人を補導する。
6月25日ビートルズからのメッセージ「歓迎していただくのはうれしいですが、どうか節度を持って静かに聞いて欲しいです」云々が届き、翌朝の読売新聞朝刊に掲載される。
6月27日ドイツ公演を終えたビートルズ一行は日航ビッカースバイカウント機412便「松島」に乗り日本に向けて出発。
6月28日28日夜の到着の予定だったが、台風4号の影響でアンカレッジで12時間待機状態。この間、日本では警視庁が空港はもちろん、高速道路も一般客の立ち入りを禁止し、羽田空港に向かうタクシーを片っ端から止めて、午前2時までにファンと思しき約250人を追い返した。その他千人に及ぶファンを検問その他で締め出した。
6月29日(水)
午前3時39分
ビートルズの乗った日航機が羽田の31番スポットに到着。日航から贈られたハッピを着たビートルズの4人がにこやかに手を振ってタラップを降りてくる。それを見ることが出来たのは関係者と250人の報道陣だけであった。一行を載せたピンクのキャデラックは、独占放送権を得た日本テレビのカメラクルーを乗せた車と、警備陣のパトカー前後5台に囲まれて、滑走路から直接高速へ(国賓並み!税関パス!)。そのまま夜明けの東京の街を駆け抜け(およそ20キロの道を19分10秒で)、東京永田町の東京ヒルトンホテルに入った。エプスタインが道を見て「日本は車が無いな…」と言ったそうだが、それは彼らのために交通規制されていたからだ。4人は10階(最上階)のプレジデンシャル・スイート(1005号室)に投宿。クルーらも10階を貸し切って宿泊。9階以下のほとんどの部屋は報道陣が借り切って、何か情報が流れる度に彼らが駆け回った。新進カメラマン浅井慎平が正式カメラマンとして選任され、以後離日までメンバーに密着して撮影を行う。
午前7時30分一行は仮眠。8時にはNHKニュース、『小川宏ショー』その他の番組で到着の模様を報道。
メンバーは11時にルームサービスの朝食(グレープフルーツジュース、スクランブル・エッグなど)を取る。
午後12時原宿グリーンファンタジアの真珠屋が訪問。永島からメンバーへの歓迎のプレゼントのために呼ばれた。ビートルズは愛妻のために真珠を選ぶ。ポールだけは義妹のためにブローチを選んだ。
午後3時ヒルトンホテル紅真珠の間で記者会見が行われる。その直前にE.H.エリックによるインタビューが行われる(1日の日本テレビ特番で放送される)。会見場には国内外の記者123社216人、カメラマン約70人が集まる。個別のインタビューには一切応じず、3団体の代表(東京音楽記者会、雑誌芸能記者クラブ、日本外国特派員協会)からの質問に限られた(質問者は内外タイムス文化部小坂、文藝春秋社小田切と外国を代表してロイター通信東京支社長ケビン・ギャリー)。
会場には雛壇が設けられ、左からジョン、ポール、ジョージ、リンゴの順で並んだ。マネージャーのエプスタイン、ビック・ルイス、広報担当のトニー・バロー、読売新聞企画部中山久人次長も同席。インタビューの前に10分程度のフォトセッションが行われた。質問の内容などについては「ユニオシの日記」を参照のこと。司会は読売新聞の伊藤(事業本部企画部員)。通訳(永島)による明らかな意思の不通とマイクなどのトラブルが多発し、何度か中断の不手際があった(今では考えられないが)。午後4時45分終了。
午後5時から6時イギリス大使フランシス・ランドール卿が表敬訪問。続いて加山雄三と東芝音楽工業の石坂範一郎専務、高嶋弘之ディレクターが訪問し会談と会食(石坂、高嶋はエプスタインと会談)。
加山「僕のLP『ハワイの休日』を持っていったらステレオでかけるので照れくさかった。その後彼らの新しいレコードを聞かせてくれた。日本食は何が一番?というので「すき焼き」と答えたら早速用意されて皆で食べた。僕が卵につける食べ方を教えた」。
さすが若大将(映画の若大将はすき焼き屋のせがれという設定である)、卵に浸けて食べることを教えたが、誰も箸を上手く使えず、肉を一本の箸で刺して食べたそうだ。ジョンは椅子をどけて床に正座しテーブルに顔をのせて食べた。加山が「それは行儀が良くないよ」と言ったらジョンが「僕は今日本人の気持ちを味わっているからいいんだ」と言ったという。「誰かが絵を描きたいと言い、水彩画で4人が30分以上は描いていた。俺の心の中には彼らが俺の前で絵を描いたという誇りがある」などと証言。新作とは何だか不明だが6月10日に発売された『ペイパーバック・ライター』か?
午後8時メンバー数人がホテル地下のスチームバスへ。その後部屋で夜食。
午後9時30分フジテレビ『スター千一夜』で記者会見の模様を、10時45分には日本テレビ『11PM』で『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長とファンらが出演した特番が放送される。
6月30日(木)
午前3時
一行就寝。
午前10時日本武道館に一番乗りのファンが現れる。
午前11時午前中は全員で鎌倉から箱根までドライブする予定だったが警視庁の反対に会い断念。ブランチ中、テーラー山形屋の宮川健二が訪問。メンバーのスーツを仕立てるため全員の採寸とデッサンを行う。これはスーツ好きなポールが山形屋の噂を聞いて呼んだとのこと。宮川はメンバーが日本の謡曲のようなものを聴いていたと証言。
みやげ物業者もやって来る。後に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに登場する福助人形などを購入(この福助人形は今もヨーコ・オノの自宅台所にあるそうだ)。
午後5時武道館開場。警官と機動隊1,700人、装甲車40台、ジープ、パトカーなど70台を導入、付近の警備に当たった。
午後6時40分E.H.エリックの司会により日本人ミュージシャンによるオープニングアクトが10分遅れで開始される。ミュージシャンと曲名は以下

ボーカル:尾藤イサオ内田裕也、演奏:ジャッキ−吉川とブルー・コメッツブルージーンズ(この時寺内タケシは契約の問題で不在。一説に裕也さんと大喧嘩中で共演を拒んだとも)
『ウェルカム・ビートルズ』(コンサートのために作られたオリジナル曲でブルコメの故・井上忠夫作。三原綱木によるとビートルズのコード進行を真似たという)

ザ・ドリフターズ
『のっぽのサリー Long Tall Sally』(6月30日の夜公演、7月1日昼の部の2回のみ)言わずと知れたコメディグループ。前座用のステージではなく、ビートルズと同じステージに登場。これは「待望のビートルズ登場!と思わせて実は…」という演出だったらしい。


ドリフ at 武道館(1966) 増補版

望月浩
『君にしびれて』
1965年、17歳でデビューした青春歌謡、エレキ歌謡で大人気のアイドル歌手。

桜井五郎(曲不明) ブルージーンズと共に活躍したロカビリー歌手。レイ・チャールズやリトル・リチャードのカバーを得意とした。バリー・マクガイアのカバー曲でソロデビュー。デイブ・クラーク・ファイブのカバー『若さをつかもう』などのヒットがある。後、プロデューサーになり、テレサ・テンを育て、萩原健一のマネージャーなどを務めた。また映画製作などにも関わっている。

