|
名 | (生年〜没年)解説 | おススメ資料 |
司馬遷 (しばせん) | (BC145〜BC86) 中国・前漢の歴史家。中国正史の第一に数えられる『史記』(130巻)を執筆・紀伝体を完成させた。太史令の司馬談を父に持ち、幼少から学者としての教育を受け、20歳の時に武帝に仕えた。父の死後36歳で太史令を引き継ぎ『史記』の執筆を任される。しかし紀元前29年、匈奴との戦いで敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ宮刑(去勢される刑)に処される。紀元前91年ごろ『史記』はその苦悩の中で完成した。『史記』には秦の始皇帝時代に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け日本と思われる国に船出した徐市(徐福)の記述がある。これが日本とすれば「日本」が歴史上著述された最初。
| 武田泰淳著『司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)』 |
始皇帝 (しこうてい) | (BC259〜BC210) 中国秦第31代皇帝。13歳で秦王に即位、その後戦国時代の6国を滅ぼし秦統一帝国初代皇帝となった。度量衡制・文字の統一、郡県制を敷くなど中央集権を確立。また世界最古の運河霊渠や万里の長城、始皇帝陵の建築など巨大土木建築事業なども行った。専制君主として知られ儒教を弾圧し焚書坑儒を行った。『史記』によれば徐市(徐福)の提案を受け、不老不死の薬を求めて日本に徐市(徐福)らを派遣したとされる。 | |
徐市(徐福) (じょいち・じょふく) | (BC.278?〜) 中国・秦(紀元前3世紀頃)の方士。『史記・秦始皇本紀二十八年(紀元前219)の条』によると始皇帝に「東方の三神山(日本の蓬莱・方丈・瀛洲)に長生不老の霊薬がある」と具申し、膨大な資金を得て旅立った。しかし9年後に何も得るものもなく帰国し、その際は皇帝に「大鮫に邪魔されてたどり着けないので、射手を用意していただきたい」と願い出、紀元前219年、再び皇帝から三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出した。しかしたどり着いた東方の島で「平原広沢」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。実在しない伝説の人物との説や、徐福=神武天皇説など日本・中国で様々な「徐福伝説」があるが、日本の和歌山県などにもいたるところに徐福がたどり着いたという言い伝えが残されており、また中国には徐福の子孫が住む「徐福村」もあり、謎の人物である。 | 不老を夢みた徐福と始皇帝―中国の徐福研究最前線
徐福論―いまを生きる伝説 ―(新典社選書) (新典社選書)
真説「徐福伝説」―謎に包まれた「日本人の祖先」の実像 |
弓月君 (ゆづきのきみ) | (?) 『日本書記』に記述がある渡来人で始皇帝の後裔とされる。百済から百二十県の民を率いて来日し、養蚕・機織の技術をもって応神天皇の朝廷に仕えたとされる。子孫は山城国太秦に本拠を持つ秦氏になった。 | シルクロード渡来人が建国した日本―秦氏、蘇我氏、藤原氏は西域から来た |
司馬達等 (しばたっと) | (?) 『扶桑略記』によると522年、朝鮮半島から渡来したと思われる人物で、鞍部村主(くらつくりのすぐり)という異名もある通りもともとは馬具等を作る工人であったとされている。仏教の公な輸入前に仏教を信仰しており、飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝し、蘇我馬子らが邸宅内に仏殿を建立した際には仏舎利を献上し仏教普及を後押ししたとされる。司馬達等の孫は有名な鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏となった。 | 扶桑略記・帝王編年記 (新訂増補 国史大系) |
好太王(広開土王) (こうたいおう・こうかいどおう) | (374〜412) 朝鮮・高句麗の第19代の王。高句麗の基礎を築き、後燕と戦い、新羅を助けて百済と戦った。404年朝鮮半島を北上してきた倭軍(日本軍)を破ったとされる。 1883年、陸軍中尉酒匂景信によって石碑が発見され参謀本部によって碑文が発表された。そこには「倭が百済を破った云々」とあり長く信じられてきたが、朝鮮の学者の中には文章を「高句麗が百済を破った」と解釈できるという説や日本軍が朝鮮半島支配の正当性を強調するために碑そのものをでっちあげたという説もあり、真相は未だ謎である。 |
好太王碑論争の解明―改ざん説を否定する |
阿知使主 (あちのおみ) | (?) 『日本書記』に記述がある後漢の後裔。応神天皇20年に子・都加使主らとともに17県民を率いて来日。日本に帰化して朝廷に仕え、学問・文章を伝えたとされる。この子孫が東漢氏(やまとあやうじ)で大和地方南部を本拠地に各種の技術者集団を築いた。また | 現代語訳 日本書紀 (河出文庫) |
都加使主 (つかのおみ) | (?) 父阿知使主とともに中国から来日し帰化して朝廷に仕えたとされる学者。 | |
王仁 (わに) | (?) 応神天皇の頃、阿直岐に推薦されて百済から『論語』10巻と『千字文』を携えて来朝、帰化し日本に漢字と儒教を伝えたとされる人物。応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に儒教を教えたとされる。 | 漢字伝来 (岩波新書) |
阿直岐 (あちき) | (?) 『古事記』の応神天皇の巻に百済王の使者として来日し馬2頭を献上し、後に帰化したとある。天皇に王仁を推挙し来朝させた人物とあるが実在かどうかは不明。阿知使主と同一人物説もある。 | (調査中) |
煬帝 (ようだい) | (569〜618) 中国・隋第2代皇帝。父高祖文帝を殺して即位したと言われる。西域諸国を征服し隋を巨大帝国に築き上げた。また暴君として知られ、反対勢力への虐殺や百万人の民衆を酷使した大運河の建築などを行った。607年日本の聖徳太子の命を受け遣隋使小野妹子を受け入れたが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」の文面で始まる対等外交を求める文書に激怒したとされる。しかし敵対する朝鮮・高句麗遠征を控えていたため外交に応じ、答礼使として裴世清を日本に遣わした。その後高句麗討伐に乗り出すも失敗、民衆の反感を買い、皇帝の権威は失われ、618年揚州巡幸の際に近衛兵に暗殺された。 | 宮崎市定著 『隋の煬帝 (中公文庫BIBLIO)』
田中芳樹著 『隋唐演義〈2〉隋の煬帝ノ巻 (中公文庫)』 |
裴世清 (はいせいせい) | (?) 隋の外交官。煬帝の命を受け、答礼使として小野妹子の帰朝に同行して来日。日本では大歓迎を受け、推古天皇や聖徳太子と謁見し煬帝の意向を伝えた。608年、小野妹子が再び遣隋使として高向玄理や南渕請安、僧・旻などの留学生も伴って隋に渡る時に共に帰国し、隋に日本の実情を報告した。 | (調査中) |
曇徴 (どんちょう) | 高句麗の嬰陽(えいよう)王の進献によって僧法定(ほうじょう)とともに来朝した僧侶。曇徴は五経に通じ、紙と墨・彩色の方法、さらに水車をつかった臼の製造技術ももたらしたといわれる(『日本書記』)。『聖徳太子伝暦』には聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後法隆寺に住わせたとされるが不詳。
| (調査中) |
観勒 (かんろく) | 百済の僧。602年渡来して暦法や天文地理学、陰陽道を伝え、年月を記録する方法を教えた(『日本書記』)。朝廷は陽胡玉陳(やこのたまふる)・大友高聡・山背日立(やましろのひたて)などを選抜し観勒に師事させている。後に日本最初の僧正となり、僧侶たちの教育や統制に当たった。法隆寺経蔵には観勒の坐像がある。 | (調査中) |
鑑真 (がんじん) | (687〜763) 中国揚州出身の高僧。入唐僧の依頼によって日本に行くことを決意したが、当時の未熟な航海技術は命がけで、5回に渡る航海はすべて嵐などによって遭難し、その間に貴重な経典や仏像を失い、また鑑真自身も失明した。754年6回目でようやく来日を果たし、東大寺に戒壇を設け律宗を広めた。聖武天皇、光明皇后らを始め貴族・僧・庶民らが鑑真を慕って集まった。759年には唐招提寺を創立し亡くなるまでのおよそ5年間をここで過ごし、熱心に教えを説いた。
| 井上靖『天平の甍』
|
陳和卿 (ちんなけい) | (?) 宋の僧侶で工人。1182年、弟の陳仏寿と共に俊乗坊重源に招かれ、東大寺の再興、特に大仏の仏頭鋳造などに当たった。また『吾妻鏡』には将軍北条実朝に渡宋を勧め、船を建造するが進水に失敗しその後の消息は不明との著述がある。
