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名 | (生年〜没年)解説 | おススメ資料 |
フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright | (1869〜1959) アメリカの建築家。近代建築の三大巨匠のひとり。独特な平面と大胆なアジアンテイストを盛り込んだ設計で新境地を開き、特にヨーロッパで高く評価された。来日して旧帝国ホテル(現在明治村に移築)、自由学園明日館(東京・豊島区)などを設計。日本の近代建築に大きな影響を残した。浮世絵の収集家としても知られる。 | 大久保美春著 『フランク・ロイド・ライト―建築は自然への捧げ物 (ミネルヴァ日本評伝選)』
谷川正己著 『フランク・ロイド・ライトの日本 浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」 (光文社新書)』 『図面で見るF.L.ライト―日本での全業績』
山口由美著 『帝国ホテル・ライト館の謎―天才建築家と日本人たち (集英社新書)』 |
快楽亭ブラック
| (1858〜1923) オーストラリア出身の落語家・講釈師・奇術師。本名はヘンリー・ジェイムズ・ブラック。日本名は石井貎刺屈。1865年新聞記者だった父ジョン・レディ・ブラックとともに来日。父は政府を揶揄したかどで圧力がかかり上海に逃れたが、本人は日本に残り奇術師の弟子になる。1884年には三遊亭一門に弟子入りをして本格的な落語家への道を歩んだ。1891年3月より「快楽亭ブラック」と名乗り、青い目の落語家として大人気を得た。その後日本人と結婚して日本に帰化。なお、日本で初めて録音されたレコードは彼の落語であった。現在映画評論家としても知られる2代目快楽亭ブラックとは血縁関係は無い。
| 『明治探偵冒険小説集 (2) 快楽亭ブラック集 ちくま文庫』
小島貞二著 『決定版 快楽亭ブラック伝』
イアン・マッカーサー著 『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント』 |
ロバート・ランシング Robert Lansing | (1864〜1928) アメリカ・ニューヨーク州出身の弁護士で、ウィルソン大統領の下で第42代アメリカ合衆国国務長官を務めた。1917年にワシントンD.C.において日本代表の石井菊次郎と会談を行い、中国での特殊権益に関する石井・ランシング協定を締結した。 | 池田十吾著 『石井・ランシング協定をめぐる日米交渉』 |
サンソム George Bailey Sansom | (1883〜1965) イギリスの外交官。1904年、若干20歳で領事となり来日。1907年日英海軍条約の締結に従事する。満州事変から日米開戦直前まで在日。また日本文化・言語の研究家としても活躍。コロンビア大学の日本学者となり、太平洋戦争後は駐米大使を経て連合国極東委員会イギリス代表となり再来日、マッカーサーのブレインを務めたが、教育改革に反対して罷免された。『日本史』『日本文化小史』などの著作がある。
| 『日本―その文化のあゆみ』
『西欧世界と日本(ちくま学芸文庫)』
妻キャサリンの著作 『東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)』 |
アーサー・ウェイリー Arthur David Waley | (1889〜1966) 英・ケント州の名家に生まれる。名門ラグビー校からケンブリッジ大キングスカレッジに進み、古典学を学ぶ。ヴァネッサ・ベルやヴァージニア・ウルフの兄弟ら学者や作家・芸術家からなるブルームズベリー・グループの1人でもあった。その後大英博物館の東洋学部に勤務し独学で日本語と中国語を習得。大英博物館は1929年に辞すがロンドン大学東洋アフリカ研究学院で講義を続けつつ著作に務め、白楽天の詩や論語、日本の和歌集や能など古典を英訳した。特に1921年〜1933年に6巻に分けて出版された『The Tale of Genji(源氏物語)』は後の東洋学・日本語研究者達に大きな影響を与えた。この著作によって『源氏物語』が世界最高の文学のひとつとして世に知られるようになった。今でも外国において日本を研究する上でのバイブルのような存在となっている。1952年に大英帝国勲章(CBE)を受賞、1956年には名誉勲位 (The Order of the Companions Honour: CH)となった。日本や中国に実際に来る事もなく、また日本人などの協力者もおらず、辞書なども無い時代に全くの独学で日本語をマスターし、華麗な翻訳文を成した驚異の人である。ただし現代語(口語)はできなかったと言われる。 | 『ウェイリー版 源氏物語〈1〉 (平凡社ライブラリー)』