この他尾藤イサオ『ダイナマイト』、内田裕也『朝日のない街』、ブルーコメッツ『キャラバン』などを演り、前座だけで合計約1時間半あった。


ザ・ビートルズ - 武道館コンサート前座 [最長版]
前座の出演者は当時最大の芸能プロだった渡辺プロダクションが仕切ったが、全員ノーギャラであった。
今では忘れられてしまった人もいるが、1966年の『ミュージック・ライフ』誌の人気投票では日本の歌手部門で望月浩が3位、尾藤イサオが4位、内田裕也が8位(因みに1位は坂本九)、バンド部門ではブルージーンズが1位、ブルー・コメッツが3位、ドリフターズが何と5位という人気者揃いだった(因みに平岡精二クインテットが8位)。
午後6時45分ビートルズ、キャデラックでホテルを出発。約5分後に武道館に到着。
午後7時35分ビートルズのコンサート始まる(第1回)観客席の通路には私服の警官550人、制服の警備員が占め、観客は立ち上がることも禁じられた。しかし興奮の坩堝となった会場では4人が頭痛などを訴え救護所で手当てを受けた。演奏曲目は別掲。日本テレビがビデオ収録したが「観客席が写っていない」とエプスタインからのクレームで放送されず、エプスタインがテープを持ち帰った。後にこのビデオは日テレ系のレコード会社バップがVHSソフトとして発売(現在は廃盤)。
午後8時5分11曲を演奏し終演。ビートルズはステージから直接駐車場へ。キャデラックでホテルに戻る。部屋で夕食。
午後9時30分メンバーの数人はスチームバスへ。
午後10時ジョンを除く3人がホテル内の従業員用エレベーター地下一階の調理場を通ってナイトクラブ「スターヒル」に現れる。ビブラトーン奏者の平岡精二のバンドが演奏していたが、ビートルズが「演奏していいか?」と頼み、店がその場にいた客に事情を話し、店を締め切って彼らに飛び入り演奏をしてもらった。左利きのポールに合ったギターは無かったが、リンゴはドラムを叩いた。曲名は不明。ビートルズの演奏を至近距離で見られたその場にいた客は本当にラッキーだ。ポールはまた真夜中に紅真珠の間にあったヒルトン特注の銀色のピアノを弾きに行っている。
7月1日(金)
午前10時半
テーラー山形屋の宮川、スーツの仮縫いのため部屋に再訪問。デザインについてはビートルズからの要望は特に無く全面的にまかされ、当時流行のコンチネンタルスタイルに仕上げた。それにしても背広の本場の国からやって来てこんな忙しい間にわざわざ日本でスーツを仕立るとは。(因みに「背広」の語源はロンドンのセビルロー通りから。アップルの本社はこの通りにあった)
午前11時ジョン、カメラマンのロバート・ウィテカーに成りすまして車でホテルを抜け出す。原宿のオリエンタル・バザーと麻布材木町の朝日美術店、南青山の北川象牙店に立ち寄り、漆塗りの彫り物・中国製飾り玉・香炉などを購入(しめて500万円くらい!)。朝日美術店の経営者・若山秀子の証言では「ピンクのキャデラックで突然やって来た。30分くらいジョンと話しているうちに外に停めてあったキャデラックを見つけたファンが殺到し、警察が交通渋滞になるので出てくれと言われた。ジョンを裏口から逃がした。その時、『土足のままでいいの?』と聞かれた」。正午ごろホテルに戻る。朝日美術店はその後いくつか古美術品を持ってホテルを訪問。若山「ビートルズは公演が終わって部屋に入るとすぐ靴を脱いでくつろいだ。ジョンは骨董品を並べたところにすぐに駆け寄って観ていた。ひとつずつ次々とこれはどういうものか?と質問していた。ジョンが選ぶものはすべて良い物ばかりで、どこかで日本美術を観てきたのかそれとも直感なのか?びっくりした」云々と証言。ジョンが一番気に入ったのは香炉で100万円で購入している。
午前11時ポールがロードマネージャーのマル・エバンスを連れて黒いトヨペットでホテルを脱出。明治神宮、神宮外苑を通って皇居前広場へ到着。車から降りて二重橋まで5分ほど散歩。しかし報道陣が追跡し、警官の説得で車に戻る。わずか45分たらずの外出だった。
午後1時日本のビートルズファンクラブ(BFC)会長、下山鉄三郎(映画館松竹セントラル支配人)、通訳の会田公が訪問。BFCはここで公認クラブとして認められ、日本のファンのために描いた絵をビートルズから受け取る約束をする。下山はジョージから日航のハッピを譲り受けた。
午後2時日本武道館、昼の部開演、オープニングアクト始まる。
午後3時ビートルズの公演始まる(第2回)。セットリストは1日目と同じ。日本テレビが収録。3時35分で終了し、メンバーらは武道館の貴賓室で夜の部までの時間を過ごす。
午後6時30分夜の部開演、オープニングアクト始まる。
午後7時30分ビートルズの公演始まる(第3回)。午後8時3分終演し、一行は待機していた車でホテルに戻る。
午後9時日本テレビ系列で特別番組『ザ・ビートルズ日本公演』が放送される。視聴率は関東59.8%、関西46.1%。街頭テレビは通常9時までだが1時間延長され、新橋でおよそ200人、上野公園で80人が観る(この時間帯では日本放送史に残る記録)。もちろんビートルズもエプスタインとともに部屋で観た。
午後10時マスコミにはオフレコで5人の赤坂の芸妓が訪問、唄や舞を披露するが、あまりの「ゆったり感」にビートルズの連中は眠気をもよおし、半ばで帰ってもらう。
午後11時メンバー数人がホテル地下のスチームバスへ。
7月2日(土)
午前11時
おみやげ業者が部屋を訪問。みやげ物の購入や絵を描いて過ごす。ジョンはメガネを購入。
午後0時『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長と長谷部宏カメラマンが部屋を訪問(単独で取材できた唯一のマスコミだった)。読者人気投票で1位になったので記念の盾を手渡す。星加「当時赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』のイヤミの「シェー」のポーズを教えたらジョンとポールが乗ってやってくれた(シェーをするジョンの写真が残っている→『ミュージック・ライフが見たビートルズ)」。しかしリンゴは「こんなに稼いでいるのにいったいどこで金を使えばいいんだ?」、ジョンが「世界中に行っても窓から見る景色しか知らない。もう解散だ!」とヒステリーを起こして叫ぶのを聞いた。エプスタインから「今の発言は絶対に書くな!」と真顔で頼まれたという。星加らは午後2時15分ごろまでインタビューなどをし、4人が描いた絵を貰ったが、部屋に置き忘れてしまった。
午後2時昼の部開演。オープニング・アクト始まる
午後2時20分ビートルズ、ホテルを出発。およそ5分で武道館に到着。
午後3時ビートルズのステージ始まる(第4回)。
午後3時35分終演。夜の部まで楽屋で過ごす。楽屋には楽器屋などが訪れて売り込みをする。
午後6時30分夜の部。オープニング・アクト始まる
午後7時30分ビートルズのステージ始まる(第5回)。ジョンは丸いサングラスをかけていた。
午後8時3分終演。この日救護所に運ばれたのは18人。これですべての公演が終わり、ビートルズは楽屋に戻らず直接車でホテルへ。機材は羽田空港の国際貨物に運ばれた。
午後10時音楽評論家湯川れい子、週刊読売の契約記者として「武道館」と日本語で書かれた腕章を渡すという名目で部屋を訪問。(公式な取材ではないのでいつ追い出されるか内心どきどきしながら)30分ほど会談。カメラマンの同行が不可だったため、持参のカメラでリンゴとツーショットの記念写真を撮り、絵を貰った。湯川談「何かと気を遣ってくれるのはポールで、言いつけられて椅子や何かを持ってくるのはジョージだった。1枚残ったフィルムでリンゴと一緒に撮りたいと言ったら、リンゴは真っ赤になってうれしそうにしていた。ジョンだけは端っこで無愛想にしていた」。湯川がビートルズ解散後何年かたってダコタアパートに訪ねた時、湯川「ホテルでのあなたは冷たかったわね?」と聞いたら、ジョンは「あの時の僕は何もかもうんざりしていたんだ」と答えたという。ビートルズの連中との全会話は回想録『湯川れい子のロック50年―見た!聞いた!会った!世界のスーパースター達』に掲載されている。
午後11時メンバーはホテル内のナイトクラブ「スターヒル」に行く。ピアノなどを弾いてくつろぐ。
7月3日(日)
午前0時
羽田空港に警備体制が敷かれ、見送りに来た約2000人のファンが追い返される
早朝テーラー山形屋、仕立てあがったスーツを届ける。メンバーが試着し購入。1着46,000円のところ35,000円に割り引いたそうだ(しつこいが大卒初任給平均が24,900円の時代ですぞ)。その後ヒルトン地下のおみやげ物屋で象牙の中をくりぬいて作った彫刻を1ダース購入。
午前9時40分ビートルズ、部屋をチェックアウト。3分後にキャデラックでホテルを出発。もちろん警視庁の交通規制下。
午前10時7分一行は約千人の警官・機動隊に守られた羽田空港に到着、日本航空機ダグラスDC8「鎌倉」に乗り込む。
午前10時43分一行を乗せた飛行機が離陸。次の公演地、フィリピンのマニラに旅立つ。日本に滞在したのはのべ約103時間。結局警備にはのべ8,000人が動員され、補導されたティーンエジャーは合計6,500人を越えた。
ビートルズ来日時の演奏曲目と使用楽器、トリビアについてはパート2へ!ビートルズ来日


