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外国と日本人
海外に渡り活躍した日本人、または支配・進出した日本人。外国の思想・文化・科学を学び日本の発展に寄与した偉人たち、外交に尽くした人などの特集ページです。古代〜幕末
明治時代以降はこちら
 
(生年〜没年)解説おススメ資料
倭奴国王
(倭の奴の国王:
わのなのこくおう)
(紀元前1世紀)
中国の史書である『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の初代皇帝・光武帝に倭奴国が使をよこし、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。この倭奴国の王が日本人として初めて文献に登場する人物であるが、名前や経歴などは一切不明で実在も永く疑問視されていた。しかし江戸時代に福岡・志賀島で農民・甚兵衛によって偶然発見された金印には「漢委奴國王」という刻印があり、これが倭奴国の実在を証明したとされる。また、107年には「倭国王の師升らが、中国の皇帝・安帝に生口(奴隷)160人を献上した」とあり、この「師升(すいしょう)」が日本史上、文献に最初に登場した日本人の名前とされているが、果たしてどのような人物であったかなど不詳である。
范曄著
全訳後漢書〈第1冊〉本紀1自光武帝紀第一至和帝紀第四

三浦佑之著
金印偽造事件?「漢委奴國王」のまぼろし
卑弥呼
(ひみこ)
(3世紀ごろ)
中国の史書『魏志倭人伝』に書かれている邪馬台国の女王。239年に中国・魏に使者難升米(なしめ)を派遣し、貢物を献上。魏はこれを喜び、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬を与えたとされる。卑弥呼は鬼道で衆を惑わし(シャーマンのようなものらしい)、夫はおらず、弟が国を治めるのを助けたなどの記述もある。卑弥呼の死後は巨大な墓を作り奴隷百人を殉葬した、その後は男の王が即位するが争いが生じたため、親族の少女台与(壱与)が新たに女王となりようやく争いが収まったなどの著述がある。いずれも中国や朝鮮の史書に記録されたもので、日本には一切の記録が残っておらず、また遺跡や遺物などの考古学的に確実な証拠も無い。従って現在も邪馬台国の場所が特定されず畿内説、北九州説などがあり、卑弥呼自体『記紀』では誰に相当するか?という議論も江戸時代から盛んで、天照大神説、倭途途日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)説、神功皇后など多数あるが詳細は不明。実在すら疑問視する向きもある。いずれにせよ日本史上屈指の重要人物にして謎の女である。
原文(読み下し文)は以下
「その国、もとまた男子を以て王となす。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴。乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。鬼道に事へ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」
「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はして郡に詣り、天子に詣りて朝献せむことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、もって送りて京都に詣らしむ。その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ」と。」
義江明子著
つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家 (ちくま新書)

加治木義博著
黄金の女王・卑弥呼―「真説」日本誕生 (ムックセレクト)

安本美典著
卑弥呼の謎 (講談社現代新書)

真保亮太郎著
卑弥呼は邪馬台国にいなかった (近代文芸社新書)

宮崎康平著
まぼろしの邪馬台国 第1部 新装版 (1) (講談社文庫)

松本清張著
邪馬台国 (講談社文庫―清張通史)
倭の五王
(わのごおう)
(5世紀ごろ)
『宋書倭国伝』など中国の史書に登場する日本の王で、5世紀ごろ(413年〜478年の間)に南朝の東晋や宋に少なくとも9回は朝貢し、その返礼に「倭国王」などと冊封された五人の王。この時代には日本はすでに朝鮮半島に進出し、百済と結んで加羅(任那)という地域を支配していた。しかし新羅・高句麗両軍の抵抗にあい、半島経営が苦しくなったため、中国の力を持って政治的立場を保障してもらうための朝貢であった。史書に讃、珍、済、興、武と表記された五人だが、古来から日本の天皇にどう当てはめるか研究されているが、まだはっきりしない。『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説や、讃は仁徳天皇、応神天皇説、また珍を仁徳天皇とする説などがある。
小林惠子著
広開土王と「倭の五王」―讃・珍・済・興・武の驚くべき正体

安本美典著
倭の五王の謎 (広済堂文庫)

神功皇后
(じんぐうこうごう)
(?〜269)
第14代仲哀天皇の皇后。仲哀天皇死後に住吉大神の神託により、臣の武内宿禰らとともに海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。帰国後は応神天皇を生み、以後摂政として69年間政治をとったとされる。多くの神社で祀られており、明治以後日本の朝鮮支配を正当化するために作られた伝説上の人物で「実在しない」という説もある。
日本で最初に紙幣に使われた人物(キヨソネ・デザイン)。
黒岩重吾著
女龍王 神功皇后(新潮文庫)

聖徳太子
(しょうとくたいし)
(574〜622)
用明天皇の第二皇子。別名厩戸皇子(うまやどのおうじ)、豊聡耳皇子(とよさとみみのおうじ)。高麗の恵慈、百済の慧聡から仏教を、覚煤iかくか・百済系の博士といわれる)から儒教を学ぶ。593年、叔母推古天皇の皇太子で摂政となり、政治を司った。、冠位十二階、「以和為貴」と謳った十七条憲法などを制定。601年、602年任那に攻め込んだ新羅に対して出兵(弟来目皇子の死去などで挫折)。607年、有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』)の文言を含む国書を持たせて隋の煬帝のもとに小野妹子を遣隋使として送り、大陸の文化の移入などに努めた。特に仏教興隆に尽力、仏典『三経義疏(さんきょうぎしょ)』などを著し、また四天王寺、法隆寺、中宮寺などを建立。日本の文化・技術の向上に大きく寄与した。日本史上屈指の天才と呼ばれ、数々の伝説や創作の物語が存在する。中には「架空の人物である」という説もある。
変な伝説はこちら
黒岩重吾著
聖徳太子―日と影の王子 (1) (文春文庫)

梅原猛著
聖徳太子 (1) (集英社文庫)

谷沢永一著
聖徳太子はいなかった (新潮新書)

池田理代子著
聖徳太子 (1) (中公文庫―コミック版)
小野妹子
(おののいもこ)
(?)
近江国の豪族の出身の政治家・外交官。詳しい人物像はわかっていないが『日本書記』『隋書倭国伝』によれば、607年、聖徳太子の命で遣隋使となり隋に渡り、皇帝煬帝に太子からの国書(正確には推古天皇の国書。「日出づる処の天子〜」の文言で知られる)を渡したとされる。翌608年に隋の使者・裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失または盗難されたとし(一説には屈辱的な内容だったのでわざと破棄した)、一時は罪を問われて流刑に処されるが、後恩赦されて大徳(冠位十二階の最高位)に昇進。 さらに翌年には隋への返書と裴世清の帰国のため、第3回遣隋使として高向玄理南淵請安らと再び派遣された。大化の改新後は、「国博士(くにはかせ)」に任命され、政治を補佐した。
新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
高向玄理
(たかむこのくろまろ)
(?〜654)
先祖は帰化人で、本名は漢人(あやひと)。遣隋使小野妹子に従って南淵請安、僧らとともに608年隋に渡り、隋が滅び唐に変わるのを目撃。請安とともに640年に帰国した。大化の改新で新政府の国博士となり八省百官を定めるなど活躍。654年に遣唐使として唐に渡るが長安で客死した。
(調査中)

(みん)
(?〜653)
学僧。「旻」は本名「日文」を一字で書いた過りとされる。608年小野妹子らと隋に渡り、24年間隋で仏教のほか易学を学び、632年日本に帰国。その後、蘇我入鹿・中臣鎌足らに「周易」を講じた。大化の改新後、645年に高向玄理とともに国博士に任じられ、八省百官の制を立案するなど活躍した。
(調査中)
南淵請安
(みなみぶちのしょうあん)
(?)
漢人系の帰化人。遣隋使小野妹子に従って608年隋に渡り640年に帰国した。『日本書記』によれば、帰国後には学者として中大兄皇子、中臣鎌足の師となり、律令にもとづく唐の中央集権国家体制や儒教などを教え、大化の改新の新思想に大きな影響を与えたとされる。しかし新政府の首脳には加わっていない。
(調査中)
阿曇比羅夫
(あずみのひらふ)
(?〜663)
阿曇山背比良夫とも記す。舒明天皇の下、百済に使者として赴く。舒明天皇の死後、642年に百済の弔使と追放された王子翹岐(ぎょうき)を伴って帰国。翹岐を自宅に招き保護したとされる。661年高句麗が唐の攻撃を受けると百済の救援するための軍の将軍となり、百済に再び渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋を王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに再々度百済に赴いた。663年の白村江の戦いで戦死し、死後は長野県穂高神社に祀られている。
白村江―古代東アジア大戦の謎 (講談社現代新書)
犬上御田鍬
(いぬがみのみたすき)
(?)
三田耜とも書く。614年、遣隋使として隋に渡り、翌年に百済の使者を伴って帰国した。630年には最初の遣唐使となる。2年の滞在を経て632年、唐使の高表仁を伴い学問僧らとともに帰国した。
(調査中)
道昭