宮本昭三郎著 『源氏物語に魅せられた男―アーサー・ウェイリー伝 (新潮選書)』
平川祐弘著 『アーサー・ウェイリー?『源氏物語』の翻訳者』 アリスン・ウェーリー著
『ブルームズベリーの恋―アーサー・ウェーリーとの愛の日々』 岡野弘彦著
『国境を越えた源氏物語 (エンゼル叢書)』 |
魯迅 (ろじん) | (1861〜1936) 中国を代表する作家・思想家。1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学、この頃の体験を元に『吶喊自序』『藤野先生』を著す。仙台には約1年半いたが学校を中退、帰国。中華民国政府や北京大学で講師などをしながら『狂人日記』『阿Q正伝』などの傑作を残した。 | 『阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫)』
太宰治著 『惜別 (新潮文庫)』
竹内好著 『魯迅 (講談社文芸文庫)』
沼野誠介著 『魯迅と日本』 |
孫文(そんぶん) | (1866〜1925) 広東省出身。少年時代にハワイに渡りキリスト教の洗礼を受ける。帰国後香港の医学校で学びマカオで開業した。その後政治結社「興中会」に加盟して清国打倒を目指す革命運動に加わった。革命思想「三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)」を発表、1905年、東京で「中国革命同盟会」を組織、1911年の辛亥革命を指導すると帰国して南京で中華民国を成立させ、臨時大統領となる。しかしすぐに袁世凱の謀略により退陣、日本に亡命した。1919年、「中国国民党」を結成、1921年には広東政府を樹立、1924年には国共合作に成功した。その後も三民主義の宣揚に努め、連ソ容共政策を取り、全国統一に全力を注いだが1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に残し北京で死去した。中国では今も「孫中山先生」と呼ばれ、中国、台湾両国から尊敬を受ける数少ない一人である。神戸には孫文ゆかりの記念館「移情閣」がある。 | ツイ・ハーク監督の大傑作 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明』
中日合作映画 『孫文』
陳舜臣著 『孫文〈上〉武装蜂起 (中公文庫)』
田所竹彦著 『孫文―百年先を見た男』
孔健著 『中国新聞史の源流―孫文と辛亥革命を読む』 |
袁世凱 (えんせいがい) | (1859〜1916) 中国江南省の豪族の生まれ。1881年に李鴻章の軍に加わり朝鮮に渡り壬午の変・甲申の変では閔妃に協力し鎮圧に貢献した。1894年東学党の乱に際し清軍の出兵を要請、日清戦争を誘発した。しかしこの戦争では敗北し清軍の再編のため強力な軍隊(のちの北洋軍)を組織した。1898年戊戌の変の際、康有為を裏切り西太后に近づき大臣となる。1911年辛亥革命の混乱に乗じて清朝を倒し、中華民国臨時大統領となる。第一次世界大戦勃発後の1915年、日本の21か条要求を受諾。孫文らに勝利して帝政を復活、自ら皇帝に就こうとするが独裁的な政治を進めたため国民の信頼を失い、中国のナショナリズムと反日・反袁運動が高まる中で没した。 | アーネスト・P. ヤング著 『袁世凱総統―「開発独裁」の先駆 (光風社選書)』 |
蒋介石(しょうかいせき) | (1887〜1975) 中国浙江の塩商人の子。1907年、日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学び、卒業後に新潟・高田連隊の野戦砲兵隊の士官候補生となった。この留学中、東京で中国革命同盟会に入り孫文と出会い傾倒した。1911年辛亥革命が起こり帰国、上海で清朝軍と戦い、中華民国成立後は軍閥との内戦で頭角を現し、孫文の下で参謀総長などを務めた。孫文の死後は国民革命軍総司令として中国統一を目指し北伐を開始、1927年には上海クーデターを断行し共産党弾圧に乗り出し、南京政府を樹立した。1928年には北伐を完成させ、北京を占領して中国統一を実現、中華民国の主席となる。