日本の関係者・人名事典 星加ルミ子
日本の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』(新興楽譜出版社・現シンコーミュージック社)の当時の編集長。1965年6月にロンドンEMIスタジオで日本人ジャーナリストとして初めて単独会見に成功。着物を着て臨んだ3時間に及んだインタビューの模様は「ルミちゃんのパリ・ロンドン取材旅行」という記事で同誌に掲載され、部数を飛躍的に伸ばした。著書『ビートルズにいちばん近い記者 星加ルミ子のミュージック・ライフ』にはこの取材がきっかけで日本で人気に火がついて、ビートルズ側が「日本市場に興味を持ち来日公演をしたい」と考えたらしい。とにかくこの縁で来日時には『ミュージック・ライフ』のみ単独取材が許された。著書『太陽を追いかけて―ビートルズ・ロッキュメンタリー』『ビートルズとカンパイ!―わたしの出会ったビートルズ (ロック・ブック)』などにそれらの体験が語られている。
因みに『ミュージック・ライフ』の前編集長で新興楽譜出版社の創設者・社長の草野昌一は英EMIと強力なコネがありその辺の事情で「独占取材」が可能だったらしい。草野は漣健児(さざなみけんじ)という名で作詞家として活躍し『可愛いベイビー』などの洋楽の訳詞でよく知られる。ビートルズのコピーバンド、東京ビートルズが歌う日本語版『抱きしめたい』なども手がけていた。また、彼の弟草野浩二は東芝音工のディレクターで坂本九の『上を向いて歩こう』を製作した人物である。
meet the 東京ビートルズ』(←パロディなんかじゃなく大真面目にやっているので絶対に笑ってはなるまいぞ)
漣健児オフィシャルサイト

長谷部宏
シンコーミュージック社のカメラマン。『ミュージック・ライフ』の専属で日本人として初めてロンドンでビートルズを撮影した。洋楽アーティストを撮らせたらこの人の右に出る人はいない。ビートルズの他、クイーンホワイトスネイクキッスなどの写真集も出版している。チープ・トリックの名を世界的に高めた『at 武道館』のジャケ写も彼の手による。『長谷部宏写真集 THE BEATLES in MY LIFE (Shinko music mook)

正力松太郎
当時読売新聞社主で日本武道館館長。読売新聞の部数を飛躍的に伸ばし、日本テレビや巨人軍を育て、読売グループに君臨した実業家である。余り知られていないが実業家になる前は柔道家(名誉十段!)で警視庁のキャリアであり、敗戦直後はA級戦犯として巣鴨に収監されていた。葬式はもちろん武道館で行われた。『巨怪伝〈上〉―正力松太郎と影武者たちの一世紀 (文春文庫)

E.H.エリック
本名は岡田泰美といい、日本人父とデンマーク人母のハーフである。弟は俳優・岡田真澄。僕らの時代では「耳たぶを動かせる外人タレント」という認識。晩年は芸能活動を辞めたが、日本アムウェイの最高位販売員で億万長者だった。娘・美里は堺正章夫人だった。
E.H.エリック&岡田真澄兄弟の生い立ちなど詳しいことはミスター・ユニオシ著『ハーフマニア』で。
入門 ビートルズドリル (地球の歩き方)

永島達司
ビートルズ来日の最大の功労者。1926年-1999年5月2日。神奈川県生まれ。三菱銀行の常務だった父に伴い、ニューヨークやロンドンで育つ。早大を出て通訳として進駐軍に出入りして興行の世界を知り、1956年、内野二朗とともにプロモーターとして協同企画(現キョードー東京)を設立し、ナット・キング・コールなど大物歌手の招聘で実績を挙げた。ナンシー梅木や江利チエミらのマネージメントも務めた。ビートルズ来日公演を実現した時は40歳。その後、ポリスターレコード会長などを歴任。レッド・ツェッペリンマイケル・ジャクソンなども手がける。1999年死去。五木寛之の小説『梟雄たち(男だけの世界)』のモデル。伝記に『ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 (幻冬舎文庫)』、湯川れい子の『熱狂の仕掛け人―ビートルズから浜崎あゆみまで、音楽業界を創ったスーパースター列伝』がある。この2冊にはビートルズ来日公演までのいきさつ・裏話が詳細に語られている。

ラルフ円福
ハワイの日系人のプロモーター。大戦中は有名な米軍第100部隊に所属し日本と戦ったという経歴を持つ。白井義男のボクシング・タイトルマッチ、大相撲ハワイ巡業やローラーゲームの試合などを手がけ、ハワイでのミュージシャン公演のほとんどを手がけた。平尾昌章のハワイ公演などをきっかけに永島と知り合い、ビートルズ来日公演に一役買うことになった。

高嶋弘之
俳優・高島忠夫の弟でバイオリニスト高嶋ちさ子の父。東芝音楽工業でビートルズのディレクターを務め、数々の名邦題をつけるなど活躍した。ビートルズには石坂専務、加山と会いに行った。最初ジョンがいなかったのだが、ジョンはいきなり後ろから現れて加山を羽交い絞めにして皆を仰天させた。それはジョンのジョークだったのだが、これで一同の緊張感がほぐれて雰囲気がほぐれ和むことができ、「ジョンがリーダーだと感じた」と証言している(NHK・BS『日めくりタイムトラベル』より)。高嶋はビートルズ以外にもアダモクロード・チアリらを日本で流行させた人物。ビートルズに会った時の話は著書『「ビートルズ! 」をつくった男 (レコード・ビジネスへ愛をこめて)』に掲載されている。女性カルテットをプロデュースした『ノルウェーの森~ザ・ビートルズ・クラシック』というアルバムも必聴。