(どうしょう)
(629〜700)
河内国出身の僧。653年、遣唐使として入唐し、『西遊記』で有名な三蔵法師・玄奘に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。660年頃多くの経典を得て帰国、奈良・飛鳥寺(元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学(日本の法相宗・南都六宗の一)の開祖となった。680年、天武天皇の勅命を受け、往生院(大阪府泉南市)を建立、その後全国を行脚して井戸掘り、道路・橋・池などの土木建築など社会事業を行った。698年大僧都(だいそうず)に任命され、その翌々年飛鳥寺の禅院で亡くなった。遺言により火葬にされたが、これが日本初の火葬と言われる。武術の達人で中国の武術を持ち帰った人物との伝説もある。行基は弟子。
(調査中)
道慈
(どうじ)
(?〜744)
702年、山上憶良などとともに唐へ渡り、西明寺で三論を学び、仁王般若経を講ずる高僧百人のうちに一人に選ばれた。718年帰朝し、奈良・大安寺に拠って南都六宗の一、日本三論宗を広めた。西明寺の伽藍を模して大安寺の造営を行った。『日本書紀』の編纂にも関与し、『愚志』を著して当時の仏教界を批判した。また、漢詩にもすぐれ『懐風藻』に入集している。
(調査中)
山上憶良
(やまのうえのおくら)
(660〜733?)
奈良時代を代表する歌人。下級役人の子とも百済からの帰化人とも言われている。701年遣唐使の一人として唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を学ぶ。帰国後は東宮侍講(皇太子(後の聖武天皇)の役人)を経た後、伯耆守、筑前守と国司を歴任。その間、唐の文化や学問を紹介し、歌を詠んだ。晩年には大宰府に赴き大伴旅人と親交を結んだ。旅人の妻の死をきっかけに人生や生活を深く見つめるようになり、老・病・貧・愛・無常などを詠った『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などを残す。万葉集には七十八首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。
村山出著
大伴旅人・山上憶良―憂愁と苦悩

谷口茂著
外来思想と日本人―大伴旅人と山上憶良

東茂美著
山上憶良の研究
阿倍仲麻呂
(あべのなかまろ)
(701〜770)
歌人であり、外国で活躍した日本人としては歴史に残る最初の人。若くして学才を謳われ、717年、19歳の時留学生として遣唐使に同行し唐の都長安(現在の西安(シーアン))に入る。同期の留学生には吉備真備玄ム、井真成がいた。難関で知られる科挙を受験して合格、唐の役人となり、玄宗皇帝(楊貴妃の夫としても有名)に気に入られ重用される。中国名を朝衡という。以後、ベトナム・ハノイに赴き役人を務めるなど異例の出世を果たし活躍をする。また、鑑真の来日に尽力し後進の遣唐使らに協力した。しかし仲麻呂は唐で学んだことを日本に持ち帰りたいと何度も帰国を願い出たが叶わず、許しが出たのはなんと入唐から36年後だった。だが結局は帰国できず長安で死去した。杜甫、李白、王維とも親交があったと伝えられ、残された詩はのち清乾隆帝勅撰の『全唐詩』にも収められている。故国日本への望郷の念で『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』という有名な和歌があるが、中国・西安にはこの歌の記念碑がある。
粂田和夫著
天の月船―小説・阿倍仲麻呂伝

林青梧著
阿倍仲麻呂の暗号

参考書は↓ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。
吉備真備
(きびのまきび)
(693〜775)
学者・政治家。吉備(岡山県)の豪族の出身。717年遣唐使の留学生として唐に渡り、19年に渡って儒教、天文学、兵法、音楽などを学び、唐でも学者として名を上げた。帰国時は多くの資料を持ち帰り、同時に帰国した僧玄ムとともに聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て出世するが、権勢を振るった藤原仲麻呂(恵美押勝)の妨害に遭い左遷させられる。752年再び遣唐使として入唐。この時は鑑真を伴って帰国した。後、藤原仲麻呂が反乱を起こした時にはこれを鎮めるのに尽力し、これが認められて右大臣まで上りつめた。
高見茂著
天平に輝く吉備真備公(吉備人選書3)

高見茂著
吉備真備 天平の光と影

宮田俊彦著
吉備真備 (人物叢書)
玄ム
(げんぼう)
(?〜746)
法相宗の僧義淵に学び、717年、吉備真備とともに入唐留学。法相宗を成唯識論の碩学智周に学び、時の玄宗皇帝からも重んじられたという。735年に帰国し五千巻の一切経を光明皇后に提出、聖武天皇の母(宮子)の病気平癒に成功し天皇の信を得て、2年後には僧正(大僧正に次ぐ位)に任命された。その後権勢を振るった橘諸兄のもとで真備とともに政治の中枢に入った。しかし、旧来の藤原系の勢力の反発を買い、740年に玄ム等の排除を要求する藤原広嗣の乱が起きた。乱はすぐに鎮められるが、玄ムはその後権力をつけた藤原仲麻呂により745年に太宰府の観世音寺に造観世音寺別当として左遷された。翌年観世音寺の完成によって落慶法要を執り行ったが、その日広嗣の残党に暗殺されたとされる。『今昔物語』などの伝説では法要中に落雷し玄ムの体がバラバラに裂け、頭は空高く舞い上がり消えた。人々は広嗣の霊による復讐と噂したなどとある。奈良市高畑町にある「頭塔(ずとう)」は、広嗣の怨念によって八つ裂きにされた玄ムの頭蓋骨が落下した場所という伝説がある。

最澄
(さいちょう)
(767〜822)
諡号は伝教大師。近江国の農民の生まれ。幼い頃から神童と呼ばれる聡明さで若くして出家し、東大寺戒壇院で具足戒を受け、いわゆるエリート僧侶となった。しかし当時の仏教界の主流南都と決別し比叡山に草堂を建て、ひとり華厳・天台の経典に没頭した。30歳の頃には高い評価を受け、宮中で天皇の護持などを努めた。804年、国選の遣唐使の一員(環学生)として入唐。仏教、密教などを学び1年後に帰朝。時の桓武天皇の大歓迎と支援を受け、天台宗を開き、比叡山延暦寺で布教に努めた。さらに大乗戒壇院設立を計画中、南都諸大寺の反対に会い挫折、不遇の中で死去した。しかし死後わずか一週間後に戒壇院が許可された。まもなく比叡山は仏教の界の頂点に立ち、後の法然、親鸞、道元など鎌倉仏教の名僧たちも学んだ。著書に『顕戒論』などがある。空海とは一生涯のライバルとされた。
梅原猛著
最澄と空海―日本人の心のふるさと (小学館文庫)

永井路子著
雲と風と―伝教大師最澄の生涯 (中公文庫)

栗田勇著
最澄〈1〉

空海
(くうかい)
(774〜835)
諡号は弘法大師。讃岐の豪族佐伯氏の生まれといわれる。幼い頃より漢学を学び後仏門に入る。大学で儒教・道教・仏教の三教を学ぶが、間もなく大学を中退、その後の動向は不明だが、24歳の時『三教指帰』を著し、仏教の優位性を説き当時の仏教界を瞠目させた。804年、最澄らが参加した遣唐使団に自費で参加、入唐を果たす。唐では優れた詩や書を披露し、大評判を博し言わば外タレのスーパースターのような扱いを受けた。3年あまりの留学で長安の諸寺を回り、インド哲学・サンスクリット語をはじめ密教・真言宗を学ぶ。とりわけ青竜寺の大阿闍梨恵果から密教の奥義をすべて授けられるという大収穫を得て帰国。3年間の空白期を経て高野山金剛峰寺、京都東寺を開き、真言密教の道場として当時最先端の学問でもあった密教を広めた。また教育の場として綜藝種智院を建立し、貴族だけでなく庶民の師弟を広く集め仏教のみならず儒教・道教を教えた。他の著書に『十往心論』『文鏡秘府論』などがある。書にも優れ嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられ筆跡は『風信帖』(国宝)などが残る。神秘的な伝説も多く、空海が修築・発見したという治水池や井戸(俗に弘法清水)・温泉が全国に残る。また「いろは歌」を作ったとも、お灸を広めたともいわれ、「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」などのことわざにもなった。聖徳太子織田信長と並ぶ日本史上屈指の天才。
空海「三教指帰」 (角川ソフィア文庫)

蓑毛政雄著
風信帖・潅頂記 空海 (奈良平安の書)

司馬遼太郎著
空海の風景(中公文庫)

梅原猛著
空海の思想について (講談社学術文庫)

松岡正剛著
空海の夢

山折哲雄著
空海の企て 密教儀礼と国のかたち (角川選書 437)
円仁
(えんにん)
(794〜864)
わが国最初の大師号で、慈覚大師(じかくだいし)ともいい、目黒不動として知られる瀧泉寺、山形の立石寺(山寺)、平泉の中尊寺、松島の瑞巌寺など全国の寺を開いた天台座主で山門派の祖。下野国に生まれ、9歳から大慈寺で修行を始め、15歳の時、唐から帰国した最澄が開いた比叡山延暦寺に入り、最澄に師事した。若くして三戒壇の一つ東大寺で具足戒を受けるなど頭角を現し、最澄から信頼を得る。838年、何度かの難破を経て最後の遣唐使として入唐を果たす。しかし天台山への入山許可が降りないため、遣唐使からははずれて自主的に滞在を決め、新羅人らの助けを得て五台山への入山を果たした。その後長安にも旅し、主に密教の研究と、多くの寺から灌頂を受け、また仏典や曼荼羅図などを得た。その後武宗皇帝による仏教排斥の勅令が下り、円仁に帰国の許可が下りる。この約10年に及んだ求法の遥かなる旅の記録は『入唐求法巡礼行記』としてまとめられ、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄弉三蔵の『西遊記』とともに、三大旅行記と評価され、当時の中国情勢などを知る貴重な資料として知られている。
入唐求法巡礼行記 (1) (東洋文庫)