その後も共産軍との戦いは続いたが満州事変が起こり日中戦争が本格化すると国共合作をし、西安事件以降は国民政府主席として抗日統一戦線を指導した。しかし第二次世界大戦が終戦し日本が敗れると、毛沢東率いる共産党との対立が再び激化、1949年には戦局が不利になり、中国本土を追われ台湾に逃れた。以後は国民政府総統として米国の庇護のもと台湾に中華民国を建国した。87歳で死去するまで総統として台湾を指揮した。1971年に中華人民共和国が国連に認められると台湾は国連を脱退させられた。また、1972年に日本はアメリカに倣って中華人民共和国と国交を樹立したが、同時に中華民国との正式な国交が無い状態となった。これは現在まで続いている。 | 保阪正康著 『蒋介石 (文春新書)』
黄文雄著 『蒋介石神話の嘘―中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』
家近亮子著 『蒋介石と南京国民政府―中国国民党の権力浸透に関する分析』 |
張作霖 (ちょうさくりん) | (1875〜1928)
| (調査中) |
ビクター・リットン Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton | (1876〜1947) イギリスの政治家・外交官・伯爵。父はインドの総督でビクターも後を継いでいる。「満州国」が日本の傀儡国であり、侵略行為であるとして中国から国際連盟に提訴されたことを受けて、1932年、調査のため団長として現地に派遣された。この調査団は彼の名を取って「リットン調査団」と呼ばれた。彼がまとめた報告書によって日本の侵略行為が明らかにされ、「満州国は列国の共同支配が望ましいこと」が提議され、これが国際連盟の会議で採択された。松岡洋右率いる日本の代表団はこれを激しく抗議、国際連盟を脱退し、日本はこれを機に世界から孤立、一気に戦争への道を歩むことになった。因みに「リットン調査団」というお笑いコンビがある。 | 渡部昇一編・著 『全文リットン報告書』
ハインリッヒ・シュネー著 『「満州国」見聞記―リットン調査団同行記 (講談社学術文庫)』
池宮彰一郎によるノンフィクション小説 『事変―リットン報告書ヲ奪取セヨ (角川文庫)』 |
ヒトラー (ヒットラー) Adlf Hitler | (1889〜1945) オーストリア生まれ。画家を目指してウィーンに出て、志願兵として第一次世界大戦に参加。ウィーンやミュンヘンで貧困生活を送る間に大ドイツ主義、反ユダヤ主義思想に傾倒。ミュンヘンでドイツ労働党に入党すると鋭い弁舌で頭角を現し、1920年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス:NAZIS)を組織して党首になった。軍部・資本家の支持を受けて党は拡大、勢力をつけ、1923年いわゆるミュンヘン一揆を起こすが失敗。投獄されるが獄中で『わが闘争―民族主義的世界観(マイン・カンプ)』を執筆した。釈放後も合法政党として党を再建し、1932年の総選挙でベルサイユ条約の破棄を主張して農民や中産階級の支持も取り付け、議会の第一党に進出。翌年には単独政党による内閣を結成し独裁体制を確立した。1934年ヒンデンブルグ大統領が死去すると「総統」と称して最高主権者となり、出版・言論の自由を無視し、労働組合の禁止、軍部・教育を支配するなど厳重な統制を敷き、また反対勢力を血の粛清によって撃退、大ドイツ民族主義で侵略的外交政策を開始。1936年ラインラントに進駐、1938年にオーストリアを併合。同年独伊英仏首脳会談でミュンヘン協定を成立させた。1939年独ソ不可侵条約を結ぶとポーランドに侵攻。これに対して9月3日英仏がドイツに宣戦。これが第2次世界大戦のきっかけとなり、ヨーロッパのみならず全世界を戦火に巻き込んだ。日本とは1936年に防共を目的に同盟を結んでいたが、翌年にはイタリアが加わり、さらに1940年にはこれが発展して日独伊三国同盟を結び、英仏米ソなどの連合国に対抗した。当初電撃作戦と優れた新兵器の導入などでドイツは軍事的成功をおさめた。この間ユダヤ人の大量虐殺、スラブ民族への奴隷的労働の強制、全世界の占領地からの物資の略奪を指導した。しかしスターリングラードでの敗北を機にやがてソ連・アメリカの軍事力に打ち破られ、戦勢は不利になり連合軍の大攻勢にあって敗退。1945年4月30日、陥落寸前のベルリンの総統官邸地下壕で愛人エバ・ブラウンと服毒死したと伝えられる。人類史上最大の「悪役」とされ、ハリウッド映画では「敵」の設定でよく描かれるが、当時のドイツではベルサイユ条約下の大不況にあり、民衆は貧窮していた。それを打破するための経済復興策を国民に明確に示し、失業者対策として公共事業を推進するなど強靭なリーダーシップを発揮した(もちろん他国への侵攻とユダヤ人の排除も含まれているが)。そのため圧倒的な支持を得たわけである。フォルクスワーゲンやアウトバーンなど「正の遺産」もある。 |