加山雄三
俳優・歌手・作曲家。二枚目俳優上原謙の長男。俳優として主演した『若大将』シリーズや黒澤明の『椿三十郎』『赤ひげ』などに出演し一世を風靡した。ビートルズ来日のこの年には自作自演の『君といつまでも』が350万枚のミリオンセラーとなり、まさに絶頂期であった。作曲家としてのペンネームは弾厚作。ビートルズと会った時の話は→『若大将の履歴書』に詳しい。『若大将キャンパス DVD-BOX』『加山雄三全仕事

湯川れい子
ジャズ、ロックの音楽評論家の草分けであり、また作詞家としてもよく知られており、1965年にはエミー・ジャクソンの『涙の太陽』をヒットさせている。アン・ルイス『六本木心中』、松本伊代 『センチメンタル・ジャーニー』、ラッツ&スター(シャネルズ)の『ランナウェイ』やポリスの例の『ドゥ・ドゥ・ドゥ・ダ・ダ・ダ』の訳詞も彼女の手による。永島とも当時親しく、来日公演のいきさつなどは『熱狂の仕掛け人―ビートルズから浜崎あゆみまで、音楽業界を創ったスーパースター列伝』などにも語られている。因みにこのページはこの本を大いに参考にさせてもらっている。ジョン・レノンが殺される数日前に電話でインタビューを行っていた。その時の話も『湯川れい子のロック50年―見た!聞いた!会った!世界のスーパースター達』に詳しく掲載されている。エルビス・プレスリーの大ファンであり、湯川自身の結婚の時は教会でエルビスに証人になってもらったほど親しかったそうだ。

下山鉄三郎
東銀座の松竹本社にあった松竹セントラルという映画館の支配人だった。ここで1964年8月にビートルズの映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!(ハード・デイズ・ナイト)』を上映した時、ファン名簿を作ったことが縁でビートルズ・ファン・クラブを結成、会長になった。当時の会員は231人。ビートルズの解散に伴い、ポールから「ファンクラブからサヨナラする」と手紙が届き、72年3月に解散したが最盛時には8,000人の会員がいた。

尾藤イサオ&内田裕也
関係者から堅く禁じられていたが、前座出演の後、ビートルズのステージを観た。ジョンが手を振ってくれたそうだ。その後プレゼントを持ってビートルズに会いに楽屋に潜入したものの、関係者に「何だお前ら、俺たちがこんなに苦労して警備しているのに」とか言われ止められてカチンとなり、内田は大喧嘩をしてしまい、会うことはできなかった。日本テレビの『ifの歴史書〜もしものヒストリー〜』という番組で「もしビートルズの来日が無かったら」というコーナーでは内田が「日本の音楽シーンは演歌とポップスとフォークだけだったろう」と答え、さらに「自分は安岡力也安岡力也 とチンピラになっていただろう」と笑いをさそっていた。
因みに内田はずっと後になってダコタハウスにヨーコを訪ねた時、ジョンに「実はあの時前座で…」と言ったらとたんに打ち解けてくれたそうだ。『ワーク・ソング(紙ジャケット仕様)
内田裕也こそ日本の音楽シーンにロックを取り入れた最大の功労者。近田春夫のインタビューに応える形で書かれた自伝『内田裕也 俺は最低な奴さ 』は日本ロック史にまつわる裏話が満載。裕也さんのヌードも満載なのでその手のマニアには必携の一冊だっ!因みに娘・也哉子と本木雅弘の結婚の際の仲人は上記・永島達司が務めている。

三原綱木
前座で出演したジャッキ−吉川とブルー・コメッツのギタリスト兼ボーカル。ビートルズと共演したいと申し出たが当然エプスタインに拒絶された。楽屋では完全に隔離されビートルズに会うことも見ることできなかった。楽屋のトイレに小さなスピーカーがあり、そこからビートルズの演奏が聞こえるのでそのスピーカーにカセットレコーダーをかざして盗み録りしたそうだ。「うまい!サウンドが良い!」と感じたという(NHK・BS『日めくりタイムトラベル』より)。因みにビートルズは彼らの演奏を聴いており「ギターがうまい」と感想を残している。三原はブルコメ解散後70年代初めに妻・田代みどりとつなき&みどり」を結成し『愛の挽歌』を大ヒットさせ、その後は郷ひろみバンドやニューブリードのバンドマスター・指揮者として紅白歌合戦の伴奏を担当するなど活躍をしている。

細川隆元
朝日新聞出身のジャーナリスト・政治評論家。TBS『時事放談』での保守派としての発言が社会に大きな影響を与えた。元内閣総理大臣・細川護熙、政治評論家・細川隆一郎は親戚にあたる。『ビートルズ・レポート―東京を狂乱させた5日間 (話の特集−完全復刻版)

小汀利得
日経新聞の編集局長、社長を歴任。ジャーナリスト、評論家として『時事放談』のレギュラー出演し毒舌ぶりを発揮した。通称「リトクさん」。『小汀利得―ぼくは憎まれっ子 (人間の記録)

平岡精二
ヒルトンでビートルズにステージを譲ったジャズミュージシャン。日本屈指のビブラトーン奏者で、MJQが来日した時に共演したこともある。自身のバンド「平岡精二とクインテット」、「平岡精二とブルーシャンデリア」では歌・作詞・作曲・トランペットなどもこなした。松尾和子への楽曲提供や旗照夫の『あいつ』、ペギー葉山のヒット曲『爪』『学生時代』の作者でもある。野村芳太郎監督の映画『素敵な今晩わ(1965・岩下志麻主演)』の音楽などもこなしている。『平岡精二~ナイトクラブの片隅で~

浅井慎平
早稲田の政経を出ているインテリのカメラマンで、映画監督やコメンテーターとしてワイドショーなどにも出演するマルチな人。関口宏司会のニュースバラエティ番組『サンデーモーニング』のレギュラーでお馴染み。ビートルズ来日の際のオフィシャルカメラマンに抜擢され、一躍名を高めたのが写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』。しかしビートルズ側から「写真集の出版は契約していない」と拒否され「幻の本」とされた。撮影の話は下にも。『東京ノスタルジー

草森紳一
コピーライター、エッセイシスト、編集者。浅井慎平とアートディレクターの鶴本正三(昌三)とともにビートルズ来日をドキュメントで綴った写真集を企画した。『随筆 本が崩れる (文春新書)

赤城宗徳
当時日本武道館理事長で来日公演を許可した人物。農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官等を歴任した政治家。因みに、安倍内閣で農林大臣を務めるも自宅を「事務所」として架空の事務所費を計上、問題となってわずか2ヶ月で辞めた赤城徳彦の祖父である。