松原哲明、福島一嘉著
マルコ・ポーロを超えた男―慈覚大師円仁の旅

エドウィン・O. ライシャワー
円仁 唐代中国への旅―『入唐求法巡礼行記』の研究 (講談社学術文庫)
「然
(ちょうねん)
(938〜1016)
法済大師。東大寺で真言密教を学び、983年宋に渡った。太宗(宋の皇帝)から大師号や新印大蔵経などを賜って帰国。帰国後は東大寺別当を務め、その後京都嵯峨の清凉寺の開基となった。
清凉寺 (美術文化シリーズ (92))
寂照
(じゃくしょう)
((962?〜1034)
俗名は大江定基(おおえのさだもと)。1003年宋に渡り、蘇州の僧録司に任じられ第3代皇帝真宗(しんそう)から紫衣と円通大師の号を賜わった。
(調査中)
成尋
(じょうじん)
(1011〜1081)
天台宗の僧。1072年北宋へ渡り、天台山や五台山など智者大師の聖跡・諸寺を巡礼。神宗に謁見し、祈雨法を修して善慧大師の号を賜った。また、円仁や「然の旅行記と恵心僧都源信の『往生要集』を中国にもたらした。北宋の旅行記『参天台五臺山記』を著した。母は歌人で『成尋阿闍梨母集』を残した源俊賢の娘(成尋阿闍梨母)。
参天台五臺山記の研究 (関西大学東西学術研究所研究叢刊)
栄西
(えいさい、またはようさい)
(1141〜1215)
備中吉備津神社の神主の子だったが14歳で比叡山に行き天台宗を学び僧となった。1167年入宋し天台山万年寺などで禅を学ぶ。帰国後は九州で精力的に研究・著述に務め、『出家大綱』『誓願寺縁起』など十数冊の著作を残した。1187年、47歳で二度目の入宋。天竺(インド)行きを目指したが叶わず、再び天台山万年寺で禅の修業に励み、5年後に「臨済宗黄竜派」の印可を受けて帰国。その後は最初の禅寺「聖福寺」を博多に建て、筑前・肥後を中心に布教に努め、また『興禅護国論』を著すなど華々しい活躍をした。しかし天台宗から妨害を受けたため鎌倉に下り臨済宗を広めた。やがて鎌倉幕府に認められて寿福寺(鎌倉)、建仁寺(京都)を建立し住職となった。建仁寺では天台宗・真言宗・禅宗の三宋を学べるようにし仏教の総合を目指した。宋から本格的な喫茶の習慣を初めて日本に持ち込んだことでもよく知られており『喫茶養生記 (講談社学術文庫)』などの著書がある。唯一残された肉筆文書『誓願寺盂蘭盆縁起』(福岡・誓願寺蔵)は国宝。
宮脇隆平著
栄西ものがたり

多賀宗隼著
栄西 (人物叢書)
道元
(どうげん)
(1200〜1253)
13歳で比叡山に入り、後に建仁寺の栄西に禅を学ぶ。宋に渡り曹洞宗の天童如浄より印可を受けるなどして4年後に帰国。世俗の権力を嫌い、越前国に永平寺を建立し、日本の曹洞宗の開祖となった。ただ坐禅にうちこむことが最高の修行であるとした「只管打坐」を主に説く「禅」の教えを平易に説明した主著『正法眼蔵』は、ハイデッガーなど西欧の現代哲学者なども注目している。
現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)
絶海中津
(ぜっかいちゅうしん)
(1336〜1405)
臨済宗の僧侶。夢窓国師の弟子。明に留学し帰国後は室町幕府の命で相国寺を建立した。漢詩文に優れ義堂周信とともに五山文学を盛り上げた。
義堂周信・絶海中津

加藤四郎左衛門景正
(かとうしろうざえもんかげまさ)
(1168?〜1249?)
通称・藤四郎とも呼ばれる。人物像は不詳で様々な説があるが、奈良近郊で、役人・藤原元安の子として生まれ、成人後は久我大納言道親郷に仕え、五位の緒太夫であったらしい。京都・深草で土器類を作り、高麗などの焼物を蒐集し研究していた。1223年、道元に従って宋に渡り、新しい製陶の技術を学んで6年後に帰国。焼物に適した良質の粘土を求めて全国を放浪し、尾張国瀬戸で最適の土を発見、瀬戸に窯を開いて「瀬戸物」の基礎を築いたといわれる。瀬戸の陶彦(すえひこ)神社は陶祖・藤四郎を祀ったもの。
(調査中)
肥富
(こいずみ?こいつみ?)
(?)
博多の商人。足利義満の命を受け僧・祖阿とともに明に渡り通交を求めた。
村井章著
中世倭人伝 (岩波新書)
祖阿
(そあ)
(?)
肥富の進言により、足利義満の命を受け明に渡り通交を求めた僧侶。室町幕府の第1回遣明船の正使。明使である天倫道彝(てんりんどうい)・一庵一如を伴って帰国した。人物像の詳細は不明。
岩井三四二著
大明国へ、参りまする

織田信長
(おだのぶなが)
(1534〜1582)
尾張国生まれ、守護代の家老・織田信秀の子。幼名吉法師。隣国の今川義元を桶狭間の戦いで破り、三河の徳川家康と結んで尾張を統一。岐阜稲葉城も奪った。1573年にはさらに足利義昭を助けて入京。将軍を名ばかりにし、姉川の戦いで浅井・朝倉を討ち、その後比叡山焼き打ち、1573年に遂に室町幕府を倒した。さらに長篠の戦いで武田らを討ち、近江の国に安土城を築き、近畿・中部・北陸の主な地域を手にした。関所の廃止や楽市・楽座の制などを行って,商工業の発展や円滑な商品流通を図った。1580年には石山本願寺を屈伏させ中国地方の毛利攻略に乗り出し天下統一を目の前にするが、家来の明智光秀に裏切られ自害した(本能寺の変)。進取の気性に富んだ人物で、早くから南蛮に高い関心を寄せ、ヴァリニャーノルイス・フロイスらスペインやポルトガルの宣教師や商人たちと積極的に会見(宣教師とは記録に残っているものだけで合計31回に及ぶ)し、国際情勢や最新の知識・技術・文化を積極的に取り入れようとした。ビロードのマント、西洋帽子、西洋鎧を愛用し、ヴァリニャーノの使用人の黒人を譲り受け「ヤスケ」と名づけ重用した。イエズス会の献上した地球儀・時計・地図なども理解したと言われる。キリスト教を保護し京都や安土に教会や学校を作らせたりした。有名な長篠の戦いでの鉄砲の「三段撃ち」もヨーロッパの戦法を取り入れたものらしい。


山岡荘八著
織田信長1

津本陽著
下天は夢か

司馬遼太郎著
国盗り物語3 織田信長

緒形直人主演
NHK大河ドラマ 信長 完全版 第壱集

豊臣秀吉
(とよとみひでよし)
(1536〜1598)
尾張国生まれ。父は織田家の足軽または百姓だったといわれるが出生は不明。15歳の時木下藤吉郎を名乗り武士を目指す。織田信長の草履持ち(草履を懐で暖めた話は有名)として仕えたが後に数々の武功を上げ、信長に武将として重用され、近江長浜城を与えられ羽柴と改姓した。本能寺の変の際は毛利氏と結び、光秀を破り、信長の後継の地位を得る。大坂に築城、天下を統一し、関白太政大臣、豊臣の姓を受けた。信長の政策を継承し楽市楽座、ポルトガル・オランダとの朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・商業統制を行った。また太閤検地と刀狩を行い税制を確立し、兵農分離と身分の格差を徹底させて徳川の幕藩体制の基礎を築いた。当初コエリョと謁見し布教を許可するなどキリスト教には理解を示したが、サン=フェリペ号事件をきっかけにスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知し、1587年伴天連(バテレン)追放令を発令、キリスト教宣教と南蛮貿易を禁じた。1592年、中国・明を征服する目的で李氏朝鮮に小西行長加藤清正らによる大軍を送った。漢城(ソウル)を攻略したが、朝鮮水軍の攻勢や明からの援軍に苦しみ休戦した(文禄の役)。1597年、和平交渉に訪れた明の使者が秀吉と冊封体制を敷こうという意図を知り激怒、再び小西行長らをはじめとする約14万人の軍を朝鮮半島南部に出兵した。しかし秀吉は戦いの最中伏見城で没し、日本軍はそのまま撤退した(慶長の役)。イエズス会の資料で「スペインによる明・日本の征服計画」を秀吉が知って先制に出たという説もある。
古澤憲吾監督・植木等主演
ホラ吹き太閤記

山岡荘八著
豊臣秀吉〈1〉

ルイス・フロイス
完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編(1) (中公文庫)

司馬遼太郎著
新史太閤記 (上巻) (新潮文庫)

野上弥生子著
秀吉と利休 (新潮文庫)

上垣外憲一著
文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫)

徳川家康
(とくがわいえやす)
(1542〜1616)
三河国岡崎城主松平広忠の長男。幼名は竹千代、死後は東照大権現の神号を受けた。幼少から織田信秀・今川義元の人質として育つ。義元死後は織田信長を助け、長篠の戦いなどで功を上げ高い信任を得た。信長の死後は秀吉と一時政権取りを争うがその後秀吉の下で五大老筆頭に列せられ天下統一に協力した。秀吉が死ぬと後継者争いが始まるが、1600年関ヶ原の戦いで石田三成らの勢力に勝利し、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を統一した。その後も武家諸法度で諸大名や武士を統制、また士農工商の制度で一般市民の身分を固定するなど、約270年に及ぶ徳川江戸時代の中央集権的封建制度の礎を築いた。1605年には将軍職を秀忠に譲るが死ぬまで大御所として政治・経済を指揮した。外交政策としては、1600年日本に漂着したオランダ船リーフデ号の乗員ヤン・ヨーステンウィリアム・アダムスを外交顧問に招き、ヨーロッパの珍しい品々や最新の技術・文化を取り入れた。また、長崎・平戸に商館を設けてオランダやイギリスの東インド会社(司令官ジョン・セーリス)との貿易を積極的に進めた。当初ロドリゴ・デ・ビベロビスカイノらイスパニア(スペイン)人も厚遇したが、1612年にはキリスト教の禁教を発令、布教を主な目的としたスペイン・ポルトガルとの関係を絶った(後に秀忠・家光の時代に鎖国体制へ発展)。朝鮮とは秀吉の文禄・慶長の役以降関係が悪化していたが、対馬の宋氏の仲介で国交を結び、1609年には己酉約条を締結し本格的な貿易を開始、以後朝鮮通信使の来朝を斡旋、幕府も厚く遇した。家康はさらに中国・明とも国交を結ぼうと尽力したが、明は倭寇を恐れて鎖国政策をとったため遂に正式な国交は果たせなかった。しかし商船は平戸などに盛んに来て貿易した。また、日本人の南方諸国への進出も奨励し、大名や商人らに積極的に御朱印船の許可を出した。これらの海外との貿易によって日本は莫大な利益を上げた。
山岡荘八著
徳川家康1