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ムッソリーニ Benito Mussolini | (1883〜1945)
| (調査中) |
張学良(ちょうがくりょう) | (1901〜2001) 張作霖の長男 | (調査中) |
リヒャルト・ゾルゲ Richard Sorge | (1895〜1944) ドイツ出身の国際的スパイ。1925年にモスクワでソ連共産党のために働き、後に上海で諜報活動を行った。この時、朝日新聞記者で近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実などと知り合う。1933年、「ナチス党員・新聞の特派員」の肩書きで来日、尾崎らと協力して情報収集を行うが、ソ連のスパイ活動であることが発覚し太平洋戦争開戦直前の1941年10月に、尾崎らとともに合計35人が特高に逮捕された(ゾルゲ事件)。ゾルゲの目的は日本の対ソ戦を阻止するための情報を収集するためだったとされ、ゾルゲの部屋には『古事記』や『源氏物語』の英訳書をはじめ多数の日本の研究書や自身が分析した精密な統計表などが残されていたという。また、駐日ドイツ大使館にも出入りし、ドイツのソ連侵攻の情報なども得ていた。その後裁判で極刑が言い渡され、尾崎とともに1944年に処刑された。ゾルゲが死んでおよそ20年後、スターリンが死んだ直後の1964年にソ連邦最高幹部会から「ソ連邦英雄」の称号が与えられている。 | 『ゾルゲ事件 獄中手記 (岩波現代文庫)』
ロバート・ワイマント著 『ゾルゲ 引裂かれたスパイ(新潮文庫)』
妻・石井花子著 『人間ゾルゲ (角川文庫)』
篠田正浩監督 『スパイ・ゾルゲ』 |
汪兆銘 (おうちょうめい) | (1883〜1944) 中国の革命家。広東省出身。号は精衛。清朝の官費生として日本の法政大学に留学。留学中に孫文の革命思想に影響を受ける。孫文の来日を機に中国同盟会が結成され、汪も活動家として加わった。1911年、摂政・醇親王載ほう(溥儀の父)の暗殺を企てるが失敗、終身犯となるも辛亥革命で恩赦された。その後孫文の側近として中国国民党結成に参画。左派を代表してたびたび反蒋運動を行った。後に蒋介石と合作したが、日中戦争が勃発すると徹底抗戦を貫く蒋介石と対立、重慶を脱出して1940年南京に親日反共を唱え国民政府を建てた。この政府は日本の傀儡と言われたが汪兆銘は主席兼行政委員長に就任し政治手腕を揮い、1943年の大東亜会議に南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席するなどした。しかし約10年前に狙撃された時の傷が悪化し、1944年入院した日本の病院で死去した。 | 上坂冬子著『我は苦難の道を行く〈上〉―汪兆銘の真実 (文春文庫)』
杉森久英著『人われを漢奸と呼ぶ―汪兆銘伝』 |
川島芳子 (かわしまよしこ) | (1907〜1948) 粛親王の娘。本名を愛新覚羅顕シ(あいしんかくらけんし。シは王編に子)といい、溥儀や溥傑と同じく清国王族である。別名・金璧輝。王族の子として何不自由なく育ったが1911年辛亥革命が起こり清が滅亡、1915年、6歳の時、粛親王と親しかった清朝政府顧問川島浪速の養女となり来日。「川島芳子」となって東京の跡見女学校、長野の松本高女で学ぶ。実父の死や高女から退学されるなどの事件を経て、17歳の時突然断髪、「女」を捨てたという。1927年蒙古の王族カンジュルジャップと結婚するが不和となり、離婚。以後上海などに渡り日本の特務機関(上海の公使館付武官・田中隆吉中佐)と接触、諜報活動などに従事。「男装の麗人」「東洋のマタハリ」と呼ばれた。1931年満洲事変が勃発、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満洲国が日本政府の後押しで中国東北部に成立すると、その運営に協力した。