ドリフターズ
前座に採用されたコミックバンド。当時のメンバーはいかりや長介、加藤茶、高木ブー、荒井注、仲本工事。仲本がメインボーカルだった。出演時間は20分という約束だったが、直前になって6分、さらに2分になって結局40秒になってしまったという。この映像は放送されず、ずっと「幻の映像」だったが、加藤茶が『いつみても波瀾万丈』に出演した時に初めて公開された(6月30日バージョン)。加藤は出演時間については同番組で以上のように証言していたが、いかりや長介の自伝『だめだこりゃ (新潮文庫)』にはビートルズファンの前で場が持つはずが無いので、いかりや自ら出演時間を短くするように頼んだというのが真相とのこと。また「退散!」の前に加藤が「馬鹿みたい」というのはアドリブだったそうだ。いかりやによれば自分たちが「日本武道館で演奏した最初の日本人アーティスト」とのことだが、前座出演者全員含めてそりゃそうだ。でも他の前座たちは特設ステージだったが、ビートルズと同じステージに立ったのはドリフだけだった。さらにいかりやは楽屋へ続く廊下でビートルズとすれ違い、誰かの楽器にぶつかったが興奮の最中だったのでよく分からなかったと回想している。会うことすら許されなかった内田裕也らと随分違う待遇ですな。

遠入昇
当時東洋レーヨン(現東レ)の広報宣伝部長(後に社長)。ヨーロッパ出張中に、ビートルズ来日の噂を聞き、ハンブルグから東京に向かう飛行機に関係者に頼み込んでビートルズと同乗。機内ではポールに「日本にもバッキンガム宮殿みたいなのはあるの?」と聞かれ、「皇居というのがある」などと会話をした(来日中ポールがホテルを脱出して皇居に向かったのはそのためと思われる)。飛行機を降りたとたん、女性週刊誌の取材攻めに遇い、機内で撮った写真は『ヤングレディ』編集部になかば強制的に持って行かれた。次の日発売の『ヤングレディ』には遠入による7ページの『ビートルズ同乗記』が掲載されていて驚いたそうだ。だがこの編集者の計らいで武道館の招待券を貰い観ることができた。ここで若い観客たちの興奮ぶりを見て、「ツイッギーを呼ぼう」と決心(え?何でツイッギー???)。この公演をきっかけに永島と知り合い、彼女を招聘。後の日本のミニスカートブームは彼の手による。『あのファッションは、すごかった!―いっきに読める日本のファッション史

山田英雄
東大卒の警察官僚。当時警視庁警備課長で来日中の警察の総指揮をした。武道館に隣接する千鳥が淵のお堀に警備船を配備し水中に異常が無いか調べさせたり、機動隊員たちに皇室警備や観閲式の正装用の白手袋を着用させ、ティーンエジャーらにプレッシャーを与えないように配慮した。館内の警備ではビートルズのすぐ近くで彼らを見ていた。「ビートルズは観客をもっと煽ろうとしていたが、それが出来ず不満そうな表情を浮かべていた」と証言している。この来日後、彼は着実に出世し、後に警察庁長官になり昭和天皇在位60年式典、第12回先進国首脳会議(東京サミット)などで過激派対策の警備の陣頭に立った。現在ポリスチャンネルの理事長を務める。http://www.police-ch.jp

以下公演を見に行った方々。

野坂昭如
「焼跡闇市派」を名乗る作家。この来日公演の翌年、『アメリカひじき・火垂るの墓』で直木賞を受賞した。この頃は放送作家、伊東温泉ハトヤのCMソングや『おもちゃのチャチャチャ』の作詞家として知られていた。後にはタレント活動(サントリーゴールドの「みんな悩んで大きくなった〜♪のCM出演が有名)、『黒の舟歌』『マリリン・モンロー ノーリターン』の歌手、参議院議員、コメンテーターなどマルチに活躍。

北杜夫
夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞した作家。『どくとるマンボウ』シリーズなどのユーモア小説でも人気を博した。歌人・斉藤茂吉の子で精神科医・斉藤茂太の弟でもある。自身も精神科医。来日公演を鑑賞し新聞に「ビートルズの姿が現れるや、悲鳴に似た絶叫が館内を満たした。それは鼓膜をつんざくばかりの鋭い騒音で、私はいかなる精神病院の中でもこのような声を聞いたことがない」といったコメントを発表した。

大佛次郎
鞍馬天狗』シリーズで知られる作家。新聞に「哲学的思索にふけようと思ってやってきた。谷川徹三君との約束でね。この中ではわたしが最年長だろう。やかましくてよく聞こえなかったのが残念だったが、クラシック音楽のコンサートのようにステージと聴衆とが別れていない点はいいね。こりゃスポーツみたいなもんだよ。わたしはこういうのにとても興味があるんだ。さすがにちょっと興奮もしたし、おもしろかった」というコメントを載せた。

遠藤周作
『白い人』で芥川賞を受賞した作家。『沈黙』は世界的にも知られ、ノーベル賞候補だったといわれる。通称「狐狸庵先生」。『週刊朝日』7月15日号に『ビートルズファンを弁護す』として寄稿している。「私はビートルズは昔の宗教的祭儀の変形だと思う。現在でも黒人の祭では踊りと音楽がクライマックスになると踊る者も観る者も一種のエクスタシーとヒステリー状態になる。ビートルズの音楽にはそれに似たものを少年・少女たちに与えているに違いない。しかし私は世間がなぜこれら少年・少女たちを非難するのか分からない。高校野球が終わって選手が泣けば大人たちは感動するが、ビートルズが終わって少女たちが泣けばおかしいという。少しもおかしくない。いいじゃないか、17歳や18歳ぐらいならこれくらい楽しんだって悪くはない。私の妹がたとえこの会場で叫んだり泣いたりしても、やってるなと思うだけだろう。」『狐狸庵交遊録 (河出文庫)

三島由紀夫
ファンだったわけでなく、「ビートルズ現象」を確かめたくて関係者に依頼して初日の南西1列C36・37で鑑賞。後日『女性自身』誌7月18日号に『ビートルズ見物記』と題して以下のように感想を述べている。「実は白状すると私は舞台に背を向けて客席を見ている方が余程面白かった。何のために興奮するか分からぬものを見てるのはちょっと不気味な感動である。ビートルズが良いの悪いのと私は言うのではない。また、ビートルズに熱狂するのを別に道徳的堕落だとも思わない。ただ30分の演奏が終わり、アンコールも無く、出て行けがしに扱われて退場する際、二人の少女がまだ客席に泣いていて腰が抜けたようにどうしても立ち上がれないでいるのを見た時には痛切な不気味さが私の心を打った。そんなに泣くほどのことは何一つなかったのを私は知っているからである。虚像というものはおそろしい。」

志村けん
高校をさぼって7月2日の昼公演を観る。チケットは同級生の女の子から「俺の方がビートルズに詳しいから観るべきだ」みたいなことで無理やり譲り受けたという。密かに小型テープレコーダーと双眼鏡型カメラを忍ばせていたが、テープには観客の歓声とベースのブ〜ンブ〜ンという低音ばかりで肝心の演奏はかすか。写真は豆粒くらいの4人しか写ってなかった。後に自身加入することになるドリフターズはこの日出演しておらず観ていない。『志村けんのバカ殿様 大盤振舞編 DVD箱(3枚組)