司馬遼太郎著
覇王の家(新潮文庫)

二木謙一著
徳川家康 (ちくま新書)

岩生成一著
日本の歴史〈14〉鎖国 (中公文庫)

徳川家康(BIGMANスペシャル)

滝田栄主演
NHK大河ドラマ 徳川家康 完全版 第壱集
角倉了以
(すみのくらりょうい)
(1554〜1614)
京都出身の商人・事業家。秀吉家康から朱印状を受け安南(ベトナム)、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)と貿易をし巨額の富を手に入れた。また、大堰川、天竜川、高瀬川などの治水・開通を推進し京都近辺の水運を発達させた。
石田孝喜著
京都 高瀬川―角倉了以・素庵の遺産
アンジロウ
(アンヘロまたはアンジェロ、ヤジロウ)
(1511?〜1550?)
薩摩出身の池端弥次郎といわれる。故郷で人を殺めポルトガル船に乗って海外に逃れていたが、マラッカで布教中のフランシスコ・ザビエルに会い、日本のことを伝える。アンジロウは短期間でポルトガル語を習得したばかりか、マタイ伝をすべて記憶し、その要略を日本語で書き記したとされる。その後ザビエルが日本に布教のため来日するのに伴い、帰国し主に通訳を果たした。
梅北道夫著
ザビエルを連れてきた男 (新潮選書)

岸野久著
サビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人 (歴史文化ライブラリー)

大住広人著
ザビエルとヤジロウの旅

高山右近
(たかやまうこん)
(1552〜1614)
ロレンソ了斎の話に影響を受け父友照とともに12歳で洗礼を受けたキリシタン大名。洗礼名はジュスト(ユスト)。信長秀吉に仕え、明智光秀の配下になるも本能寺の変が起こると秀吉側につき山崎の戦いでは光秀と戦った。1585年明石城主となるがキリシタン禁止によって追放され、加賀の前田利家を頼った。利家とともに小田原城攻めに参加し功を成し秀吉から追放は免除されるが、まもなく徳川の時代になり1614年にはキリスト教禁止令によって国外に追放される。長崎からマニラに渡ったがそこですぐに死去した。優れた知将であり茶道の名人でもあった彼は人徳者として知られ、前田利家以外にも同じく大名の蒲生氏郷、黒田孝高、細川忠興・ガラシャらに影響を与えた。宣教師フロイスの『日本史』にも彼についての記述がある。
加賀乙彦著
高山右近 (講談社文庫)

長部日出雄著
まだ見ぬ故郷〈上〉―高山右近の生涯 (新潮文庫)

津山千恵著
織田信長と高山右近―フロイスが見た日本
大友宗麟
(おおともそうりん)
(1530〜1587)
名は義鎮(よししげ)。豊後を中心に北九州を支配し、朝鮮貿易などを行ったキリシタン大名。洗礼名はフランシスコ。バリニャーノの勧めに従って、同じキリシタン大名の大村純忠有馬晴信とともに天正遣欧使節を派遣した。
遠藤周作著
王の挽歌(新潮文庫)

桜田啓著
幻のジパング―大友宗麟の生涯

風早恵介著
大友宗麟―道を求め続けた男 (PHP文庫)

赤瀬川隼著
王国燃ゆ―小説大友宗麟 (人物文庫)

ルイス・フロイス
完訳フロイス日本史〈7〉宗麟の改宗と島津侵攻―大友宗麟篇(2) (中公文庫)
大村純忠
(おおむらすみただ)
(1533〜1587)
肥前大村城主。1570年長崎港を開き、外国貿易を推進した。洗礼を受けた日本初のキリシタン大名で洗礼名はバルトロメウ。バリニャーノの勧めに従って天正遣欧使節を派遣した。
川道岩見著
長崎燃ゆ 大村純忠

吉永正春著
九州のキリシタン大名

ルイス・フロイス
完訳フロイス日本史〈9〉大村純忠・有馬晴信篇(1) (中公文庫)
有馬晴信
(ありまはるのぶ)
(1567〜1612)
肥前長崎城主。秀吉家康に仕え数々の戦功をたてた。バリニャーノの洗礼を受けキリシタン大名となる。洗礼名はプロタシオ。バリニャーノの勧めに従って天正遣欧使節を派遣した。岡本大八事件で家康の怒りを買い、処刑された。
(調査中)
天正遣欧使節
キリシタン大名らが伊東マンショ(1570〜1612)、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年らをローマに派遣した使節団。日本人が初めてヨーロッパに渡り、日本と日本人を全欧に知らせ、またヨーロッパの進んだ文化などを見聞・技術などを持ち帰った。
詳細は
日本外交史外伝「天正遣欧少年使節」をご参照ください。


若桑みどり著
クアトロ・ラガッツィ〈上〉―天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

小西行長
(こにしゆきなが)
(?〜1600)
堺の豪商の家に生まれる。豊臣秀吉に取り立てられ知行を得た。九州征伐で功を成し、宇土・天草など肥後国の南を領地として与えられた。同じ肥後の北を統治していた加藤清正とは同じ豊臣臣下でありながらライバル関係にあり、朝鮮出兵では先陣を争った話は有名。キリスト教を信仰し(洗礼名はアウグスティヌス、またはアゴスチイノ)、追放された高山右近を匿ったり、領内の信者を守り孤児院を設立するなどし領民からの人望が篤かったが、関が原の戦いで西軍について敗れ斬首された。切腹でなく斬首されたのはキリシタンのため「自殺」を拒否したためとされる。宣教師ルイス・フロイスは九州征伐などの彼の武将としての働きを評して「海の司令官」と称している。小西の名は彼ら宣教師によってローマでもよく知られていたといわれる。
白石一郎著
海将―若き日の小西行長 (新潮文庫)

園田信行著
アゴスチイノ小西摂津守行長回想帖―十六世紀の自由人

遠藤周作著
遠藤周作文学全集『鉄の首枷』
キリスト教信者だった遠藤周作は『宿敵(角川文庫)』という小説も書いている。

加藤清正
(かとうきよまさ)
(1562〜1611)
秀吉の下で数々の武功をなし「賤ヶ岳七本槍」の一人である。秀吉の朝鮮出兵にも参加、文禄の役では1万の兵を率いて朝鮮軍を圧倒し「鬼将軍」として恐れられた。「虎退治」のエピソードが有名だがこれは後世の作り話。セロリ(清正人参)を日本に持ち込んだと言われる。安南(ベトナム)貿易も進んで行った。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となる。また築城の名人としても知られ熊本城・江戸城・名古屋城などの名城を残した。
海音寺潮五郎著
加藤清正 (文春文庫)

村上元三著
加藤清正〈1〉母と子の巻 (人物文庫)

上垣外憲一著
文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫)
田中勝介
(たなかしょうすけ)
(?)
日本人として始めてアメリカ大陸に渡った京都の商人。1609年、徳川家康の命を受け、ロドリゴ・デ・ビベロ(ドン・ロドリゴ)のルソン船に同行してノビスパン(メキシコ)に渡り、貿易の開始と鉱山技師派遣を要請した。
(調査中)
角屋七郎兵衛
(かどやしちろうべえ)
(1610〜1672)
松坂の代々続く商人の家に生まれる。22歳の時安南に渡り日本人街で貿易を営む。1636年帰朝禁止令にあったため帰国を断念、安南国王一族の娘と結婚し定住を決意。以後砂糖や銀貨を日本に送り角屋一族の繁栄をもたらした。
羽田澄子・山田浩哉共同監督のドキュメンタリー映画『角屋七郎兵衛の物語−ベトナムの日本人町』(1995)

佐江衆一著『商魂
小笠原貞頼
(おがさわらさだより)
(?)
家康に命じられて南方探検に行き、小笠原諸島を発見したと言われるが実在が証明されていない。
(調査中)

伊達政宗
(だてまさむね)
(1567〜1636)
鎌倉時代から出羽国地方中心の地頭だった伊達家・輝宗の長男として生まれる。幼い頃片目を病で失い後世「独眼竜」と呼ばれる。17歳で父を継ぎ17代当主となり出羽国米沢を中心に勢力を広め、郡山、会津を次々に支配。関東以西を統一した秀吉とは別に東北地方一帯に巨大な領地を有する大名として君臨した。しかし1590年の秀吉の奥州仕置をきっかけに秀吉に屈服し、1593年には朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。この時の戦装束は家来ともども絢爛で後「伊達物」という言葉の語源になった。秀吉の死後は徳川方について関ヶ原の戦いや大坂の陣に参加、その功で徳川幕府の下、仙台藩主となり城下の大規模な整備を行い、62万石の大大名となった。以後、3代家光まで仕えた。和歌・茶道・書・能に通じた粋の人物でもあり、桃山文化を仙台に広めた。また、海外情勢にも深い関心と理解を示し、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をメキシコ、ローマに派遣した。これは表向きはヨーロッパとの交易を図るためとされるが、日本のキリシタン30万人を味方につけて徳川幕府を倒し天下人になる計画があったとも言われる。しかしやがて鎖国の時代が訪れ彼らの努力はあまり実らなかった。
バチカン図書館には伊達が支倉に託した教皇パウロ5世宛ての書状が残されている。金銀箔を散りばめた豪奢なものである。因みに墓の発掘を行ったところ副葬品にロザリオがあったため、キリシタンだったのでは?との説も浮上した。いずれにせよ様々な逸話で知られるように、優れた知将であり、派手なパフォーマンスで世を渡り、毀誉褒貶・七転八起・波乱万丈の人生は多くの小説や映画・ドラマのネタになった。日本人が最も好む戦国武将のひとり。