この頃芳子をモデルにした村松梢風の小説『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」として世間の注目を浴びた。1933年、芳子は安国軍総司令官という肩書で熱河作戦に従軍。関東軍はさらに「東洋のジャンヌ・ダルク」として喧伝した。しかし「暗躍する女スパイ」というイメージとは違い、雑誌の取材を受け、ラジオ出演やレコードまで出すなど当時のアイドルのような活動をし、山口淑子らとも交流があり、中華料理店を経営するなど社交界でも目立った存在だった。日本国内では人気を博したが、満州国が日本の傀儡政府であることが明らかになると彼女の批判的な言動が目立つようになり、関東軍から「危険人物」とみなされるようになった。太平洋戦争が終結すると中国人からも祖国を裏切った人物として北京で国民党政府軍に捕らえられ、1948年3月25日北京で銃殺刑に処せられたとされる。最近になって実は処刑を逃れ、旧満州の中国吉林省長春市で 1978年まで生存していたとの説が浮上した。 | 上坂冬子著 『男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)』
村松友視著 『男装の麗人』
寺尾紗穂著 『評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書)』
林えり子著 『清朝十四王女―川島芳子の生涯 (ウェッジ文庫)』
『ラストエンペラー(ディレクターズ・カット)
』
参考書は↓ 偽ハーフのコーナーで。 |
チャーチル Winston Churchill | (1874〜1965) イギリスの政治家。陸軍士官学校を卒業後キューバ、インド、アフリカで軍人や従軍記者として活躍。1899年、南アフリカのボーア戦争を取材中敵に捕らえられて捕虜となるが脱出して帰国、翌年に保守党から立候補、下院議員となる。のちに自由党に移り、民地相次官、商務相、内務相を歴任、第一次世界大戦中は海軍相を務めるがガリポリの戦い(1915年)で敗北し失脚。しかしその後軍需大臣、財務相を歴任し次第に頭角を現し、第二次世界大戦開戦直後に再び海軍相となり、1940年にはチェンバレンの後を受けて首相となった。アメリカのルーズベルト大統領らと連合国軍を結成し日独伊の枢軸国を倒した。この時の体験をもとに『第二次世界大戦回想録』(1953年ノーベル文学賞を受賞)を書き、ここにはわずかだが日本との関係と戦争に至った経緯などが書かれている。また、チャーチルの母は明治(日清戦争中)時代の日本を訪れ一ヶ月間旅行しており、回想録を残している。チャーチル自身もその影響からか本来は親日派だったと言われ、日本についての著作が他にもいくつか残されている。 | |
フランクリン・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt | (1882〜1945) 第32代アメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの従兄弟にあたる。ハーバード、コロンビア両大で学び弁護士となる。1910年、民主党のニューヨーク州選出上院議員に当選、政治の道に入り、ウィルソン大統領の下で海軍次官を務めるが持病の小児麻痺が悪化し一時療養生活に入った。1928年、ニューヨーク州知事に当選、1932年民主党大統領候補に選ばれ、フーバーに圧勝し大統領になった。アメリカの大恐慌をニューディール政策などで克服。第二次世界大戦では英ソとともに連合軍を指揮し日本に対抗、アメリカを勝利に導いた。アメリカ国民の人気は凄まじく史上初の大統領四選を果たしたが任期途中で急死し、副大統領トルーマンが大統領に昇格した。 | ドキュメンタリーDVD 『バイオグラフィー 20世紀の指導者「フランクリン・D・ルーズベルト」』
産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班著 『ルーズベルト秘録〈上〉』
エマヌエル・マン・ジョセフソン著 『ルーズヴェルトが20世紀をダメにした (トクマブックス―世界統一支配をめざす妖怪の正体)』 |