| 吾妻鏡 1―現代語訳 (1) |
蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう) | (1213〜1278) 宋の僧侶。1246年33歳の時、入宋した泉涌寺僧月翁智鏡の招きを受け来日。京都や鎌倉で宋風の本格的な臨済宗を広めた。後に鎌倉幕府執権北条時頼に招かれて鎌倉建長寺の開山となった。
| 『建長寺と鎌倉の精進料理―七百五十年受け継がれた建長けんちん汁の精神を家庭で活かす』 |
無学祖元 (むがくそげん) | (1226〜1286) 宋の僧侶。1279年、北条時宗に招かれて鎌倉で蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。後に鎌倉円覚寺の開山となり、建長・円覚両寺で臨済宗の教えを広めた。
| 貫達人、荒牧万佐行著 『円覚寺』 |
フビライ・ハン (忽必烈汗または世祖) | (1215〜1294) 元の第5代皇帝。初代皇帝ジンギス・カンの孫にあたる。朝鮮半島の高麗を支配に置いた後、日本(当時鎌倉時代・執権北条時宗)に通商を求めて使者を送ったが断られたため、2度に渡り大軍を日本に派兵し侵略を狙った(元寇)。またイタリアの商人マルコ・ポーロを貿易経済のブレインにした。
| 勝藤猛著 『フビライ汗 (中公文庫)』
岡本好古著 『元の皇帝フビライ―大草原の虹』 |
一山一寧 (いつさんいつねい) | (1247〜1317) 元寇後、日本を懐柔させるために元が送ってきた高僧。執権北条貞時は一時伊豆に幽閉したが後に建長寺に住まわせたとされる。
| 海音寺潮五郎著 『蒙古の襲来 (河出文庫)』 |
趙良弼 (ちょうりょうひつ) | (1217〜1286) 元の秘書監。1271年、元の皇帝フビライの命を受け、国書を携え約百人の部下を連れて来日し大宰府に滞在した。趙以前に三度日本に使者が送られていたが鎌倉幕府・朝廷ともにこれをすべて黙殺したため、今回は高麗の使者ではなく元の正使として派遣された。しかしもたらされた国書は「元への服属」を命じる内容だったため、日本側は四ヶ月に渡って検討した結果さらにこれを無視することにした。その間趙は日本の実情を探り、「日本は征服するに値しない」などとフビライに報告したとされる。しかしフビライの日本征服の意志は強く、趙は1273年には再来日し、最後通牒ともいえる交渉を行った。こうして「元寇」が始まった。 | 網野善彦著 『蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)』
白石一郎著 『蒙古襲来―海から見た歴史 (講談社文庫)』 |
杜世忠 (とせいちゅう) | (1241〜1275) 元の正使。文永の役の翌年1275年に下関に部下数人を引き連れ来日。元の軍艦は嵐によって全滅したわけだが、杜世忠が持参したフビライ皇帝の国書には負けを認めず「さらに大軍を送る」といった脅迫が書かれていたため、幕府(執権・北条時宗)は一行を捕らえて大宰府から鎌倉に送り、龍ノ口で斬首し元への抵抗を示した。1276年には元は周福を正使とする一行を送るが、今度は博多で全員斬り捨て、元寇に備えることになった。 | 渡辺邦男監督、長谷川一夫主演の大映映画 『日蓮と蒙古大襲来』
童門冬二著 『決断―蒙古襲来と北条時宗』 |
洪武帝 (こうぶてい または朱元璋) | (1328〜1398) 明の初代皇帝(太祖)。貧農の生まれで餓死寸前の身から、やがて兵士として頭角を現し、元を倒して中国の皇帝にまで登りつめた立身伝説の男。皇帝となってからは独裁政治を行い臣下や民衆から畏れられた。日本に使者を送り、倭寇の取締りを求めた。
| 呉ヨ、堺屋太一著 『超巨人・明の太祖朱元璋 (講談社文庫)』 |
宋希m (そうきけい) | (1376〜1446) 応永の外寇後1420年に来日した朝鮮の大使。朝鮮王・世宗に報告するために日本を中傷・侮辱した内容で書いた詩文集『老松堂日本行録』には当時の日本の様子が詳細に記録されている。
| 『老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫)』 |
マルコ・ポーロ Marco Polo | (1254〜1324) 伊ベネチア出身の貿易商人の子で日本のことを知った最初のヨーロッパ人。元が成立し広くヨーロッパまで支配しアジア=ヨーロッパ間の交流が盛んになった時代に、マルコが16歳の時、父と叔父に従ってベネチアを旅立ち、以後アジア諸国を25年に渡り旅をした。1274年、中国に着いた一行は元の皇帝フビライ・ハンに謁見しローマ法王からの手紙を渡した。その時フビライに気に入られたマルコは以後17年に渡ってフビライに仕えた。ベネチアに戻ったマルコはジェノバとの戦争に従軍して捕虜となり、牢獄で知り合った作家ルスチケロに彼がアジアで見聞きしたことを語った。ルスチケロは後にそれを『東方見聞録』にまとめ出版した。ここに「ジパングは大量の金がとれ国王の宮殿はすべて純金で覆われている。美しいバラ色の真珠やいろいろな宝石が取れる豊かな国である」ことなどが記されている。コロンブスはこの本を読み、憧れの「黄金の国ジパング」をめざして船出した。
| 『東方見聞録 (地球人ライブラリー)』
陳舜臣著 『小説マルコ・ポーロ』
フランシス・ウッド著 『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』 |
コロンブス Christophorus Columbus | (1446?〜1506) イタリアの船乗り。若い頃からポルトガルやイギリスなどヨーロッパ諸国を航海し、30歳ごろに読んだマルコ・ポーロの『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に憧れ、地理学者トスカネリと文通して西回りでアジアに行けるという確信を持った。1492年スペイン王イザベラの支援を得て航海に乗り出し、困難な航海の末およそ40日で西インド諸島サンサルバドル島に到達した。その後4回に渡る航海でキューバ・ハイチ、南アメリカなどの島・新大陸を発見・開拓、コロンブスは総督に任じられたが、そこをインディアスと呼び、死ぬまでアジアの一部と信じていた。だが黄金や宝石は見つからずスペイン王から総督を罷免されるなど晩年は恵まれなかった。 | 『コロンブス航海誌 (岩波文庫)』
宮崎正勝著 『ジパング伝説―コロンブスを誘った黄金の島 (中公新書)』
サミュエル・エリオット・モリスン著 『大航海者コロンブス 世界を変えた男 (大航海者の世界)』 |
フランシスコ・ゼイモト アントニオ・ダ・モッタ アントニオ・ペイショト | 1543年、明船に乗り、種子島に漂着し鉄砲を伝えたとされるポルトガル人商人(『鉄砲記』に「牟良叔舎」、「喜利志多佗孟太」との記述あり)。この時明の船には中国人・琉球人など百人ほどが乗っていたとされるが、儒生五峰(ごほう)の通訳でポルトガル人が鉄砲の実演を行い、その威力に驚いた領主種子島時堯・時尭親子が2挺を高価で買い上げた(若狭という若い女性を人身御供に使った、または彼らが要求したとも)。また、この時、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、鋏なども日本に伝えたといわれている。
若狭についての参考書は→ 国際結婚した有名人のコーナー。 | 石原結實著 『日本を変えた!種子島の鉄砲とザビエルの十字架―大航海時代の日本人の才智』
宇田川武久著 『真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)』
三鬼清一郎著 『鉄砲とその時代 (読みなおす日本史)』 |
フランシスコ・ザビエル Francisco de Xa'vier y Jasso | (1506〜1552) キリスト教を初めて日本に伝えたスペインの貴族出身の宣教師。19歳でパリに出てパリ大学に学び、ここでロヨラと出会い、1534年二人はイエズス会を作り生涯を神の教えを広げる決意をした。1541年ポルトガル国王の命でインドで布教をしていた時、薩摩出身の日本人アンジロウ(池端弥次郎)に出会い、彼の案内で1549年鹿児島を訪れ、大名島津貴久に会い、その後平戸(長崎)、山口、京都と布教をして回った。京都で後奈良天皇や将軍足利義輝に布教を願い出たが会う事も叶わず、1551年日本を後にした。再来日を望んだが、中国で客死した。しかし、彼の教えは山口の大名大内義隆、豊後の大名大友宗麟らばかりでなく、領民ら庶民にも多くの信者(キリシタン)を生んだ。 「鉄砲伝来」とともに日本にヨーロッパ文明を直接もたらし大きな影響を与えた重要な人物。鹿児島から出した書簡には「第一にこの国民は私が今日まで交際した限りにおいて、すべて従来発見された国民のうち最良のものであり、異教の国民の中において日本人に比べ得るものがあるとは考えられない」と感想を述べており、また、大内氏が治める周防(山口)では人々が絶えずザビエルのところにやって来て盛んに質問を浴びせたというその様子は「日中は時間を問わず夜中にもまた訪問と質疑に攻められ、身分ある人の家に招かれ、祈祷黙想思索の時無く…(ザビエル書簡)」と日本人の知識欲・教養の高さを報告している。ヨーロッパ人にとって「地の果て」にヨーロッパ人と並ぶほどの能力を持つ国民がいたことに驚嘆し、以後日本に布教するには相当の学識を持つ宣教師が必要であることを記録に残している。 | 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡〈1〉 (東洋文庫)』