↑ダース・ベイダーのデザインの元「政宗・黒漆五枚胴具足」。

山岡宗八著
伊達政宗 (1)

海音寺潮五郎著
伊達政宗 (人物文庫)
支倉常長
(はせくらつねなが)
(1571〜1622)
伊達政宗の家臣。文禄・慶長の役にも従軍し朝鮮で活躍。1613年、正宗の命を受け慶長遣欧使節として180人の部下とルイス・ソテロとともにヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)を経てイスパニア(スペイン)に渡り、幕府とは別にメキシコと直接貿易をしようと試みた。ローマでは法王や枢機卿との謁見を果たし、大歓迎を受けた。しかし徳川幕府の禁教・鎖国政策が始まり条約は締結できず1620年帰国。不遇のまま死んだ。
大泉光一著
支倉常長―慶長遣欧使節の悲劇 (中公新書)

田中英道著
支倉常長―武士、ローマを行進す (ミネルヴァ日本評伝選)

大泉光一著
捏造された慶長遣欧使節記―間違いだらけの「支倉常長」論考
慶長遣欧使節
(1613)
太田尚樹著
ヨーロッパに消えたサムライたち

松田毅一著
慶長遣欧使節―徳川家康と南蛮人
荒木宗太郎
(あらきそうたろう)
(?〜1636)
肥後熊本の武士だったらしいが詳細は不明。若い頃長崎に出て船乗りまたは貿易で財を成したと考えられる。1592年、秀吉の朱印状を得て、自ら船に乗ってシャムや安南など南方貿易に従事した。「荒木宗太郎異国渡海之図」という記録によれば西洋船にも匹敵する優秀な船と船員を使い、何度も往復して莫大な利益を上げた。1619年、安南国王阮福源に気に入られ「阮」の名を与えられ、その娘・王加久戸売(オウカクトメ)を妻として迎えた。長崎に初めてやって来た王加久戸売はアニオーさんと呼ばれ、市民から大歓迎を受けた。荒木宗太郎の死去後、厳しい鎖国体制が始まり、華々しい朱印船貿易の時代は終わり、アニオーさんも一人娘とともに長崎でひっそりと暮らすが、1645年長崎で死去した。
白石一郎著
『朱印船の花嫁』
海のサムライたち

岩崎京子、長野ヒデ子著
わが名は荒木宗太郎 (偕成社の創作文学)
林喜右衛門
(はやしきえもん)
(?)
フェフォ(ベトナム南方)の日本町に定住し貿易した。
(調査中)
天竺徳兵衛
(てんじくとくべえ)
(?)
播磨出身の商人。角倉の手下で15歳の時より天竺(インド)に数回渡りその風俗・習慣を『天竺渡海物語』に著した。またシャム(ビルマ)の日本町で貿易した。また彼の異国話は鶴屋南北の『天竺徳兵衛韓噺』という歌舞伎になって人気を博した。
(調査中)
茶屋四郎次郎
(ちゃやしろうじろう)
(1542〜1596)
京都の商人。代々御朱印船の貿易家で、主に安南から白糸(中国産生糸)の輸入で莫大な利益を得た。徳川将軍家の呉服師となり、京都三大富豪の一人とされたが鎖国後は衰え、明治維新後没落した。
小和田泰経著
家康と茶屋四郎次郎 (静新新書 17)
末吉孫左衛門
(すえよしまござえもん)
(1570〜1617)
摂津出身の貿易家。大坂の陣で功を成したため徳川家から朱印状を受け、主に呂宋(ルソン)と独占的な貿易をした。この船は「末吉船」と呼ばれ巨万の富を得た。
小倉貞男著
朱印船時代の日本人―消えた東南アジア日本町の謎 (中公新書)
末次平蔵(政直)
(すえつぐへいぞう・まさなお)
(?〜1647)
博多の豪商の一族に生まれ、長崎を拠点に秀吉家康から朱印状を受けてシャム・ルソンと貿易をした。後に長崎奉行となった。台湾をめぐる問題でオランダ東インド会社長官ピーテル・ノイツと対立、タイオワン事件を引き起こした。
永積洋子著
朱印船 (日本歴史叢書)
呂宋助左衛門
(るそんすけざえもん:呂宋=ルソン、本名納屋、または魚屋、菜屋とも)
(?)
堺の商人。堺の自治を代表する36人の会合衆の第一人者だった。「ルソン」はフィリピンの中心の島。御朱印船でフィリピンをはじめとする東南アジア諸国との貿易を果たし富を得た。特に助左衛門の輸入した壷は「ルソン壷」と呼ばれ茶器として珍重された。豊臣秀吉にルソン壷や蝋燭、麝香、香料など珍品を献上して信任を得て豪商となるも、豪奢な生活を石田三成らに讒言され日本を追放される。その後カンボジアに渡って国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日々』(城山三郎原作『黄金の日日 (新潮文庫)』)の主人公である。


有吉佐和子著
助左衛門四代記 (新潮文庫)

早乙女貢著
南海に叫ぶ―若き日の助左衛門
じゃがたらお春(1625?〜1697)
ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。1639年、14歳の時、鎖国令により母と姉とともに長崎からバタヴィア(ジャカルタ)に追放された。ジャカルタから日本に宛てた手紙「じゃがたら文」で知られ、幼い気な少女の「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と望郷の念を語る名文は江戸時代の人々の涙を誘った。しかし後年の研究でこの手紙は贋作と判明した。

参考書は→ハーフマニア
正延哲士著
じゃがたらお春

白石広子著
じゃがたらお春の消息 (遊学叢書)

小島笙著
ジャガタラお春―海を越えた少女
松倉重政
(まつくらしげまさ)
(?〜1631)
肥前島原藩主。関が原の戦い、大坂の陣で戦功をあげる。隣国天草領主寺沢広高とともにキリシタンを迫害し、多くの宣教師、信者を虐殺した。ルソン(フィリピン)がキリシタンの温床と考え、ルソン征伐を画策したが、農民らの反発を買い島原の乱を誘発した。
神田千里著
島原の乱 (中公新書)
山田長政
(やまだながまさ)
(?〜1630)
駿河出身で駕籠かきだったといわれるが前半生は不明。台湾を経て1611年ごろシャムのアユタヤに渡って日本人町の長となり、貿易と治安に従事した。やがてその功が認められて隣国リゴールの太守にも命じられたが、国王の死後政権争いに巻き込まれて毒殺された。
白石一郎著
風雲児 (文春文庫)

遠藤周作著
王国への道―山田長政 (新潮文庫)

山岡荘八著
山田長政 他 (山岡荘八歴史文庫)

大映映画
山田長政 王者の剣 [VHS]
新井白石
(あらいはくせき)
(1657〜1725)
儒学者・政治家。幼い頃から父に学問を厳しく教え込まれ非凡な才能を示した。貧しい浪人生活の中でも学問を続け、高名な朱子学者木下順庵に認められて入門。順庵から推挙されて甲府藩主徳川綱豊に仕えた。綱豊が6代将軍家宣になると家宣について江戸に入り、「正徳の治」と呼ばれる政治改革や政策を練るなど幕府を動かす勢力を持った。次の将軍家継、吉宗の補佐も務めるが吉宗の時に引退。引退後は主に著作に励み、諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、『読史余論』、古代史について書いた『古史通』など日本の歴史、文学に関する本や、密入国したシドッチを獄中で取り調べた時の記録西洋紀聞 (東洋文庫)』『采覧異言』を著し、西洋の文化・知識も日本に広めた。「蘭学の祖」と言われる。
日本文学史上屈指の「自叙伝」


垣花秀武著
奇会新井白石とシドティ
徳川吉宗
(とくがわよしむね)
(1684〜1751)
暴れん坊将軍(徳川第8代将軍)。紀伊藩主から33歳で将軍になり享保の改革を推進。蘭学規制を緩和し、青木昆陽、野呂元丈らに蘭学を積極的に学ばせ、特に医学・天文学など実学の発展を推奨した。野菜などの商品作物の栽培、新田開発など殖産興業に尽くした。
大石学著
吉宗と享保の改革 (教養の日本史)
前野良沢
(まえのりょうたく)
(1723〜1803)
豊前中津藩の藩医。すでに中年になった47歳の時、蘭学を志し、青木昆陽に師事した。長崎に留学した時にオランダの医学書の『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、1771年、江戸・小塚原で刑死体を腑分け(解剖)し、その書が正確であることに感嘆し、これを杉田玄白らと約4年の歳月をかけて訳して1774年『解体新書』として出版した。全く辞書も何も無い中での翻訳作業の苦労話は有名。その他にオランダ語についてや医学についての多くの著作を成し、洋学の普及に先鞭を成した。
岩崎克己著
前野蘭化〈1〉解体新書以前 (東洋文庫)