コーデル・ハル Condell Hull | (1871〜1955) フランクリン・ルーズべルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた(歴代最長)。太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側(野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使)に提示された交渉文書いわゆる「ハル・ノート」を提案した。日米開戦に当たっては「最後通牒」であるかどうか今なお議論されている。戦後は国際連合の創設に尽くし1945年のノーベル平和賞の受賞者。
| 『ハル回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)』
須藤真志著 『日米開戦外交の研究―日米交渉の発端からハル・ノートまで』 『ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)』 |
スターリン Iosif Vissarionovich Stalin | (1879〜1953) 1922年から死去する1953年までソビエト連邦共産党書記長を務めた。本名はジュガシビリ。スターリンは「鋼鉄の人」という意味でペンネームである。ロシア帝国時代のグルジアの貧しい靴屋の子として生まれる。名門の神学校に在学中に社会民主労働党の秘密組織に加わり革命運動に身を投じ、ストライキなどを指導。投獄と脱獄を繰り返した。この間にレーニンに認められ党中央委員となった。1917年ロシア10月革命では民衆の武装蜂起を指揮、ソビエト成立後はレーニンの片腕として活躍。1922年にレーニンの推薦を受けて書記長にに選ばれ、以後は党内で対立していたトロツキーやブハーリンとの論争に勝利し彼らを追放、一国社会主義を掲げて独裁体制を整えた。農業の集団化、軍の近代化を強引に進め、1934年には党内だけでなく市民の反対派も追放(大粛清)。1936年に新憲法を制定しスターリン個人崇拝を築く。第二次世界大戦が勃発するとドイツと戦い、米英とヤルタ、ポツダム両会談を通じてソ連の国際的地位を向上させるが、日本とは1941年に日ソ中立条約を結び、互いに干渉をしない方針を取った。しかしヤルタ会談では、米英と密かに「ドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること」を条件に南樺太・北方領土を領有する約束をしていた。1945年8月、日本の敗戦が決定的になった時に中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻。日本政府はポツダム宣言を受諾し敗戦を認めるが、それを無視したソ連は引き続き南樺太・千島・満州国の日本軍を攻撃。満州などの日本兵を拘束しシベリアに連行し強制労働に当たらせるなど非人道的な行為を行い(後に釈放)、さらに北方領土を占領、これは現在に至っている。戦後もスターリンは独裁政権を継続、東欧諸国の社会主義化を推進し、米英仏など自由主義国家と対立する構図を作った(冷戦)。これはドイツ、朝鮮半島、ベトナムなどを分割する結果を招いた。1953年脳卒中で倒れ重態が伝えられると全世界で株が急暴落(スターリン暴落)し混乱を招いた。死後3年後の1956年のソ連党大会で「スターリン批判」が出され、反対派を虐殺した事実などが明らかにされ、その独裁・個人崇拝が総括された。独ソの激戦地であった現・ロシア連邦のヴォルゴグラード市はスターリンの名をとって1925年から1961年まで「スターリングラード」と名づけられている。 | 『スターリングラード大攻防戦 [DVD]』
『スターリングラード [DVD]』
斎藤勉著 『スターリン秘録』
亀山郁夫著 『大審問官スターリン』
大森実著 『スターリン―鋼鉄の巨人 (講談社文庫―人物現代史)』
エドワード・ラジンスキー著 『赤いツァーリ―スターリン、封印された生涯〈上〉』
松岡完著 『冷戦史 -その起源・展開・終焉と日本-』
下斗米伸夫著 『北方領土Q&A80 (小学館文庫)』 |
トルーマン Harry S.Truman | (1884〜1972) 第33代アメリカ大統領。第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領の急死を受けて副大統領から急遽大統領に選出された。終戦処理を決めるポツダム会議に出席。日本の降伏を早めるため広島・長崎への原爆投下を命じた。戦後はソ連などの共産主義国と対抗するためトルーマン=ドクトリンを発表、共産主義封じ込め政策をとった。また朝鮮戦争勃発時には米軍を韓国側支援のため派兵。1951年には作戦上の意見対立からマッカーサーを退任させた。 | イーブン・A. エアーズ著『ホワイトハウス日記 1945‐1950―トルーマン大統領とともに (20世紀メモリアル)』