柳 広司著 『ザビエルの首 (講談社ノベルス)』
ザビエル生誕500年記念シンポジウム委員会編 『ザビエルの拓いた道―日本発見、司祭育成、そして魂の救い―』
栗栖 ひろみ著 『小説 フランシスコ・ザビエル』
|
フェルナンデス Joao Fernandes | (1525〜1567) ポルトガルの宣教師。1549年ザビエルとともに来日し鹿児島、山口、豊後、博多、広島、平戸などで布教活動を行った。 | 五野井隆史著 『キリシタンの文化 (日本歴史叢書)』 |
コスモ・デ・トレス (トルレス、トーレス) Cosme de Torres | (1510〜1570) スペイン出身のイエズス会宣教師。メキシコで布教後東南アジアに渡り、ザビエルと出会い影響を受け、イエズス会に入会。その後ザビエルとともに来日し布教に努めた。ザビエルが日本を去った後も残り、およそ18年に渡って山口や九州を中心に活動をした。1563年には大村純忠に洗礼を授け、南蛮貿易の拠点として長崎港の築港に尽力した。 | 長崎を開いた人 改訂版―コスメ・デ・トーレスの生涯 |
ガスパル・ビレラ (ヴィレラまたはヴィレイラ) Gaspar Vilela | (1525〜1572) ポルトガルの宣教師(イエズス会)。1556年豊後に来訪、長崎平戸を中心に布教を始める。仏教徒からの迫害を受けながらも苦労して多くの信者を得た。1559年にトレスの命を受け上京。元琵琶法師のロレンソ了斎の案内で将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受け、京都に教会を建て三好長慶や松永久秀らの庇護を得て本格的な布教活動を行った。1565年、義輝が殺されると京を追放となり、以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで布教した。1570年には離日しインドで没した。高山友照、右近父子らの受洗を行った人物として知られる。本国やインドの宣教師らと交わした書簡は『耶蘇会士日本通信』として残され、当時の堺や京都の情勢が克明に描かれていて貴重な資料となっている。 | 村上直次郎訳・著 『耶蘇会士日本通信 (下巻)』
大河ドラマになった城山三郎著『黄金の日日 (1978年)』にも登場する。 |
アレッサンドロ・バリニャーノ (ヴァリニャーニ) Alessadro Valignani | (1530〜1606) イタリアのイエズス会の巡察師。19歳で法学博士になった秀才。1573年東洋伝道に出発し、中国などを経て1579年に日本の長崎に到着。織田信長・豊臣秀吉らの理解を得て来日している宣教師を統括し本格的な布教活動を指揮した。有馬・安土にセミナリヨ(神学校)、府内にコレジオ(大学)、臼杵にノビシャド(修練所)を設けた。また1582年大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らいわゆるキリシタン大名に勧めて天正遣欧使節をローマに派遣させた。
| 『日本巡察記(東洋文庫 229)』 『東インド巡察記 (東洋文庫)』
松田毅一著 『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』
ヴィットリオ・ヴォルピ, 原田 和夫著 『巡察師ヴァリニャーノと日本』 |
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ (ニエッキ・ソルド・オルガンティーノ) Gnecchi Soldo Organtino | (1530〜1606) イタリアの宣教師。1570年来日。ルイス・フロイスと共に京都で布教をした。1576年には京都に「南蛮寺」を建て、織田信長の許可を得て安土にセミナリヨを建てるなど勢力的に活動をしたが、秀吉の時代になって禁教令が敷かれてからは迫害を受け、高山右近や小西行長の庇護を受け小豆島や九州など地方での地道な布教をした。1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。徳川幕府開府後は長崎で活動しこの地で死去した。 | (調査中) |
フランシスコ・カブラル Francisco Cabral | (1530〜1606) ポルトガルの宣教師。トレスの後任として1570年に天草に上陸。日本の布教区責任者となりオルガンティノとともに布教に当たった。しかし、日本人に対しては終始差別的に接したため、後に来日したバリニャーノから批判され解任された。 | 山本兼一著 『ジパング島発見記』 |
ガスパール・コエリョ Gaspar Coelho | (1530〜1606) ポルトガルの宣教師。1572年に来日し当初は主に九州地方で布教にあたった。1586年には畿内の巡察を行い、豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。しかし翌1587年、秀吉がバテレン追放令を発布、コエリョらに対して排斥を行ったため、長崎平戸に活動の場を移し、この地で亡くなった。 | (調査中) |
李舜臣 (いすんしん) | (1545〜1598) 李氏朝鮮の武将。李が考案したといわれる亀甲船をはじめとする強力な水軍を率いて豊臣秀吉の侵略(文禄・慶長の役)を防いだ。韓国では国民的英雄。 | 『乱中日記〈1〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫)』
荒山徹著 『高麗秘帖―朝鮮出兵異聞 李舜臣将軍を暗殺せよ』
片野次雄著 『李舜臣と秀吉―文禄・慶長の海戦』 |
ヤン・ヨーステン Jan Joosten van Loodentijin | (1556?〜1623) オランダの航海士。1598年、オランダ東インド会社の東洋貿易のためオランダのロッテルダムを出帆した5隻の船のうちの1隻リーフデ号の乗組員。1600年暴風雨に遭い、豊後(大分)臼杵湾に漂着。(敵の襲撃や嵐に遭うなど厳しい航海で5隻の船のうち日本に到達したのは1隻のみ。110人だった船の乗組員は、僅かに24人で彼らのほとんども栄養失調などで重体だったと言われる)。長崎奉行は彼らを捕らえ、大坂の豊臣秀頼に引見された。後、重傷で身動きがとれない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わりアダムスとともに徳川家康に信任され、招かれて顧問となり、ヨーロッパ情勢などを伝えた。家康から御朱印の許可をもらい、シャム,カンボジアなど東南アジア諸国と朱印船貿易を行った。また長崎・平戸にオランダ船を入港させ、オランダ商館を設けて本格的な日蘭貿易を行わせた。日本人妻を迎え、江戸日本橋の海に近い地域に屋敷を構えた。この地域は彼の名を取って耶楊子(やようす)河岸と呼ばれた。後の八重洲(現在の東京駅東口付近)である。1623年帰国をしようとしてバタビアまで渡るが果たせず、再び日本へ帰還中、船がインドシナで座礁して溺死した。 | KLMオランダ航空ウインドミル編集部編・著 『日蘭交流の歴史を歩く』
浅田実著 『東インド会社―巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)』 |