吉村昭著
冬の鷹 (新潮文庫)
杉田玄白
(すぎたげんぱく)
(1733〜1817)
若狭国小浜藩の藩医の家に生まれ、17歳頃外科を学び、西幸作より蘭医学の優秀さを知り、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』で人体の内部を研究。前野良沢・中川淳庵らと腑分けをして実証、これを訳して『解体新書』として出版。その苦労話などは80歳を過ぎて回顧録『蘭学事始』として著し(後に福沢諭吉によって出版された)、多くの人に蘭学を知らしめた。『後見草』などの著作もある。
解体新書 (講談社学術文庫)
蘭学事始 (講談社学術文庫)
大槻玄沢
(おおつきげんたく)
(1757〜1827)
奥州一関生まれ。江戸に出て前野良沢杉田玄白に蘭学を学び、師である二人の名から一字ずつもらって「玄沢」という名を与えられる。後に長崎に遊学し蘭学を究めた。1788年、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記し、西洋の進んだ学問を広めた。また医者をしながら私塾・芝蘭堂をひらき宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助ら多くの蘭学者を育てた。石巻の漂流民でロシアに保護されレザノフの来航とともに帰国した水主津太夫らの世界一周の体験を聞き書きしまとめた『環海異聞』の著作もある。
環海異聞 (海外渡航記叢書 (2))
宇田川玄随
(うたがわげんずい)
(1755〜1795)
槐園(かいえん)とも。代々江戸詰の美作国津山藩医の家系に生まれ、父の跡を継いで藩医となる。元は漢方医であったが、幕府の医師桂川甫周の教えを受け、杉田玄白前野良沢らと交流するうちに蘭学へと転向。25歳の時、甫周に蘭学を、大槻玄沢や白河藩士石井恒右衛門にオランダ語を学んだ。約10年をかけてヨハネス・デ・ゴルテル著の『簡明内科書』を訳した『西説内科選要』を著し、日本初のオランダ内科訳書として注目を浴びた。晩年に増補を試みたが未完のまま志半ばで没した。日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解(はるまわげ、波留麻和解)』の編纂にも大きく寄与した。他の著書に『遠西草木略』『遠西医方名物考』、『西洋医言』などがある。私塾・風雲堂を開き緒方洪庵らを育て蘭学を広めた宇田川玄真は養子。
(調査中)

平賀源内
(ひらがげんない)
(1728?〜1779)
讃岐国の足軽の子。戯作者であり、医者、科学者・発明家、画家など、マルチに活躍した人物。13歳から藩医の元で本草学や儒学を学ぶ。後に長崎に出て蘭学全般を習得し、西洋式の医学、鉱山発掘、博物学、科学、油絵など芸術など多岐に応用し作品・製品を発表した。1764年には秩父で石綿を発見し火完布(ひかんぷ)という燃えない布を発明。また、綿羊を飼育してラシャを織ることに成功している。特に有名なのはエレキテル(摩擦起電機)だが、オランダ製の壊れた機械を手に入れ修理して、「電気」を見せ物としたのだが、本人は「電気が何の役に立つか?」などは分かっていなかったと言われる。しかし、どれも人々を驚かしただけで当時の役人や実業家たちからは相手にされず、実用化や事業化に至らなかった。晩年は人違いで町人を切り殺してしまい、その罪で捕らえられ獄中死したという。
平野レミのお父さんで源内もびっくりの博物学者・平野威馬雄著
平賀源内の生涯―甦る江戸のレオナルド・ダ・ビンチ (ちくま文庫)

土井康弘著
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ 407)
林子平
(はやししへい)
(1738〜1793)
江戸時代後期の経世論家。旗本の子として生まれ仙台藩に雇われるが、富国強兵・経済政策など上書するも受け入れられず、脱藩。全国を行脚の後長崎や江戸で学び、大槻玄沢らと交流し西洋の科学や文化、政治情勢など広い知識を得た。ロシアの脅威を説き『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著す。特に大砲・軍艦で海防することを強く説き自費出版した『海国兵談』(1786)は反響を呼ぶが、寛政の改革で取り締まられ処分された。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人といわれる。
海国兵談・三国通覧図説 (1977年)

司馬江漢
(しばこうかん)
(1804〜1850)
江戸で町人の子として生まれる。1760年代後半、鈴木春信門下の浮世絵師となり、春重を名のり、鈴木春信の贋絵師としても活躍していた。平賀源内杉田玄白らの蘭学者からの影響で西洋画法を学び、油絵や銅版画を作成、西洋風の遠近法や立体画法を利用した多くの日本の風景画などを残した。また、天文学や地理学などの自然科学の分野の研究家としても、地動説を紹介したり、1792年には日本初の銅版世界地図「輿地(よち)全図」を刊行するなどマルチな活躍をした。
江漢西遊日記 (東洋文庫)

司馬江漢 (新潮日本美術文庫)

對中如雲著
サムライ・ダ・ヴィンチ 司馬江漢
緒方洪庵(おがたこうあん)

(1810〜1863)
備中国生まれ。江戸で宇田川玄真に蘭学を学び、長崎でオランダ人医師ニューマンに師事。1838年に大坂・船場に蘭学の私塾適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)らを輩出した。日本で最初に種痘を行った医学者。
芝哲夫著
適塾の謎

梅渓昇著
緒方洪庵と適塾

古西義麿著
緒方洪庵と大坂の除痘館
唐人お吉(斉藤きち)(1841〜1891)
尾張国生まれ。幼い頃一家で静岡県下田に移り住む。14歳で芸者となりお吉と名乗ったきちは、その美貌でまもなく下田一の人気芸者となった。1858年、アメリカ総領事として玉泉寺の領事館に赴任したハリスが体調を崩し床に臥せてしまった時、ハリスの部下で通訳を務めたヒュースケンがハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の組頭・伊佐新次郎に依頼。当時「看護婦」という概念がまだ無かったため「妾」と勘違いした伊佐らがお吉をハリスに紹介した。お吉は船大工の鶴松という許婚がいたが「国のため」と諭され月10両という高給で数ヶ月領事館に奉公した。しかしハリスは江戸に赴き後帰国、残されたお吉は彼女に対する世間の目は冷たく、「唐人」「らしゃめん」などと呼ばれ差別を受けた。その後日本人と結婚したりするが、離婚し芸者に戻ったり、酒に溺れるなど生活は荒れてしまった。最後は物乞いで暮らすほど落ちぶれ、地元下田の稲生沢川・門栗ケ淵(現在はお吉ヶ淵)で投身自殺した。後に彼女を描いた山本有三の脚本『女人哀史』は舞台化され、好評を博し海外でも翻訳された。ドイツの劇作家ブレヒトもこれを元にした戯曲を書いている。山田五十鈴主演の映画『唐人お吉』、太地喜和子主演の舞台が有名。サザンオールスターズの「唐人物語(ラシャメンのうた)(アルバム『さくら』収録)」というのもある。下田には新渡戸稲造によって建てられたお吉地蔵や記念館、彼女が経営した小料理屋「安直楼」、命日には芸妓衆による「お吉祭り」がある。

参考書は↓ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。


『唐人お吉(TALKING SIRENTS 2 DORECTED BY KENJI MIZOGUCHI ORIZURU OSEN TOJIN OKICHI
高野長英
(たかのちょうえい)
(1804〜1850)
陸奥国水沢の藩医の家の出身。養父玄斎は杉田玄白に蘭法医術を学んだことから長英も幼い頃より蘭書に親しんだ。長崎の鳴滝塾でシーボルトに医学・蘭学を学ぶが、卓越した学力・語学力で塾頭になる。その後江戸に出て塾「大観堂」を開いた。日本最初の生理学書『医原枢要』を和訳。馬鈴薯の栽培を薦めるなど庶民を飢饉から救うことを目的にした『二物考』などを著した。遠藤勝助、渡辺崋山、小関三英らと内外の情勢を研究するグループ「尚歯会」を組織。後に著書『夢物語』で、異国船打払令によってモリソン号を砲撃した幕府を批判し投獄され永牢(無期懲役)とされた(蛮社の獄)。後に火事に乗じて脱獄し、故郷水沢で母に会ったり、広島、鹿児島、木曾などに潜伏、宇和島藩の伊達宗城に匿われ、そこで密かに兵書の翻訳や砲台の設計などを行っていたが、見つかりそうになったため江戸に出て変名で町医者として活動したところを再び捕らえられそこで自殺した。実に6年4ヵ月に及ぶ逃亡生活であった。
佐藤昌介著
高野長英 (岩波新書)

吉村昭著
長英逃亡

宮城賢秀著
妖怪犯科帳 蛮社の獄―鳥居甲斐守忠耀事件控 (徳間文庫)

青山淳平著
長英逃亡潜伏記―高野長英と伊達宗城異聞
間宮林蔵
(まみやりんぞう)
(1776〜1845)
常陸国の貧農の生まれ。利根川の堤工事に関わり認められて幕府に仕える。伊能忠敬に測量術を学ぶ。1800年、千島を巡視した後、1806年、択捉島に勤務し、レザノフ一行の択捉島襲撃に巻き込まれた。その後西蝦夷、北夷、樺太(サハリン)などを探検。樺太北部にウィルタ(オロッコ)という民族がいること、「樺太が島であることを発見」した。北海道と樺太の間の海はシーボルトによって「間宮海峡」と命名された。1811年にはゴローウニン事件に遭遇。1828年には勘定奉行・遠山景晋の部下になり、幕府の隠密として全国各地を隠密として調査をしたとされ、シーボルト事件を幕府に密告したといわれる。著書に『東韃紀行』がある。
東韃地方紀行 (東洋文庫)

吉村昭著
間宮林蔵 (講談社文庫)

小谷野敦著
間宮林蔵「隠密説」の虚実 (江戸東京ライブラリー)