仲井戸麗市
古井戸→RCサクセションのギタリスト。通称チャボ。高1の時学校を早退して北西スタンド最上階に近い席で観た。ヒルトンホテルにも行ったが女性警官から「学校はどうしたの?帰りなさい」と注意された。しかし車で出かける4人を見たという。著書『だんだんわかった (角川文庫)』には公演の様子が細かく書かれていて、「リンゴの『アイ・フィール・ファイン』のバスドラムの踏み方が完璧で本物だった」などと記している。2009年に亡くなった忌野清志郎は当時中3で見に行っていない。

亀渕昭信
愛称は「カメ」。洋楽に詳しく、学生時代にアルバイトでニッポン放送に入り、そのまま番組構成とディレクターを務める。ビートルズ日本公演のパンフレットではハンブルク時代から新曲までのディスコグラフィを共同執筆した。業界関係者からチケットを入手しコンサートは3回は見た。「ビートルズからは、人と違うこと、自分の思ったことはきちっとやろうよ、という生きる姿勢を学んだ」と言う。その後オールナイトニッポンのパーソナリティで人気を博し、ニッポン放送の取締役から社長に就任。「ライブドア」の買収問題で再び「脚光を浴びた」。現在は相談役。『35年目のリクエスト?亀渕昭信のオールナイトニッポン

中村八大
ジャズピアニストであり、坂本九の世界的ヒット『上を向いて歩こう』や『笑点』のテーマの作曲者。「あまり気が進まないままに公演にでかけた。でも公演を聴いて感動した。長いヨーロッパ音楽の伝統が生かされ、非常に高度だと感じた」とのコメントが残されている。『明日があるさ~中村八大作品集

大島渚日本の映画監督のコーナーを参照ください)

司葉子(女優)
黒澤映画『用心棒』、成瀬小津小林映画などに出演する日本を代表する女優。

安倍寧
今も活躍する音楽評論家で、エイベックス・グループホールディングス株式会社顧問。ブルーマンのプロデュースなども手がける。『ショウ・ビジネスに恋して

安達瞳子(華道家)
NHK『連想ゲーム』の回答者なども務めた文化人だった。『安達瞳子の花一路

芥川也寸志(作曲家)
芥川龍之介の三男。『地獄門』『砂の器』などの映画音楽でも良く知られた。

加賀まりこ
(女優)当時22歳。招待席で鑑賞。隣は三島由紀夫だった。芝居少女だった彼女はまったく興味がなかったが、何か「金儲けのために作られたものでない」という匂いを感じて共感を持って見に行ったという。『とんがって本気

田宮二郎(俳優・司会者)
学習院大出身で英会話が達者で、『クイズ・タイムショック』の司会、ドラマ『白い巨塔』の主演財前五郎役などインテリ俳優として知られ人気があったが、後、鬱病になり猟銃自殺した。僕はこの人の映画『悪名』シリーズが大好きでありました。

川内康範
『月光仮面』の原作者であり、森進一『おふくろさん』の作詞者である。耳毛でも一世を風靡した(嘘)。『生涯助ッ人 回想録

草柳大蔵(評論家)
大宅壮一の弟子としてジャーナリスト、雑誌の編集者としても活躍。『現代王国論』『礼儀覚え書―品格ある日本のために』など著書多数。自殺したキャスター草柳文恵は娘。

二谷英明(俳優)
「ダンプガイ」の愛称で、石原裕次郎、小林旭らと日活の全盛時代を支えた。テレビドラマ『特捜最前線』の神代警部役で主演し人気を博した。妻は女優・白川由美、娘の二谷友里恵は郷ひろみの元妻だった。『特捜最前線【初回生産限定】 [DVD]

青島幸男(作家・放送作家・作詞家、タレント、国会議員、後東京都知事)
当時、『シャボン玉ホリデー』の構成を手がけ、「青島だあ〜」の台詞とともに出演していた。ドラマ『いじわるばあさん』の主演などマルチな活動で知られる。『人間万事塞翁が丙午 (新潮文庫)』で直木賞受賞。僕は小学校の頃、中野ブロードウェイに住んでいた青島に遇ったことがあるが、因みに僕の高校の先輩でもあった。『スーダラ節』の歌詞が好きだなあ。

中尾ミエ(歌手)
平岡精二の弟子で、洋楽のカバーを得意とし『可愛いベイビー』が大ヒット。当時ナベプロ三人娘の一人で稼ぎ柱の一人だった。何でもズケズケ言う性格で近年はバラエティショーなどでもてはやされた。『中尾ミエ ベストアルバム

梓みちよ(歌手)
宝塚からナベプロにスカウトされデビュー。『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットし清純派の国民的歌手となる。その後しばらく低迷が続いたが、『二人でお酒を』でイメチェンを果たした。この人も好き嫌いがはっきりしている人で、芸能界ではトラブルをたびたび起こし、「敵」も多い。『決定版 梓みちよ

大岡昇平(作家)
太平洋戦争に従軍し辛酸をなめた経験から『野火 (新潮文庫)』を執筆。他に『武蔵野夫人』や映画にもなった『事件』などの推理小説、フレッド・マックイーンが出演した『明日への遺言』の原作などの歴史小説、また翻訳などでも知られる。40歳過ぎて作家になった遅咲きの人だがこの人も好き嫌いが激しく論争好きで、文壇でしばしば他の作家と対立した。

ザ・タイガース沢田研二、岸部一徳、森本タロー、加橋かつみ、瞳みのる)
渡辺プロ所属のグループで、このビートルズ来日直後にデビュー。あっという間にGSで一番の人気アイドルバンドになった。岸部一徳は後に役者として開花。森本タローは音楽プロデューサー、瞳みのるは引退して慶応高校の漢文教師になった。『ゴールデン☆ベスト ザ・タイガース

ザ・ピーナッツ←詳細は「世界の日本人音楽家」コーナーで。この年、米国へ渡りエド・サリバン・ショーに出演した。因みに姉の伊藤エミは上記ザ・タイガースの沢田研二と結婚し引退した。

淡谷のり子 (シャンソン歌手・ブルースの女王)
元は東洋音楽学校声楽科を主席で卒業したクラシックの歌手であった。家計のため流行歌手となり、古賀メロディーや1937年に大ヒットした『別れのブルース』で一世を風靡した。ビートルズ来日の頃は日本歌謡界のボスのような存在。この人も下手な歌手を「歌手ではなくカス」などとボロクソにけなすなど歯に衣を着せない人だった。ビートルズについては「若い人たちの欲求不満の叫びを聞いているようであまりピンときません。第一頭を何とか刈り上げて欲しいですよ。でも一人一人は嫌ですけど、四人がよくハーモニーしてると思いました」という発言が残っている。『別れのブルース―淡谷のり子 歌うために生きた92年 (小学館文庫)

石原裕次郎 (俳優、歌手) 「海外の映画シーンで活躍する日本人スター」コーナーをご参照ください。

宇崎竜童 (作曲家・俳優)
ダウンタウン・ブギウギバンドのリーダーとしてボーカル・ギターを務め、『スモーキンブギ』『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(台詞の「あんたあの娘のなんなのさ」は流行語になった)や山口百恵の楽曲で一世を風靡。現在もJEROの『海雪』の作曲など第一線で活躍。奥さんで作詞家の阿木燿子は明治大学の軽音楽部で知り合った。『BLOSSOM-35th~宇崎竜童ベスト・ソングス・コレクション