ウィリアム・アダムス (三浦按針:みうらあんじん) William Adams | (1564〜1620) 日本に最初に来た英国人。スペインの無敵艦隊を破ったドレイクの元で活躍した腕を買われ、水先案内人としてオランダ船リーフデ号に乗り込みインドを目指した。アフリカ喜望峰経由(東方航路)の予定が、悪天候で西インド諸島〜マゼラン海峡を通り太平洋を横断する西方航路に変更。しかし中南米は敵のスペイン・ポルトガルの占領地がほとんどで、また未開の島で住民に襲われるなどしたため、航海は困難を極め、アダムスは行き先を日本に変更したが結局5隻あった船はリーフデ号のみになってしまった。水も食糧も底を尽き、乗組員は次々と倒れ瀕死の状態で1600年、日本に漂着(上陸の翌日に3人死去したといわれる)。書記メルヒヨールとともに徳川家康に招かれ大坂城で謁見。この時の会見は、よほど家康の興味が深かったのか関ヶ原の戦い直前にもかかわらず昼過ぎから夜半に及んだという。その後、船長ヤン・ヨーステンとともに正式に江戸に招かれて徳川家康の顧問となった。主に通訳や外交の相談を受けたり、洋式の帆船の建造などをしていたが、旗本として帯刀を許され、日本人妻を娶り、子供も生まれている。また相模国三浦の地を与えられて三浦按針と名乗り江戸日本橋に屋敷を構えた。1618年肥前・平戸に開設されたイギリス商館に勤め、イギリスとの貿易に活躍した。帰国を願い、日本に派遣されたジョン・セーリスの船に乗船する予定だったが、セーリスとは馬が合わず断念。死ぬまで帰国できず、また、家康の死後、秀忠・家光からは特別な扱いはされず、後鎖国体制が始まり不遇のうちに平戸で死去した。神奈川県横須賀市には記念碑があり、近くに「安針塚駅」と名づけられた駅がある。ジェームズ・クラベルのベストセラー小説でのちにテレビドラマにもなった『将軍』のモデルになった人物。 | 白石一郎著 『航海者―三浦按針の生涯(文春文庫)』
ジャイルズ・ミルトン著 『さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代』
大島昌宏著 『海の隼―参謀・三浦按針(ウイリアム・アダムス)』
P.G. ロジャーズ著 『日本に来た最初のイギリス人―ウイリアム・アダムズ 三浦按針』
立石優著 『家康とウィリアム・アダムス』
ハーフの息子は二代目三浦按針を継いだ。参考書は↓ |
ジョン・セーリス John Saris | (1579?〜1643) イギリス東インド会社の司令官。イギリス国王ジェームス1世の使節として1613年クローブ号で平戸に入港。この時、平戸藩主松浦鎮信を船に招き、火薬、鉄砲、ワイン、更紗などを贈っている。またアダムスの案内で駿府に赴き、徳川家康(当時は大御所)、さらに江戸で将軍秀忠に謁見し望遠鏡などを献上した。貿易許可を得て長崎に商館を建てたが翌年には離日した。この時の体験は『日本渡航記』にまとめられている。 | 『セーリス日本渡航記/ヴィルマン日本滞在記』 |
ヘロニモ・デ・ヘスス (ヘズス) | (?) スペイン・フランシスコ会の宣教師。1597年、徳川家康の意向を受け、メキシコとの通商を仲立ちした。 家康からは江戸・京橋あたりに土地を与えられ教会を建てたとされる。また、伏見で徳川家康と謁見した際にタバコの種子を献上したとの記録があり、これが日本にタバコを紹介した最初とされている。 | (調査中) |
ジョアン・ロドリゲス Joao Rodriguez | (1561?〜1633) ポルトガル出身で、16歳の時来日し日本で宣教師になった。ポルトガル語よりも日本語が堪能だったといわれ、バリニャーノが豊臣秀吉に謁見した際に通訳をし、秀吉(後に家康も)のお抱え通訳となった。1603年にヨーロッパ語で最初に書かれた日本語文法書『日葡辞書』を著した。この辞書は当時の日本語の発音を知る貴重な資料にもなっている。仏教・禅・茶道についても造詣が深く、屋敷には茶室があったといわれている。1610年バテレン追放令に従ってマカオに移住し『日本教会史』を著した。
| 『日本小文典』 『日本教会史(大航海時代叢書)』
マイケル・クーパー著 『通辞ロドリゲス―南蛮の冒険者と大航海時代の日本・中国』 |
ロドリゴ・デ・ビベロ (ドン・ロドリゴ) Rodrigo de Vivero y Velasco | (1564〜1636) ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領メキシコなど)生まれのスペイン人政治家。フィリピンの総督を務めていた時に日本人の暴動が起こり、その鎮圧にあたる。その際、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れ、それをきっかけに日本とスペインとの交流が始まる。1609年、マニラからアカプルコに向かう途中でロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」が難破し千葉・御宿に漂着。地元民に救助されたロドリゴら一行は領主本多忠朝の歓待を受け、その後江戸で徳川家康に謁見、手厚い歓迎を受ける。後にアダムスが設計・建造した船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」を与えられ、ヌエバ・エスパーニャに帰還した。その際、商人田中勝介も同行し、彼が日本人としてアメリカ大陸に渡った最初の人となった。翌年1611年、答礼使としてビスカイノが来日した。
| 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』 |
セバスティアン・ビスカイノ Sebastian Vizcaino | (1548〜1615) スペインの冒険家・政治家。アメリカ大陸のカリフォルニアやメキシコの測量・開拓などに当たっていたが、1611年ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、「サンフランシスコ2世号」で来日した。ドン・ロゴリゴの件での答礼が目的だったが日本沿岸の測量と「金銀島」発見の使命もあったため、徳川家康の許可を得て、奥州などを航海した。しかし金銀島は見つからず、嵐などで船が破損したため、浦賀に滞在することになった。その時帰国を援助したのは伊達政宗で、ビスカイノは1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。著書に『金銀島探検報告』がある。因みに米カリフォルニアの「サンディエゴ」を命名した人物で、メキシコには「セバスチャン・ビスカイノ湾」がある。 | (調査中) |
朝鮮通信使 | () (調査中)
| (調査中) |
ルイス・ソテロ Luis Sotelo | (1574〜1624) スペイン出身のフランシスコ会宣教師。1603年フィリピン総督の書簡を携えて来日し徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。また、仙台藩の伊達政宗の知遇を得て奥州での布教活動も行う。1613年には禁教令によって捕らえられるが、政宗に救われ、その縁で支倉常長イスパニア、ローマに派遣するよう政宗に進言し、慶長遣欧使節団に同行してヨーロッパに渡った。その後鎖国・禁教が進む日本に再来日を望み、1622年に長崎に密入国するが捕らえられ、火刑となった。
| 太田尚樹著 『ヨーロッパに消えたサムライたち』 |
隠元 (いんげん) | (1592〜1673) 明の高僧。弟子が日本に渡る途中遭難して死んだため代わりに来日。実に62歳の時だった。山城の宇治に寺地を賜り、ここに黄檗山万福寺を建立。黄檗宗の開祖となった。「隠元豆」「普茶料理」を招来した人物としても有名。 | 平久保章著 『隠元 (人物叢書)』
禅文化研究所篇 『隠元禅師逸話選』 |
李参平 (イ・サン・ピョン) | (?〜1655) 文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した肥前佐賀城主・鍋島直茂によって日本に連れてこられた朝鮮の陶工。日本名は金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)。1616年、有田で白磁用の土を発見し丈夫な白磁を焼き、有田焼の祖とされる。佐賀県有田町には李を祭神とする陶山神社がある。なおこの時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 | 童門冬二著 『鍋島直茂―葉隠の名将 (人物文庫)』 |
鄭成功 (ていせいこう) | (1624〜1662) 明の遺臣。別名国姓爺。台湾によって清に対抗し、日本に4度も援軍を要請したが鎖国を理由に拒絶され失意のうちに死んだ。母が日本人で長崎平戸に生まれ、日本・琉球・ルソンと交易をし大きな利益を得ていたといわれる。近松門左衛門作の人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、彼をモデルに書かれた。
参考書は→ | 陳舜臣著 『鄭成功―旋風に告げよ(中公文庫)』
伴野朗著 『南海の風雲児・鄭成功』
石原道博著 『国姓爺 (人物叢書)』 |
ルイス・フロイス Luis Frois | (1532〜1597) 京都近辺の関西を中心に布教を進めたポルトガルの宣教師。ジェスイット教団の伝道師として1563年に来日。信長、秀吉に謁見し、1569年には信長から許可をもらい、京都で布教を始め、1576年には京都に南蛮寺を建てた。しかし秀吉の時代になって禁教が決まると一時離日、晩年になって再び来日し主に九州で布教に当たったが長崎で没した。著書に『日本史』『日本文典』があり、戦国時代の情勢や大名たちの様子を知る貴重な資料となっている。 | 『完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫)』 『ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)』 |