筑波常治著
間宮林蔵 (堂々日本人物史―戦国・幕末編)
高田屋嘉兵衛
(たかだやかへい)
(1769〜1827)
淡路島生まれの海運業者。若くして兵庫海運業を始め、その後事業を次々拡大。西国・北国の港から蝦夷との交易をし、新航路の開拓などに努め、幕府から蝦夷地の貿易の許可を得て巨額の富を築いた。また函館の開発やアイヌ民族に漁法を教えて生活向上に尽力するなど功績が認められ、名字帯刀を許された。1812年、ゴローウニン事件の報復として国後島沖でロシア船に捕まり、捕虜となってカムチャツカに連行される。しかし翌年許されて帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い事を納得させ、ゴローウニン解放を実現した。その後は幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。
黒部亨著
高田屋嘉兵衛

童門冬二著
高田屋嘉兵衛―物語と史蹟をたずねて (成美文庫)

司馬遼太郎原作
菜の花の沖
大黒屋光太夫
(だいこくやこうだゆう:幸太夫とも)
(1751〜1828)
伊勢国三重の回船(運輸船)の船頭。1782年、伊勢から江戸への航海中に台風に遭い、乗員17名と共に遭難。約8ヶ月の漂流後、ロシアのアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しロシア人に救助される。4年後にロシア人の協力のもと船を建造して島を脱出、世界で最も厳しいシベリアの寒さと戦いながらカムチャツカ、イルクーツクを経て旅を続け、途中知り合ったラックスマンの助力により首都ペテルブルクで女帝エカテリーナ2世に謁見した。日本に開国を迫るためラックスマンを長とする使節団に同行して1792年根室に帰国した。仲間は道中で次々と死んだりロシアに帰化し、帰れたのは光太夫と磯吉の二人だけだった。ロシア行の記録は桂川甫周によって『北槎聞略』としてまとめられ、風俗・制度・言語等を克明に綴ったこの本はロシア情勢・ヨーロッパ情勢を伝え、後の蘭学の発展に大きく寄与した。当時ロシアに日本語学校があることを知り、外国の文化研究の高い水準に驚いたなどと述べている。しかし鎖国中だったため、本人は後半生は自由の身になれず、江戸小石川植物園のお庭番として一生を終えた。
井上靖著
おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

吉村昭著
大黒屋光太夫(新潮文庫)

北槎聞略―大黒屋光太夫ロシア漂流記 (岩波文庫)

山下恒夫著
大黒屋光太夫 (岩波新書)

ジョン万次郎
(中浜万次郎:なかはままんじろう)
(1827〜1898)
土佐の貧しい漁師の子。1841年、14歳の時漁の手伝いで船で海に出たところ遭難し数日間の漂流の末、無人島鳥島に漂着。およそ5ヶ月間のサバイバル生活を続けていたところ、偶然通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救われた。しかし日本は鎖国中だったため帰国は出来ず、仲間はハワイで降ろされたが、一番若く向学心があった万次郎はホイットフィールド船長に気に入られ、そのままアメリカ本土に渡った。万次郎は船長の養子となってマサチューセッツ州フェアヘブンの屋敷に一緒に暮らし、約3年の間、学校で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだ。その後捕鯨船「フランクリン号」に乗りこんで3年間働く。帰国を目指してゴールドラッシュで沸くカリフォルニアで金鉱を掘り、大金を得て船を購入。1851年2月、ハワイに寄港して2人の仲間と再会し共に琉球に上陸。しかし厳しい鎖国の時代にあって、薩摩、長崎へと護送されて牢で取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐へ帰郷した。土佐で万次郎は藩主より名字帯刀を許され、出身地の中浜をとって中浜万次郎を名のることになる。その後ペリー来日時に幕府に呼び出され通訳として活躍。江川太郎左衛門の下で造船や翻訳の仕事に就いた。が、また幕府に万延遣米使節に通訳として雇われ再びアメリカに渡った。この時に恩人ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈っている。明治維新後も開成学校の英語教授や1870年には普仏戦争視察団として欧州へ派遣されるなどの活躍をした。
井伏鱒二著
ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)

ウエルカム ジョン万の会著
ジョン万次郎物語―THE STORY OF JOHN MUNG

童門冬二著
ジョン万次郎 (人物文庫)

星亮一著
ジョン万次郎―日本を開国に導いた陰の主役 (PHP文庫)

直系4代目の著者による伝記『中浜万次郎―「アメリカ」を初めて伝えた日本人

マーギー・プロイス著
ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂
本木昌造
(もときしょうぞう)
(1824〜1875)
長崎生まれの通詞(通訳)、実業家、教育者。代々幕府の通詞(オランダ語)を務める家系に養子に行き、ロシアのプチャーチン来日の際に通訳として活躍した。その傍ら、西洋の操船、造船、製鉄、印刷や活字に興味を持ち、1851年オランダから輸入した印刷機を使って日本で初めて印刷を行った。その後長崎海軍伝習所の通訳・長崎飽ノ浦製鉄所の頭取を務めた。明治維新後は私塾を開いて教育者として多くの優秀な人材を育てつつ、製鉄所内に活版伝習所を開設、アメリカ人の技術者を招いて日本語の金属活版を製造。近代日本の印刷技術発展の基礎を築いた
江越弘人著
逃げる男 活版印刷の祖・本木昌造

島屋政一著
本木昌造伝

『日本の近代活字本木昌造とその周辺』編纂委員会編
日本の近代活字―本木昌造とその周辺

井伊直弼
(いいなおすけ)
(1815〜1860)
近江彦根第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれる。庶子であったため幼いころから「部屋住み」として隠遁のような生活を送るが聡明で知られ、儒学、国学を修め、武術・武道では剣はもとより槍・弓、砲術を極め、居合の達人であり、その他狂言作者など「粋」な暮らしをし、特に茶道では茶号「宗観」として『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』の著を成し、「一期一会」の理念を世間に広めた茶人としても有名であった。1850年、36歳の時、兄(養父でもあった)直亮が急死したため家督を継ぎ第13代藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)に遷任。彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。井伊家はもともと徳川将軍家の親藩として重要な位置にあったため、直弼も江戸で幕政に大きく関わることになり、幕府の強化を図り、改革派の親藩・外様大名を抑え、保守派の譜代大名の中心となる。13代将軍家定の跡継ぎ問題では改革派が推薦する一橋慶喜(後の15代将軍慶喜)に反対し、幕府の最高職・大老に就任すると保守派の推す徳川慶福(後の14代将軍・家茂)を跡継ぎに決定した。1853年ペリー来航以来、開国論者となり、1858年米国公使ハリスに迫られると、老中堀田正睦は開国・通商の許可を外国嫌いの孝明天皇の説得に当たるが失敗したため、井伊は天皇の許しを待たずに独断で日米修好通商条約に調印。長年の「鎖国政策」を改め開国を決断した。米と同様の条約を蘭・露・英・仏と次々と結ぶ。また外国奉行を設置、各大名に外国製品(主に武器)の購入を推奨した。これらの政策は対抗勢力である水戸斉昭ら改革派のみならず幕府外からも大きな非難を浴びるが、慶喜・斉昭らを処罰、吉田松陰・橋本左内ら多くの志士を処刑した(安政の大獄)。開国直後は貿易船がもたらしたコレラの流行や、金の流失や生糸の大量輸出で経済の大混乱を巻き起こし、また日米修好通商条約は領事裁判権や関税自主権を持たぬ不平等条約だったため、日本は明治まで長く苦しむことになり、民衆からも恨みを買った。1860年3月3日、桃の節句の祝儀の日、これらの状況を打破すべく立ち上がった水戸浪士らが江戸城外で襲撃、登城に向かう彦根藩士ともに井伊は暗殺された(桜田門外の変)。井伊の死後、幕府の権威は一気に失墜。尊王攘夷の思想が全国の志士たちに広まることになった。墓は招き猫発祥の地として知られる東京世田谷の豪徳寺にあり、銅像は「開国・開港の恩人」ということで横浜港を見下ろす掃部山(かもんやま)にある。日本史上でも「井伊ひと」なのか「悪い人」なのか?評価が分かれる人ですね。
舟橋聖一著
花の生涯〈上〉 (祥伝社文庫)

上記原作のNHK大河ドラマ
NHK想い出倶楽部II~黎明期の大河ドラマ編~(1)花の生涯 [DVD]

吉村昭著
桜田門外ノ変〈上〉 (新潮文庫)

野口武彦著
井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)

松岡英夫著
安政の大獄―井伊直弼と長野主膳 (中公新書)

熊倉功夫著
井伊直弼の茶の湯

大久保治男著
埋木舎と井伊直弼 (淡海文庫)
浜田彦蔵
(はまだひこすけ:ジョセフ・ヒコ、アメリカ彦蔵、ヒコダ唐人)
(1837〜1897)
播磨の漁師の子。幼くして両親を亡くす。1850年、13歳の時乗った義父の船が難破し、南鳥島付近でアメリカの商船オークランド号に救助され、そのまま他の乗組員とともにサンフランシスコに滞在した。ペリーが日本訪問をするのに伴い、帰国することになり、一時香港まで戻ったが、ペリーが日本に開国を迫るための「外交カード」として自分が利用されるのを嫌い、再びアメリカに帰る。アメリカでは税関長をしていたサンダースの援助によってミッションスクールに通いカトリックの洗礼を受けた。その後アメリカに帰化、アメリカの市民権を得た最初の日本人となった。また、在米中にピアース大統領、ブキャナン大統領、リンカーン大統領とも会見をしている。日本が開国した翌1859年、駐日公使ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、9年ぶりの帰国を果たした。しかし尊皇攘夷の風潮が強まり身の危険を感じた彼は一時アメリカに戻る。再び通詞として領事館に雇われ、再帰国するが、すぐに辞めて外国人居留地で貿易の商売を始めた。1864年、ヘボンの弟子だった岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「新聞誌」(後に「海外新聞」)を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞で、この功績で浜田は「新聞の父」と呼ばれるようになる。明治維新後は大蔵省に務め渋沢栄一のもとで造幣局や国立銀行の創設・整備などに関わった。NHK『その時歴史が動いた』でも『日本に新聞が生まれた日』でジョセフ彦の人生が取り上げられていた。
アメリカ彦蔵自伝 (1) (東洋文庫 (13))