加瀬邦彦 (ザ・ワイルドワンズのギタリスト、歌手・作曲家、音楽プロデューサー)
寺内タケシとブルージーンズ」のギタリストだったが、前座のバンドはビートルズとは遮断され彼らの公演が観られないと知り、ビートルズを観るためにわざわざブルージーンズを脱退したという。ビートルズ来日の直後、ザ・ワイルドワンズを結成。作曲した『想い出の渚』(ビートルズと同じ東芝音楽工業キャピトルレコードレーベル)が大ヒットした。加山雄三沢田研二のプロデューサーとしても活躍。『ビートルズのおかげです―ザ・ワイルド・ワンズ風雲録 あの頃の音楽シーンが僕たちのスタイルを生んだ

ザ・スパイダース(堺正章、かまやつひろし)
当時のスパイダーズはビートルズやフーのカバーバンドだった。彼らにも前座出演のオファーがあった。皆大喜びだったが、話し合って結局辞退した。ムッシュかまやつの証言では「本物には敵わないのがバレバレになってしまうから。コンサートは見に行ったが、前座に対する差別的な扱いがひどく、出なくてよかった」。『ザ・スパイダース:コンプリート・シングルズ

桐野夏生 (作家)
国際的にも注目を浴びている女性作家。1997年の『OUT』は米国エドガー賞にノミネートされ、ハリウッドでリメイクの噂もある。当時は東京在住の高校生。『抱きしめたい』でビートルズにはまったが、武道館で豆粒のような本物を見てかえって醒めてしまったという。『柔らかな頬』で直木賞を受賞。

財津和夫 (チューリップのリーダー、作曲家)
浪人中に福岡から上京してコンサートに行った。
「隣には男の子が座っていてコンサートが始まると感動のあまり泣き出して涙を白いハンカチでぬぐうんです。それを見て東京ってすごい(笑)って。男が男のアイドルを見て泣くなんて信じられなかった
財津はビートルズと同じレコード会社からデビューしたくて、自ら東芝音工に「営業」に行った。チューリップの大ヒット曲『心の旅』の歌詞の「汽車の中」のイメージはビートルズを観に夜行列車で17時間かけて上京した時の経験から。また、ビートルズのように他のメンバーで幅を広げたくて、いつもは財津がボーカルを取るところを姫野にまかせた。いきなりサビから曲を始めるというのも『シー・ラブズ・ユー』などの影響だそうだ。これらは当時の所属プロダクションのトップだった草野昌一(漣健児)のアイデアだった。『Tulip おいしい曲すべて 1972-2006 Young Days~


高田文夫 (放送作家)
中学・高校でビートルズの洗礼を受けバンドを結成。テレビ『勝ち抜きエレキ合戦』にも出演したというロック少年だった。高3の時に出版社の社長だった父のコネでビートルズ公演のチケットを獲得。高校で彼一人だけだったため、ヒーローのような扱いを受け、公演に出かける時は全校生徒から「がんばれ高田〜!」と見送られたそうだ(NHK・BS『日めくりタイムトラベル』より)。しかし実際ビートルズを見て、「演奏テクニックがたいしたことがない」と熱が冷め、以後「落語少年」になったという。ビートルズ→落語って…。『高田文夫のラジオビバリー昼ズ そんなこんなで20年(CD付)

萩原健一 (俳優、テンプターズのボーカル)
このビートルズ公演の直後日本で沸き起こったGSブームは上記タイガーススパイダース、そしてテンプターズの3大グループが支えた。とりわけジュリーこと沢田研二とこのショーケンこと萩原健一の人気は抜群だった。だからPYGで沢田とツインボーカルを組むというニュースに僕らはぶっ飛んだもんだ。しかし後に彼は俳優として『太陽にほえろ!』『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』といったテレビドラマ史に残る傑作に主演、映画でも黒澤映画『影武者』他で活躍した。大麻所持や恐喝容疑、女性問題などトラブルは多いが、強烈な個性と役者としての実力は日本屈指の人だと思う。面白すぎる自伝→『ショーケン

ばんばひろふみ (歌手、ラジオパーソナリティ)
公演当時は京都の高校生。この頃からアマチュアバンドを組んでいたが大学時代にデビューした。後フォークデュオ「バンバン」を結成、1975年に ユーミン作の『「いちご白書」をもう一度』が大ヒットし一躍有名になる。ソロとなってからは自作の『SACHIKO』がヒットした。また巧みな話術で人気を博し、特に深夜放送『セイヤング』での谷村新司とのコンビは絶品だった。歌手の平山みきと結婚(後離婚)。『DREAM PRICE 1000 バンバン+ばんばひろふみ 「いちご白書」をもう一度

平尾昌章(昌晃)(作曲家、ロカビリー歌手)
ビートルズ出現以前、日本のロックはミッキー・カーチス、山下敬二郎とこの人による「ロカビリー」が支配していたと言える。当時の人気は絶大だった。ビートルズ以後GSブームとなり、彼の出番が減ってしまってからは作曲家となり数々のヒット曲を手がけ、小柳ルミ子や五木ひろしら多くの歌手を育てた。1978年にはその弟子のひとり畑中葉子とデュオを組み、自作の『カナダからの手紙』を歌って久しぶりにヒットとなった。来日当時は永島がマネージャーであった。『今、甦るウエスタン・カーニバル ロカビリー三人男&3人娘 スペシャル・コンサート2005(DVD付)

松崎しげる (歌手・俳優)
日本人離れしたダイナミックな歌唱法で人気の歌手。ビートルズ来日当時はまだ高校生。大学時代に後にガロを結成する日高富明、堀内護とバンドを結成。その時芸能プロのマネージャーだった宇崎竜堂にスカウトされソロでデビュー。しかし『愛のメモリー』がヒットする1977年までは泣かず飛ばずで、数々のCMソングを歌って食いつないだ。特異なキャラはドラマやバラエティ番組でも引っ張りダコで、特に『噂の刑事トミーとマツ』での主演は印象的だった。左利きだが右利き用のギターをそのまま持ち替えて弾きこなす天才?「CMソングの帝王」「ディナーショーキング」などの異名も持つ。『エッセンシャル・ベスト

松本隆 (はっぴえんどのドラマー、作詞家)
当時慶応高校生。ビートルズの大ファンで、ドラムを始め、後に細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成した。この時、細野から「松本、詞を書け」といわれ作詞したのがきっかけで、「日本語ロック」界に新風を巻き起こし、バンド解散後は作詞家として活躍。太田裕美の『木綿のハンカチーフ』、寺尾聰の『ルビーの指環』、KinKi Kidsの『硝子の少年』などのヒット作を連発し、現在歌謡界に君臨する巨匠である。ビートルズに影響を受けてバンドを始めた頃の経験は小説微熱少年に描き、松本自ら映画化(監督・音楽)している。 この作品は「ビートルズ来日」が重要なファクターになっている。

阿久悠(作詞家・作家)
日本の歌謡界に君臨した作詞家。明治大学文学部卒なので僕の大先輩にあたる(専攻は違うけど)。来日当時は広告代理店に勤務、放送作家として活躍。日テレと緊密に仕事をしていたが、ビートルズ特番からははずされてしまい、くやしくて来日したその夜は「仲間と銀座カイワイで焼け酒」したようなことが自伝的小説『無名時代』とドキュメント『夢を食った男たち―「スター誕生」と歌謡曲黄金の70年代 (文春文庫)』に書かれている。また、ビートルズ来日は「ビートルズによって日本は文化的閉鎖性を自覚させられ、一気に自らを解放せしめるキッカケとなった記念すべき日であった」として自身が作詞家となったきっかけになったとし、日本人が持っていた価値観を一気にひっくり返し、「幕末の黒船」、「第二次世界大戦後の進駐軍」に匹敵する「第三の黒船」だとも記している。ピンクレディーのデビュー曲『ペッパー警部』は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』からインスパイアされている。