ペドゥロ・モレホン Pedro Moreion | (1562〜1639) スペイン出身のイエズス会の宣教師。1603年にオルガンティノ神父の後をうけて、京都の下京教会の院長となり、約9年間に渡って日本のイエズス会の長として布教活動を行った。1616年、徳川幕府によるキリスト教の禁止政策により日本を追放された。後メキシコで布教を続け、この地で日本の情勢や布教活動や迫害の記録『日本殉教録』を著した。 | 『続日本殉教録(キリシタン文化研究シリーズ)』 |
トメ・ピレス Tome Pires | (1468?〜1524?) ポルトガルの薬剤師で薬種商人。1511年、インドの商館員となり、その後ポルトガルのアジア占領に従い、マラッカや中国に渡る。琉球王国や日本についても記述した『東方諸国記』を著す。『東方諸国記』は当時マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともにヨーロッパ人がアジア情勢を知る貴重な記録だった。 | 『東方諸国記 (大航海時代叢書)』 |
アビラ・ヒロン Bernaldino de Avila Giron | (?) スペインの貿易商人。1594年に来日し、1619年ごろまで長崎に滞在。『日本王国記』を著す。日本人の起源や風俗などのほか、キリスト教徒らの活動・迫害の記録、大地震などの天災、本能寺の変、秀吉の朝鮮出兵、関が原の戦い・大坂夏の陣などの政治・戦乱の歴史、京都の三条河原で行われた石川五右衛門の処刑についてなどが描かれている。 | 『日本王国記;日欧文化比較 (大航海時代叢書)』 |
アーノルダス・モンタヌス Anoldus Montanus van Bergen | (1625〜1683) オランダの牧師で、東インド会社の資料や日本に駐留した宣教師や商人の報告や日記・オランダ商館長の江戸参府日誌などの膨大な資料をもとに『日本誌』を著した。当時のヨーロッパにとって江戸時代の日本の情勢を知る貴重な資料だった。 | 『モンタヌス日本誌 英語版(全3冊セット)』 |
ヨハン・シドッチ (シドッティ) Giovanni Battista Sidotti | (1668〜1715) イタリア・シチリア島出身の宣教師。1903年に中国に渡り、1908年鎖国時代に屋久島に上陸。日本潜入を試みて捕らえられ、江戸の小石川宗門場所(キリシタン屋敷)に幽閉され牢死した。新井白石は獄中のシドッチと数回に渡り会見し西洋情勢などを尋問。その話をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著した。
| 『西洋紀聞 (東洋文庫)』 |
エカテリーナ2世 Alekseevna Ekaterina U | (1729〜1796) ロシアの女帝。ドイツ貴族の出身で、夫ピョートル3世を暗殺して即位。ポーランドの分割、トルコ戦争、アリューシャン列島の進出などを推進した女傑。遭難しロシア人に救助された伊勢の商人大黒屋光太夫と謁見し、支援した。1792年ラックスマンを函館に派遣。光太夫を帰国させ、同時に国交を迫った。
| 井上靖著 『おろしや国酔夢譚』
アンリ・トロワイヤ著 『女帝エカテリーナ(中公文庫)』
南川三治郎著 『恋と美の狩人 エカテリーナ』
小野理子著 『不思議な恋文―女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡 (ユーラシア・ブックレット)』 |
ラックスマン (ラクスマン) Adam Kirilovich Laksmam | (1766〜1796?) ロシアの陸軍将校。1792年女帝エカテリーナ2世の命を受け、漂流民大黒屋光太夫らを引渡しに根室に来航。翌年函館に入り幕府に日露の国交開始を迫ったが、鎖国政策中の幕府から拒絶された。ロシア最初の遣日使節である。父エリクは植物学者で、父がシベリアでたまたま光太夫らと出会ったことが来日のきっかけになった。
| 木崎 良平著 『光太夫とラクスマン―幕末日露交渉史の一側面 (刀水歴史全書)』
井上靖著 『おろしや国酔夢譚 (文春文庫)』 |
イワン・クルーゼンシュテルン Adam Johann von Krusenstern | (1770〜1846) 帝政ロシアの海軍軍人・探検家。1803年からおよそ3年をかけ、ロシア船を使い、世界で始めて世界一周を成し遂げた。清や日本との国交樹立、南米との貿易拡大、北米の植民地化のための視察が目的だった。遣日使節レザノフと仙台藩出身の津太夫ら4人の日本人漂流民も同行し、途中長崎に立ち寄り幕府と交渉を行うが失敗に終わっている。世界一周の記録は『世界周航記』としてまとめられ、北海道沿岸の地理なども詳しく記載されている。「日本海」を地図に載せ最初に命名した人物として知られている。 | |
レザノフ Nikolai Petorovich Rezanov | (1764〜1807) ロシアの企業家。1804年、クルーゼンシュテルン艦隊長による船に乗りロシアの使節として長崎に来航し、通商を求めたが鎖国政策を盾に幕府から拒絶された。後に武力によって蝦夷地や択捉や樺太に現れて略奪を繰り返したため、日本の守備兵と紛争を起こした。 | 『日本滞在日記 (岩波文庫)』
木崎良平著 『仙台漂民とレザノフ―幕末日露交渉史の一側面〈NO.2〉 (刀水歴史全書)』 |
ゴローウニン V.M.Golovnin | (1776〜1831) ロシア軍艦ディアナ艦長。1811年国後島に上陸、日本の守備兵に捕らえられ函館・松前の牢に入れられた。ロシア側は報復措置として蝦夷地開発事業に当たっていた高田屋嘉兵衛を拉致した。事情を知った嘉兵衛は日露間の紛争調停に尽力し、1813年、帰国すると幕府を説得してゴローウニンを釈放させた。(ゴローウニン事件)。ゴローウニンはこの約2年間に渡る監禁生活の経験を元に日本の当時の情勢を描いた『日本幽囚記』を著した。 | 『日本幽囚記(岩波文庫)』 |
カール・ツンベルク (ツュンベリー) Carl Peter Thunberg | (1743〜1822) スウェーデンの植物学者。安永年間に来日し医学・植物学を日本人に伝え帰国後『日本植物誌』を著した。
| 『江戸参府随行記 (東洋文庫)』 |
エンゲルベルト・ケンペル Engelbert Kaempfer | (1651〜1716) ドイツの医師・博物学者。ロシア、ペルシアなど中東、インドなどを医療団のひとりとして旅をし、1689年、オランダ人を装って長崎出島に来日、オランダ商館付の医師となる。およそ2年に渡る日本滞在中は長崎でドイツ医学を用いた治療を行い日本の医者たちにも伝えたが、鎖国中のため一般には広まらなかった。またその間、2度も江戸参勤に従って将軍(綱吉)に謁見した。その後も日本の研究に没頭し貴重な資料を集めた。12年ぶりにヨーロッパに帰った後ライデン大で医学博士号を取得。故郷ドイツで医者を続けながら1712年から『日本誌』を著し、これは死後の1727年にロンドンで出版され、名著として各国語に翻訳されゲーテ、カント、モンテスキューやフンボルトらが愛読したという。
| 『新版 改訂・増補日本誌〈1〉―日本の歴史と紀行』 『江戸参府旅行日記 (東洋文庫 303)』
ベアトリス・M.ボダルト・ベイリー著 『ケンペルと徳川綱吉―ドイツ人医師と将軍との交流 (中公新書)』
『ケンペル―礼節の国に来たりて (ミネルヴァ日本評伝選)』
ヨーゼフ・クライナー著 『ケンペルのみた日本 (NHKブックス)』 |
トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover | (1838〜1911) イギリス・スコットランド出身の商人。1859年に来日、おもに長崎に滞在し、当初は生糸や茶の輸出を中心として貿易を行っていたが、後に薩長を支援し軍艦や武器購入に尽力、また伊藤博文・五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの留学の手引きをするなど明治維新の推進に貢献し富を得た。維新後は高島炭鉱や長崎造船所の経営などで日本の近代化に務め、三菱財閥の基礎作りにも尽くした。長崎に残る「グラバー邸」は現存する日本最古の木造西洋建築物で国の重要文化財。
グラバーの晩年、ハーフの息子富三郎の哀しい最期についての参考書は→ | 杉山伸也著 『明治維新とイギリス商人―トマス・グラバーの生涯 (岩波新書)』
アレキサンダー・マッケイ著 『トーマス・グラバー伝』