吉村昭著
アメリカ彦蔵 (新潮文庫)

山下昌也著
ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯
文久使節団(1862)
宮永孝著
文久二年のヨーロッパ報告 (新潮選書)

ギュンター・ツォーベル、ポール・スノードン著
ヨーロッパ人の見た文久使節団―イギリス・ドイツ・ロシア
新見正興
(しんみまさおき)
(1822〜1869)
容姿端麗の幕臣として知られる。1859年、外国奉行および神奈川奉行に就任。1860年に日米修好通商条約の批准書交換のため幕府の命を受けアメリカの戦艦ポーハタン号で渡米した(万延遣米使節団:護衛艦は勝海舟が乗った咸臨丸)。ワシントンD.C.でブキャナン大統領と謁見し、国務長官のキャスと批准を交わし見事に大任を果たした。しかし帰国後は桜田門外の変の直後であり攘夷の風潮が強く、取り立てて活躍することもなくまもなく隠居し、48歳で病死した。
宮永孝著
万延元年の遣米使節団 (講談社学術文庫)

勝海舟
(かつかいしゅう)
(1823〜1899)
本名安芳、通称麟太郎。江戸の旗本の子。苦心して蘭学や砲術を習得。長崎に渡り海軍伝習所で約5年に渡りカッテンディーケポンペに学ぶ。1860年幕府の使節木村芥舟、通訳ジョン万次郎福澤諭吉らとともに咸臨丸艦長として渡米、サンフランシスコに到着した(万延遣米使節団)。日米修好通商条約の批准書交換を行い、米国各地で熱狂的な大歓迎を受けた。帰国後は幕府の軍艦奉行、陸軍総裁を歴任。第二次長州征伐の停戦交渉や神戸、横浜の港を整備などに尽力した。1868年、江戸開城の際、東征軍の西郷隆盛と協定を結び無血開城を成功させた功労者。明治政府成立後は海軍卿、参議、枢密顧問官として活躍した。著書に『開国起源』『幕府始末』がある。
海舟語録 (講談社学術文庫)
子母沢寛著
勝海舟 (第1巻) (新潮文庫)

津本陽著
勝海舟私に帰せず 上 (1) (幻冬舎文庫)

巌本善治編
新訂 海舟座談 (岩波文庫)
万延遣米使節団(1860)
新見正興を団長とした総勢77人による初の遣米使節。一行はアメリカが提供したポーハタン号(ペリー来航の時の旗艦)と、オランダで建造し海軍伝習所の訓練艦であった咸臨丸を護衛艦としこれに乗った勝海舟福澤諭吉ら一行とともに渡米した。ハワイ、サンフランシスコ港を経て、パナマを汽車で横断し、東海岸に出てワシントンD.C.でブキャナン大統領と謁見した。その後フィラデルフィアを経由、ニューヨークではパレードを行うなどアメリカ各地で大歓迎を受け、新見らは国務長官のキャスと批准を交わし見事に大任を果たした。帰路は大西洋、インド洋を経由して横浜港に到着。一行は世界一周をした初の日本人となった。
宮永孝著
万延元年の遣米使節団 (講談社学術文庫)

松永義弘、鴇田幹著
少年通訳アメリカへいく―幕末の遣米使節団に通訳として参加した立石斧次郎
遣仏使節団(1863)
(調査中)
西郷隆盛
(さいごうたかもり)
(1827〜1877)
通称・吉之助。「維新の三傑」と呼ばれ、日本人が好む屈指の歴史上の人物。東京・上野公園の銅像が有名。薩摩藩の下級武士であったが藩主島津斉彬に取り立てられ側近として活躍。将軍継嗣問題で幕府の弾圧を受けた。後、討幕運動の中心人物として薩長同盟、王政復古、戊辰戦争を指導。とりわけ勝海舟との交渉によって成立した江戸城無血開城は高く評価された。維新後は政府参議となり、廃藩置県などを実施。陸軍大臣も兼任し「岩倉使節団」で重鎮らが外遊中は西郷主導留守内閣を組織し政治を指導した。しかし後にいわゆる「征韓論」(当時鎖国中の李氏朝鮮を開国させ、国交を結ぶことを目的とした論議)を主張し、反対する岩倉具視大久保利通木戸孝允らに敗れ、仲間の政治家・軍人らとともに在野に下った(明治六年政変)。1877年に新政府に対する不平士族を中心に西南戦争を起こすが、敗れて故郷鹿児島・城山で自殺した。その約14年後「西郷は生き延びてロシアに渡った説」が流布するなど人気は高く、上野公園の銅像は1898年に建てられたが、除幕式には弟従道の他山県大山黒田榎本ら明治の重鎮らとサトウも列席した。1902年遺子寅太郎が侯爵が授けられ、「賊将」の汚名は完全に雪がれた。
毛利敏彦著
明治六年政変 (中公新書 (561))

伊牟田比呂多著
征韓論政変の謎

吉野誠著
明治維新と征韓論―吉田松陰から西郷隆盛へ

司馬遼太郎著
翔ぶが如く(文春文庫)
西郷従道
(さいごうじゅうどう、つぐみち)
(1843〜1902)
薩摩の生まれで西郷隆盛の実弟。若くして倒幕運動に加わり戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け、重傷を負いウィリスの治療を受けた。1869年山県有朋とともにヨーロッパに留学。主に兵制を学び、帰国後は日本の陸軍・海軍の基礎を築いた。台湾出兵では1874年に陸軍中将として軍を指揮した。1878年、征韓論をめぐって兄隆盛は薩摩藩出身の同志を引き連れ下野したが、兄にはつかず政府に留まり、以後薩摩閥の重鎮として明治政府を担った。北海道開拓使、伊藤博文内閣や松方正義内閣の海軍大臣、内務大臣、元老として枢密顧問官、海軍元帥などを歴任した。内務大臣時代に起きた大津事件では犯人の死刑を主張した。
西郷従宏著
元帥・西郷従道伝

榎本武揚
(えのもとたけあき)
(1836〜1908)
通称釜次郎。幼い頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に函館奉行の下で樺太探検や長崎海軍伝習所に入所してオランダ語や西洋式航海術などを学んだ。1862年から約5年間オランダに留学、最新鋭軍艦・開陽丸に乗って帰国。帰国後は幕府の海軍奉行となる。しかし幕府が崩壊し1868年戊辰戦争が勃発すると、函館五稜郭で蝦夷共和国の総裁となり指揮を執り政府軍と応戦(箱館戦争)。形勢が悪化すると翌年降伏し捕らえられて入獄した。しかし、戦争では敵であった黒田清隆の助力により許されて、新政府の北海道開拓使に登用された。その後は海軍中将、ロシア公使を歴任、千島・樺太交換条約の成立を果たすなど活躍した。その高い能力が買われて伊藤博文内閣の農商務省大臣をはじめ黒田清隆内閣の文部大臣、松方正義内閣の外務大臣などを次々と務め、明治日本の発展に大きく寄与した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、1891年に徳川育英会育英黌農業科(現・東京農業大学)を創設し後進の育成にも尽力した。西洋に通じ、幕府と新政府の両方で活躍した数少ない人物。2004年のNHK大河ドラマ『新選組!』では草g剛が演じていた。
榎本武揚 シベリア日記(講談社学術文庫)

安部公房著
榎本武揚 (中公文庫)

童門冬二著
人生を二度生きる―小説榎本武揚 (祥伝社文庫)

佐々木譲著
武揚伝〈1〉 (中公文庫)

臼井隆一郎著
榎本武揚から世界史が見える (PHP新書)
長州五傑の渡英(1863)
1863年6月22日、長州藩士の井上馨(聞多)伊藤博文(俊輔)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助の5人が英国商船に便乗して横浜を出発、英国ロンドンに留学した。
リーダー格の井上が佐久間象山に影響されて渡英を決意、藩侯毛利慶親(敬親)の内諾を得て五千両(現在の約五億円に相当する大金)という資金も得ていた。当時は幕府の鎖国政策中であり、海外渡航は厳しく禁じられていたため、命がけで極秘で計画された。英国領事ジェイムス・ガワーの紹介でジャーディン・マセソン商会の汽船キセロック号に乗船したのだが、上海の商会支店で「ネイビー(海軍)」勉強のため留学すると言ったのを「ナビ(航海術)」と聞き違いされ、水夫としてこき使われた。その激務の間に船員から英語を習うなど苦心惨憺たる渡航だった。香港、シンガポール、インドのボンペイ、ケープタウン、モロッコなどを経て11月にロンドンに到着。マセソン氏らの世話で市内でホームステイし、名門ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで物理・化学、工学、鉱山技術・鉄道技術などを学んだ。この頃の彼らは「長州ファイブ」として新聞で紹介され、ちょっとした有名人だった。しかし、翌年3月に四国連合の長州砲撃計画の報に驚いた井上と伊藤が帰国を決意、他の三人を置いて帰国し長州藩主と外国諸国との交渉に当たった。遠藤は1866年に帰国、他の2人は5年後の明治維新の年1868年11月19日に帰国した。その後、伊藤は初代内閣総理大臣、井上は外務・農商務・内務・大蔵大臣を歴任、遠藤は造幣局長となった。井上勝は鉄道庁長官となり新橋横浜間の日本初の鉄道敷設など「日本鉄道の父」として知られた。山尾庸三は法制局長官や工学寮(後の東大工学部)の設立など工学関係の重職を務めた。


犬塚孝明著
密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士 (NHKブックス)
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外国に渡った日本人(明治〜現代)日本と関わりの深い外国人明治期に来日した外国人



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特集:
外国人が見る日本と日本人(前編)

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