横尾忠則 (アーティスト)→「世界の日本人音楽家」をご参考ください。

芳村真理(モデル・司会者)
日本のトップモデルだったが、頭の回転の早い人で後に女優、テレビの司会者に転じて活躍した。特に『夜のヒットスタジオ』の司会は20年に及び、芸能界では姉御のような存在だった。かつてはミッキー・カーチスの妻だったがすぐ離婚。『真理のおしゃれタイム―ちょっとおしゃべり小粋な話

加藤登紀子(歌手)
当時、東大出身の女性歌手としてデビューしたてだった。NHKの番組『世紀を刻んだ歌イマジン』の放映時のゲストとして出演した時の話ではある新聞社から観に行ってレポートするようにという依頼を受けて行ったとのこと。「チケットが無く、ステージ後ろの奥から観て、聴衆の熱狂する雰囲気が全部見れて、まるで子どもが楽しんでいるようにギターをあちこち振って遊んでいた、そんなビートルズだった云々」と回想していた。この来日の年に『赤い風船』で日本レコード大賞新人賞受賞。その数年後大ヒットした1971年『知床旅情』で広く知られる。後に学生運動家・藤本敏夫との獄中結婚なども話題を呼ぶ。作曲家としても活躍し、石原裕次郎の『わが人生に悔いなし』、アニメ映画『紅の豚』(監督: 宮崎駿)のエンディングテーマ『時には昔の話を』なども有名。あのカーネギーホールで歌った最初の日本人女性歌手でもある。『青い月のバラード―獄中結婚から永訣まで (小学館文庫)

山本コウタロー(歌手、タレント)
彼は公演に行ったわけではないが、当時ヒルトンホテルの隣の日比谷高校生で、校舎からホテルの窓越しにビートルズのメンバーが手を振ってくれ、学校中で大騒ぎになったという。しかし実は全然関係ないホテルの従業員だったと分かって皆で大笑いしたなどと話していた。山本は一橋大学在学中に結成したソルティ・シュガーでデビュー。自身の名を使ったコミックソング『走れコウタロー』が一世を風靡するほどの大ヒット。その後ヒットには恵まれず解散するが、ウィークエンドを結成、『岬めぐり』1974年が大ヒットし再び注目を浴び、現在はラジオDJや司会者、地球環境問題に造詣が深く、白鴎大学教授としても活躍している。『ソルティ・シュガー茶歌集<走れコウタロー><走れコウタロー>

渋谷陽一
音楽雑誌『ロッキング・オン』の編集者・社長で音楽評論家。小学6年からビートルズに狂い始め、中学3年の来日時には、友達が譲ってくれたビートルズのチケットを持っていたのだが、父親の仕事で大阪在住だったため行けなかった。それがいまだに「怨念」として在るという。『文庫 ビートルズの軌跡

松村雄策(音楽評論家、ミュージシャン)
『ロッキング・オン』の創刊者の1人で、上記渋谷と違いちゃんと公演を見に行っている。10歳くらい年下の音楽評論家(当時小学生)が学校から帰ろうとしたらお祖父さんが校門のところで待っていた。「今日はビートルズが来る。危ないから一緒に帰ろう」と迎えに来ていたというエピソードをテレビ番組で話していた。著書『ビートルズは眠らない』には、気難しい外国アーティストやスタッフと初めて話をする時、「俺はビートルズのコンサートを観たことがある」と切り出すととたんに相手と打ち解けるような話が載っている。渋谷との「渋松対談」で「ビートルズを聴いた時からマージャンとゴルフとスキーとサーフィンはやらないって決めた」などの発言がある。小林信彦の小説『ミート・ザ・ビートルズ』をめぐる論争も有名。

鮎川誠(シーナ・アンド・ザ・ロケッツのギタリスト)
当時、福岡在住の高校生だったが、「ビートルズが乗った飛行機が台風を避けて福岡の板付空港に着陸するらしい」という噂を聞き、雨の中バイクで板付まで飛んでいったという。その後テレビ放送をかじりついて観、ビートルズが演奏を「いきなり始める」のがかっこよくて、「一生の信条になった」という。『'60sロック自伝

黒柳徹子(女優・司会者・ユニセフ親善大使)
『世界・ふしぎ発見!』の「ビートルズ来日特集」より。「2階の真ん中辺りで観た。ビートルズは(遠くて)ほとんど見えず。観客の歓声が凄くて音楽も何も聞こえない。阿鼻叫喚の中にいたという印象だがビートルズに行ったという感じはある」と証言。ビートルズ来日のこの当時は『サンダーバード』のペネロープ役の声優としても活躍していた。『トットチャンネル [DVD]

上田三根子(イラストレーター)
ライオン「キレイキレイ」 シリーズのイラストなどで知られる。当時埼玉の女子高校生。熱狂的なビートルズファンで7月2日の昼・夜両方を観ている。この公演で知り合った青年と後に結婚した。ライオン キレイキレイギフトセット LBH6L

友竹正則(声楽家)
「他の人がやらない音楽をいつも作っている。エリザベス女王は勲章をあげてよかった。そしてそのくせ、ひどく誤解されているのが面白い」とコメントを残している。(竹中労編『ザ・ビートルズレポート』より)本業は歌手だったがタレントや詩人としても活躍し、グルメ番組『くいしん坊!万才』では3代目レポーターを務めた人気者だった。

石坂浩二
俳優の他、司会、演出、油絵、作詞、翻訳、料理など博識でマルチな才能を見せる。当時は『ウルトラQ』『ウルトラマン』のナレーションで僕らにはおなじみだった。「とにかく周りの女の子がうるさくて演奏が聞こえなかった」と感想を述べている。さらに「近くの女の子が失神しそれに連鎖するように次々と失神してしまうのだが、彼女たちを運ぶ警官たちはうかつに触ることができないので摘むようにして運んで行った」そうだ。(NHK・BS『日めくりタイムトラベル』より)。NHKの大河ドラマに3度主演を果たし、テレビ『水戸黄門』の四代目黄門、市川崑監督作品では金田一耕介役などで主演するなど活躍中。元浅丘ルリ子の夫。著書に『金田一です。』など。
ビートルズ来日時の演奏曲目と使用楽器、トリビアについてはパート2へ!
ビートルズ来日

参考資料




参考資料については
『外国曲に描かれた日本とは!?日本を歌った外国曲パート1』ザ・ビートルズのコーナーにもあります。
↓日本ライブの映像(日本テレビで放送されたものではなく後にビデオソフト化されたエプスタインがNGを出した6月30日の版)


The Beatles - Live In Japan 1966 1_4
The Beatles - Live In Japan 1966 2_4
The Beatles - Live In Japan 1966 3_4
The Beatles - Live In Japan 1966 4_4

ジョン・レノンの死についてはこちらをご参考ください。

参考書一覧

参考書パート2

特集:
外国人が見る日本と日本人(前編)

特集:
外国人が見る日本と日本人(後編)

参考書パート4

CMで使われた洋楽

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