内藤初穂著 『明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末』
マイケル・ガーデナ著 『トマス・グラバーの生涯――大英帝国の周縁にて』
|
シーボルト (ジーボルト) Philipp Franz von Siebold | (1796〜1866) ドイツの医師・博物学者。1823年、27歳の時オランダ人と偽って来日、長崎出島の商館で医師として務めた。シーボルトの医術は評判を呼び、出島を出ることを許され、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて治療と医学・自然科学の講義・教育に当たり高野長英、伊東玄朴、小関三英らを育てた。オランダ総督から命じられて日本の研究を進め、1万点に及ぶ動植物の標本や弟子たちからのレポートを集めた。日本人お滝と結婚し「いね」という娘をもうけた。1928年、帰国が決まり集めた資料を船に積んだところ、幕府天文方高橋景保からもらった伊能忠敬の日本地図が見つかり、スパイの容疑でシーボルトは追放、高橋は処刑、門下生や知人ら約50人の関係者が処罰された(シーボルト事件)。帰国したシーボルトは莫大な資料をもとに日本の研究本『日本植物誌』『日本動物誌』『日本』を著した。特に『日本』はバイブル的な役割を果たし、ヨーロッパで日本ブームを巻き起こした。ペリーも来日の際参考にしたといわれる。帰国してから約30年後に再来日し、お滝や弟子・友人たちとの再会を果たした。娘いねは日本初の女医となった。 長崎には彼の功績を記念して「鳴滝塾跡」や「シーボルト記念館」「シーボルト通り」がある。また、シーボルトミミズ(Pheretima sieboldi)やオニヤンマ(Anotogaster sieboldii)など学名に"sieboldi"または"sieboldii"など、彼に対し献名された動植物も多い。 | 『江戸参府紀行 (東洋文庫)』
吉村昭著 『ふぉん・しいほるとの娘(新潮文庫)』
ヨーゼフ・クライナー著 『黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス)』
ヴェルナー・シーボルト著『シーボルト、波瀾の生涯』
参考書は↓
|
ウォルシュ兄弟 トマス・ウォルシュ、ジョン・ウォルシュ Walsh | (〜) アメリカ・ニューヨークの出身。1862年、神戸、横浜にウォルシュ・ホール商会を設立。主に生糸と緑茶、絹物を扱う貿易商として活躍した。(調査中) | (調査中) |
ウィリアム・ホイットフィールド William Whitfield | (?) 捕鯨船ジョン・ホーランド号の船長。鳥島を通りかかった時、島に遭難していた土佐(高知)の漁師ジョン万次郎(中浜万次郎)らを救助した。14歳だった万次郎をアメリカ本国に連れ帰り、家に住ませて塾や学校に通わせた。
| 成田和雄著 『ジョン万次郎―アメリカを発見した日本人 (河出文庫)』
春名徹著 『中浜万次郎―世界をみてきたジョン=マン (講談社 火の鳥伝記文庫)』 |
ヴィレム2世 (ウィレム二世) William II (William Frederick George Louis) | (1792〜1849) オランダ国王。特使コープスを派遣して将軍徳川家慶に開国を勧める親書を送った。オランダサッカーリーグのクラブ「ヴィレムII」は、彼の名前が由来となっている
| (調査中) |
ビッドル James Biddle | (1783〜1848) アメリカの東インド艦隊司令長官。1846年(ペリーの7年前)、旗艦コロンバス号とヴィンセンズ号の2隻の軍艦を率いて浦賀に来日しアメリカ大統領ポークの親書を持って国交を求めた。しかし浦賀奉行所から幕府の意向である「鎖国」を理由に拒否された。幕府船に乗り込む際間違った船に乗り、役人の一人が抜刀したため、ビッドルは激怒したが、その後誤解によるものと諭され、交渉は穏便に進むものの、結局は目的を果たせず退去した。この後幕府は沿岸の警固に務めた。
| 五百旗頭真著 『日米関係史 (有斐閣ブックス 103)』 |
ペリー (ペルリ) Matthew Calbraith Perry | (1794〜1858) アメリカの東インド艦隊司令長官。15歳でアメリカ海軍に入り様々な殊勲を上げ、海軍の近代化に努め、アメリカ初の蒸気による軍艦フルトン2世号の艦長になった。1853年、フィルモア大統領の国書を持って4隻の蒸気船(黒船)を従えて浦賀に来航、江戸幕府に開国を迫った。翌1854年には再来日し下田・函館などの開港、アメリカ船(主に捕鯨船だった)への燃料・水の補給などを盛り込んだ日米和親条約を結んだ。アメリカの進んだ文化を示すため通信機、ピストル、蒸気機関の模型、写真機などを幕府に提供し日本に紹介した。『日本遠征記』の著書がある。ペリー(黒船)来航はおよそ250年に渡る日本の「鎖国」を解き、海外諸国との貿易開始の端緒を開き、尊皇攘夷運動・明治維新・日本の近代化を一気に促した「大事件」であった。 このページの上の肖像画は当時の絵描きが描いたペリーの想像画である。…ひどすぎる。 | 『ペリー提督日本遠征日記 (地球人ライブラリー)』
ピーター・ブース・ワイリー著 『黒船が見た幕末日本―徳川慶喜とペリーの時代』
大江志乃夫著 『ペリー艦隊大航海記 (朝日文庫)』
サミュエル・エリオット・モリソン著 『伝記 ペリー提督の日本開国』 |
プチャーチン Evfimii Vasilievich Putyatin | (1803〜1883) ロシアの使節。海軍大将で1827年ナワリン海戦でトルコ艦隊を破るなどの戦功を挙げた。1853年ペリーの直後に長崎に来航し国交を迫る。幕府側と会議中にクリミア戦争が勃発し一時退去したが、後1954年に下田に来航し翌年日露和親条約を結んだ。
| 上野芳江著 『プチャーチン提督―150年の航跡 (ユーラシア・ブックレット)』 |
イワン・ゴンチャロフ Ivan Alexandrovich Goncharov | (1812〜1891) 小説『オブローモフ』で知られるロシアの作家。1852年から1855年まで、イギリス、アフリカ諸国、日本に旅した。日本には1853年に長崎に来航、プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『日本渡航記(フリゲート艦パルラダ号)』を刊行した。 | 『ゴンチャローフ日本渡航記 (講談社学術文庫)』 |
ハリス Townsent Harris | (1804〜1878) アメリカの初代駐日総領事。若い頃から商人として中国・インドなどを旅し東洋に対しての深い知識と経験を持っていた。1856年静岡県下田・玉泉寺に駐留、1年後に江戸に赴き将軍に謁見、強い態度で日米修好通商条約を締結を迫った。1858年、大老井伊直弼は朝廷の許可を得ずにこの不平等条約を結び、後々まで大きな問題を残した。下田に滞在中、「家政婦」を求めたが日本人はこれを理解できず、「妾」となる女性を世話した。それが唐人お吉である。
参考書は→国際結婚した有名人のコーナーで。 | 『黒船』
手塚治虫著 『陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)』
河村望著 『タウンゼント・ハリスと堀田正睦―日米友好関係史の一局面』
竹岡範男著 『唐人お吉物語』 |
オルコック (オールコック) Sir Rutherfard Alcok | (1809〜1897) イギリスの外交官。始めは軍医としてオランダに渡る。中国のアロー号事件の際に外交官として活躍しその功が認められて1858年初代駐日総領事に任命され来日。しかしハリスと対立し日本に対し強硬策をとったため恨みを買い、水戸浪士に公使館を襲撃された。
| 『大君の都 ―幕末日本滞在記 (1)』 |
ヒュースケン Henry Conrad Joannes Heusken | (1832〜1860) オランダ人で後アメリカに帰化した通訳官。1856年、ハリスに雇われて来日し、下田玉泉寺で秘書兼通訳を務めた。1860年に江戸で攘夷派の武士に暗殺される。ヒュースケンの日記が残されており、幕末外交史を探る貴重な資料となっている。
| 『ヒュースケン日本日記 1855~1861 (岩波文庫)』 |
リチャードソン Charles Lenox Richardson | (1834〜1862) イギリス人商人。1862年、上海で商人をしていたが日本に観光に訪れ、友人の横浜居留地委員長のウィリアム・マーシャル、マーシャルのいとこのマーガレット、ハード商会横浜駐在員ウッジローブ・チャールズ・クラークらとともに川崎大師に向かう途中の生麦村で、薩摩藩主島津久光の大名行列に遭遇。騎乗のまま行列を横切ったことを無礼とされ、警固の武士に斬り殺された(生麦事件)。イギリスはこれに猛抗議し、代理公使ジョン・ニールを通じて薩摩藩と江戸幕府に賠償金10万ポンド、犯人の引渡しと陳謝を要求するが、薩摩藩は拒否したため、イギリスは艦隊を派遣し鹿児島を砲撃した(薩英戦争)。しかし薩英戦争の結果、ボロ負けした薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを察知しイギリスと和解、以後薩英は急接近し協力し倒幕の原動力になった。
| 吉村昭著 『生麦事件』
宮沢真一著 『「幕末」に殺された男―生麦事件のリチャードソン (新潮選書)』 |
ハリー・パークス Sir Harry Smith Parkes | (1828〜1885) 英国の駐日公使。中国・上海の領事として活躍していたが、1856年、オルコックの要請で後任の日本の公使に就任。以後約18年に渡って日本に滞在。サトウを右腕として使い、薩長と協力して倒幕に暗躍した。明治維新後は西洋文明の導入やお雇い外国人の来日斡旋などに尽くし、日本の近代化を支援した。
| (調査中) |
ロッシュ Leon Roches | (1808〜1901?) フランスの外交官。1864年駐日公使として来日。幕府側について日本最初の外交代表のパリ駐在や軍事教官の招聘などに尽力した。横浜仏語学校、日仏合同商社を設立。明治維新後に帰国した。
| 鳴岩宗三著 『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交―駐日フランス公使レオン・ロッシュは、なぜ、落日の幕府に肩入れしたのか?』 |
アーネスト・サトウ Ernest Satow | (1843〜1929) イギリスの外交官。わずか18歳で英国外務省に入省し、志願して来日しイギリス公使館員となりパークスの補佐をした。しかし来日して約一週間ほどで生麦事件が起こり、その後薩英戦争が勃発するなど日英関係はちょうど多難な時期を迎えた。サトウは通訳としてこの重責を担い、パークスとともに活躍し幕府側・維新側双方から厚い信頼を得た。特に伊藤博文・勝海舟・桂小五郎らと篤い親交を結んでいた。その後何度か日本を離れ他国に勤務するが、再度日本に帰任。結局外交官として在日は約20年に及んだ。この間にサトウは天皇の下、幕府と維新側が協力した共和国を作ることを想定し、諸大名にその提案書を配り広めた。この考えが後の明治政府(立憲君主制)の母体になったといわれる。引退後はイギリスの小さな村で英文学の研究に励み、オックスフォード、ケンブリッジ両大から学位を授与された。また日本文化の紹介も積極的に行った。因みにサトウは「佐藤」ではなく、まったくの偶然で、本人も「私の名前は日本人のありふれた苗字と一緒だったので、容易に覚えてもらえ、知らない人にも伝わっていた」と言及している(回想録『一外交官の見た明治維新』より)。
| 一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
萩原延壽著 『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄(朝日文庫)』
古川薫著 『アーネスト・サトウ―女王陛下の外交官』
B・M・アレン著 『アーネスト・サトウ伝 (東洋文庫)』
茶屋二郎著 『一八六八年 終りの始まり―アーネスト・サトウの夢と現実』 |
エジンバラ公 Alfred Ernest Albert | (1844〜1900) アルフレッド・アーネスト・アルバート(アルフレート)、英ビクトリア女王とアルバート公の次男。駐日英国大使ハリー・パークスの尽力で1869年(明治2年)、初めて来日した欧州の王族である。9月に横浜に到着、明治天皇に招かれ、皇居で謁見した。その際、「幣(ぬさ)」と呼ばれる禊(一種の悪霊払い?)の儀式が行われた。明治天皇から漆器や脇差などの贈り物の他、ビクトリア女王へ「世を治め人をめぐまば天地(あまつち)の ともに久しくあるべかりけり」という和歌を賜った。様々な歓迎儀式が行われ、相撲の観戦や能狂言の観劇なども行われている。エジンバラ公は父の跡を継ぎ1893年にザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートとなり、ドイツで暮らした。
| 『英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 (講談社学術文庫)』
ドナルド・キーン著 『明治天皇〈上巻〉
』 |
ジョージ5世 George V | (1865〜1936) 英ビクトリア女王の孫。エドワード7世の次男。現エリザベス女王の祖父。大津事件のニコライ2世は従弟に当たる。1歳上の兄アルバート・ヴィクター (後のクラレンス公)とともに王子時代に海軍に入隊、戦艦で南アフリカや豪などのイギリスの植民地をはじめとする3年にも及ぶ世界周遊旅行の一環として1881年に来日。兄ヴィクターは18歳、ジョージ5世は17歳であった。来日中には兄弟揃って腕に龍の彫り物をし、京都で能などを鑑賞した。 兄アルバート・ヴィクターは肺炎のため28歳の若さで急死したため王位を継承し、後、大英帝国国王・初代ウィンザー朝の王となった。なおジョージ5世は、1921年に訪英した昭和天皇(当時皇太子)を歓迎して親身に世話をし、昭和天皇の人格に大きな影響を与えたといわれている。因みにアルバート・ヴィクターは「切り裂きジャック」だったのでは?という噂があった。
| フロム・ヘル [DVD] |
ユリシーズ・グラント Ulysses Simpson Grant | (1822〜1885) 第18代アメリカ大統領。大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。南北戦争では北軍の将軍として活躍し、北軍に勝利をもたらした貢献者で絶大な人気を誇った。1872年、来米した岩倉使節団と会談し、日本のキリスト教禁止政策を非難した。また、1871年、黒田清隆の要請で現職の農務長官だったケプロンを北海道の開拓のため派遣した。大統領辞任後の世界一周旅行の際に夫人とともに日本を訪問。1879年6月軍艦リッチモンドで長崎に上陸し、約2ヶ月に渡って滞在した。京都に行く予定もあったが当時関西でコレラが発生したため、中止して7月3日、横浜に渡った。東京では岩倉具視が出迎え、再会を果たした。7月4日の独立記念日に東京・浜離宮で明治天皇と会見した他、芝・増上寺で松(グラント松)を、上野公園で檜を植樹した。また続いて天皇に招かれて陸軍の閲兵式に望み、7月半ばには日光で伊藤博文と日清間で揉めていた「琉球問題」について会談。再び東京で天皇とその問題について会談し「日本は清国に対して寛大かつ公正な精神で譲歩すべきである」などと言ったといわれている。8月25日には上野公園で開催された東京遷都12周年記念祭典に招かれ、天皇とともに槍術や流鏑馬、花火を観賞、その後グラントは宿舎までの帰路を数十万人の東京府民の歓迎の旗や提灯に迎えられながら進んだ。この他能や歌舞伎を鑑賞、静岡県・三島など各地で歓迎式典があり、様々な名産を贈呈されている。これらの一部はワシントンのスミソニアン博物館で展示されている。グラントは後にこれらの体験を詳細に日記に残しそれらは『グラント将軍日本訪問記』として残されている。それには日本を「言葉に尽くせぬほど美しい」と評し、天皇や岩倉、三条実美首相などの印象も細やかに語っている。仮名垣魯文の『格蘭氏伝倭文賞(ぐらんどしやまとぶんしょう)』はグラントをモデルにした伝記小説。また、東京練馬にあったアメリカ軍人の住居施設「グラントハイツ(現在光が丘団地)」は彼の名に因んだもの。
| ドナルド・キーン著 『明治天皇〈1〉 (新潮文庫)』
ジョン・ラッセル・ヤング著 『グラント将軍日本訪問記』 |
カラカウア王 Kalakaua | (1836〜1891) ハワイ王国の第7代国王。1874年、選挙によって国王に選出され、死去するまでのおよそ17年間国王を務めた。アメリカ合衆国からの移民の問題と、世界各国との外交関係を築くため、世界各地を歴訪。その際、日本にはお忍びで立ち寄ることになった。しかし彼の目的は「日本人のハワイ移住の奨励」であり、そのため条約の締結を望んでいたため、日本側から国賓として扱われた。1881年3月4日横浜に到着、ハワイ国旗を振る市民の大歓迎に国王は大感激。翌日、赤坂御所で明治天皇と対面。最初3日間の滞在予定であったが、井上馨外務大臣の発案で数々の歓迎儀式が行われることになり、延長された。3月11日には再び明治天皇と会談。王はヨーロッパ諸国に対してアジア諸国が連盟し「治外法権」などの偏った関係を改善するべきことを力強く説き、天皇にニューヨーク博覧会の際に渡米して世界にこれを説得して欲しいなどと話をしている。また、姪のカイウラニ王女(当時5歳)と山階宮定磨王(当時14歳・のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した。実現しなかったが。彼が初めて来日した外国元首である。
| |
ニコライ2世(アレクサンドロビッチ) Nikolai U,Aleksandrovich Romanov | (1868〜1918) ロシアのロマノフ朝最後の皇帝。ピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で日本に興味を持っていた。1891年皇太子時代に来日したが滋賀県大津市で警固の警官津田三蔵に襲われて負傷した(大津事件)。日清戦争後の1895年、いわゆる三国干渉をし日本に遼東半島を返還させた。またこのことがきっかけに日露関係が悪化し日露戦争を引き起こした。 ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇
詳細は |
半藤一利著 『日露戦争史 1』 |
ジョン・ウイリアム・ドレーク John William Drake | (生没年調査中) イギリスの商船ノルマントン号の船長。1886年、横浜から神戸に向かう途中、紀伊半島沖で遭難した。その際イギリス人の他インド人、中国人、日本人ら約60人が乗っていたが、日本人乗客25人全員、インド人などアジア人ばかりが死に、イギリス人ばかりが救命ボートに乗り助かった(ノルマントン号事件)。これは人種差別であるとして神戸英国領事館で裁判にかけられた。しかし、無罪となったため、世論は怒り収まらず、井上馨外相から殺人罪で告訴された。結果、横浜英国領事館判事ハンネンより禁錮3ケ月の判決を受けた。
| 神戸外国人居留地研究会編・著『神戸と居留地』 |
エリザベス・アンナ・ゴルドン Elizabeth Anna Gordon | (1851〜1925) 英国イングランドの名門に生まれ、スコットランドの貴族に嫁いだ名門出身の女性で多年ビクトリア女王に女官として仕えた。オックスフォード大で比較宗教学を学び、アジア宗教に興味を持つ。キリスト教と仏教の根本同一(「仏基一元」)を確信、1891年夫ともに世界旅行中に日本に立ち寄り調査に当たった。その際日本文化に深い感銘を受け、また日本には洋書が少ないことを聞き、帰国してから英米カナダの新聞で「英国の文化を日本に伝え、親善をはかる為に洋書を日本に贈ろう」と呼びかけ、10万冊を集め、1907年再来日し東京市に寄贈した(東京・日比谷図書館収納「日英文庫」)。それを機に日本に在留し、日本文化と仏教の本格的な研究を開始する。大隈重信と知己となり、東京専門学校(現・早稲田大)で名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、蔵書や仏画・軸・物品等を早大に寄贈(「ゴルドン文庫」)した。その後1912年にも来日したが滞在中の京都で病死した。高野山には夫人の寄贈による景教碑(西安のレプリカ)がある。
| (調査中) |
閔妃 (びんき、またはびんひ、みんび) | (1851〜1895) 朝鮮の王妃。1873年、兄らとともに父大院君を引退させ、清国と結んで権力を奮った。また、日本から軍事顧問などを招き朝鮮国内の改革を進めた。その後日清戦争で清が破れるとロシアと結びついて1895年、親露政権を樹立した。しかし危険を察知した日本公使三浦梧楼がクーデターを扇動し、親日派政権を立てるため閔妃は暗殺された。これ以後朝鮮半島は日本の影響力が一層強まる。 | 角田房子著 『閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)』
木村幹著 『高宗・閔妃―然らば致し方なし (ミネルヴァ日本評伝選)』
崔文衡著 『閔妃は誰に殺されたのか―見えざる日露戦争の序曲』
金文子著 『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか』
|
大院君(だいいんくん) | (1820〜1898) 李氏朝鮮の王族で、元来「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、ここでは興宣大院君(こうせんたいいんくん)のこと。閔妃の父王で排外鎖国政策をとったため閔妃と対立、引退させられたが、1882年、勢力を持ち直し日本公使館を焼き討ちした(壬午事変)。
| 呉善花著 『韓国併合への道 (文春新書)』 |
金玉均 (きんぎょくきん) | (1851〜1894) 朝鮮独立党党首で日本に接近し朝鮮国内の改革を推進し、閔妃率いる事大党打倒のクーデターを起こすが失敗し、日本に亡命した(甲申事変)。
| 姜健栄著 『開化派リーダーたちの日本亡命―金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』 |
李鴻章 (りこうしょう) | (1823〜1901) 清国全権。1885年、伊藤博文と甲申事変の後処理として天津条約を結ぶ。1895年には日清戦争後の朝鮮半島他の占領をめぐる講和条約(下関条約)を結んだ。 | 若尾正昭著 『清朝・大官の幻影―李鴻章と丁日昌』 |
ジョン・ヘイ John Miton Hay | (1838〜1905) アメリカの政治家。ジャーナリスト、実業家としても才能を発揮し、駐英大使、マッキンリー、シオドア・ルーズベルト大統領の国務長官を務めた。1899年、日清戦争後の清に対して列強各国が租借したのを受けて門戸開放・機会均等・領土保全を宣言、アメリカも清への進出を決めた。
| 檜山幸夫著 『日清戦争―秘蔵写真が明かす真実』 |
セオドア・ルーズベルト Cheodore Roosevelt | (1858〜1919) 第26代アメリカ大統領。日露戦争の和平を斡旋し、ポーツマス講和会議を開いた。この功績によりノーベル平和賞を受ける。新渡戸稲造の『武士道』や『忠臣蔵』を愛読し、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、親日派として知られたが、ハーバード大学時代の友人金子堅太郎の影響といわれる。「テディベア」のテディとは彼の愛称。ラシュモア山に刻まれた四人の歴代大統領のひとり。映画『チーム★アメリカ/ワールドポリス』ではその彫刻の頭が割れて戦闘機が飛び出るシーンがあったっけ。現在マーチン・スコセッシ監督がディカプリオ主演で伝記映画を製作中。
| 長田彰文著『セオドア・ルーズベルトと韓国』 |
ウイッテ (ヴィッテ) Vitte | (1849〜1919) ロシア全権大使。皇帝ニコライ1世によって大蔵大臣として採用され、その後ニコライ2世にも重用されロシア帝国大臣会議議長、首相を歴任。ポーツマスで日露講和条約の調印を行った。
| ピーター・E. ランドル著 『ポーツマス会議の人々―小さな町から見た講和会議』 |
安重根 (アン・ジュングン) | (1879〜1910) 朝鮮の民族主義者。日本の韓国併合に抵抗し、朝鮮独立運動に従事した。私財を投じて二つの学校を建て思想教育に専念するが植民地化していく祖国の現状を憂い、家族と別れてウラジオストクに亡命。閔妃暗殺事件をきっかけに盛り上がった義兵運動(反日運動)に加わり、1ヶ月半に渡って300人の義兵を率いて日本と戦うが破れて再びロシアに逃亡した。1909年、ウラジオストクに潜伏していた安重根は、韓国を日本に併合する政策を進めた伊藤博文(韓国統監府初代統監)がハルビンに来ることを知り、ハルビン駅で伊藤博文(韓国統監府初代統監)を暗殺した。この事件で投獄され翌1910年3月26日に処刑されたが「抗日闘争の英雄」として現在の韓国では評価されている。 | 韓碩青、金容権著 『安重根〈第2部〉超人篇』
佐木隆三著 『伊藤博文と安重根 (文春文庫)』
中野泰雄著 『安重根と伊藤博文』
斎藤充功著 『伊藤博文を撃った男―革命義士安重根の原像 (中公文庫)』 |
|
後編(明治〜現代)はこちらへ。 お雇い外国人・開国後に来日した宣教師・学者・ジャーナリストら 明治期来日した外国人の特集はこちらへ |
|
このページの参考書など 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
佐伯修著『外国人が見た日本の一世紀 (新書y)
』
加藤恭子著『私は日本のここが好き!―外国人54人が語る』
波田野毅著『日本賛辞の至言33撰―世界の偉人たちが贈る』
「書かれた日本」文献研究会著『世界史が伝える日本人の評判記―その文化と品格 (中経の文庫)』
前川貞次郎、会田雄次、外山軍治編・著『世界史辞典 新制版』
毎日新聞社編『一億人の昭和史別冊 昭和史事典』
映画監督・内藤誠著『外国人が見た古き良き日本 (講談社バイリンガル・ブックス)』
木暮修著『ニッポン通―外国人から見たちょっとヘンなこの国 (知恵の森文庫)』、『正しいニッポン人―49人のガイコク人と木暮修』
田中英道著『日本史の中の世界一』
|