吉田文彦著『核のアメリカ―トルーマンからオバマまで』 |
マッカーサー Douglas MacArthr | (1880〜1964) フィリピン占領軍総司令官・初代軍事総督アーサー・マッカーサーの子としてアーカンソー州に生まれる。名門ウェストポイント陸軍士官学校を学校始まって以来といわれる好成績で卒業。米陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。1905年、父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、副官として日本で勤務。この時日露戦争を観戦。東郷平八郎、乃木希典らとも会見している。またアジア各地を視察し、アジアの国政や軍時情勢などを熟知した。第一次世界大戦ではフランス戦線に従軍し、ドイツ占領行政を経験。陸軍士官学校長、参謀総長などを経て1935年フィリピン軍の軍事顧問となる。その後日米関係の緊迫化に伴いルーズベルト大統領により1941年7月極東陸軍司令官に任命された。12月の開戦後は大将となり、対日戦争を指揮した。しかしフィリピン戦線では苦戦し、バターン半島やコレヒドール島で何とか善戦したものの、結局敗退を余儀なくされ一時オーストラリアに撤退した。この時発した「I shall return (私は必ず戻って来る)」の言葉は有名。1944年、マッカーサーは西南太平洋方面連合軍総司令官として先鋭の大部隊を率いてレイテ島に上陸し反攻、一気に山下奉文指揮下の日本軍を撃退。遂にフィリピン全土を奪還、日本軍の侵攻を事実上終結させた。この功によりこの年の12月には元帥に昇進。1945年、日本の降伏とともに連合国最高司令官兼米極東軍事最高司令官に任命され、8月30日に神奈川・厚木基地に進駐した。その後東京・日比谷の第一生命ビルを接収し総司令部(GHQ)を置き、米国政府の指令の下、政治犯釈放、農地改革、労働改革、財閥解体、公職追放等民主化政策を推し進め日本の再建を指導。また天皇制存続、戦争放棄、封建制廃止をうたった新憲法を発布させるなど、戦後日本の政治・経済・思想に計り知れない大きな影響を与えた。1950年、朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮の猛攻に戦局は厳しかったが、国連軍総司令官として韓国軍を助け、仁川上陸作戦などを強行策を執って北朝鮮軍を撃破、ソウルを奪還するなど大きな功績をあげた。しかし中国への攻撃を強硬に主張したためトルーマン大統領と対立し、1951年突然一切の職を解任されてリッジウェイに後任を託し帰国した。帰国の際は空港への沿道に20万人の日本人が集まりマッカーサーに謝意を表した。帰国後、ワシントンの議場で引退の宣言として「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」という歴史的な名スピーチを残した。翌日行われたニューヨークでのパレードは約700万人が集まったと言われる。その後共和党の大統領候補に推されたが実らずトルーマンに敗れた。マッカーサーにとって日本は敵国ではあったが、若い頃父と過ごした地であり、また新婚旅行で訪れた懐かしい国でもあった。最高司令官として日本滞在中はプライベートで密かに何度か京都や奈良、日光など観光地を訪問している。ペリーとともに日本史上最も重要な外国人であろう。 | グレゴリー・ペックが演じた伝記映画『マッカーサー』、映画では『太陽』、『小説吉田学校』『戦争と追憶 戦争の黙示録』『インチョン(仁川)!』などでも描かれている。
『NHK「その時歴史が動いた」 昭和天皇とマッカーサー会見の時~日本を動かした1枚の写真~「日中・太平洋戦争編」 [DVD]』
『マッカーサー大戦回顧録〈上〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)』
袖井林二郎著 『マッカーサーの二千日 (中公文庫)』
豊下楢彦著 『昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫)』
児島襄著 『日本占領〈1〉 (文春文庫)』
工藤美代子著 『マッカーサー伝説』 |
ジョセフ・キーナン Joseph Berry Keenan | (1888〜1954) 東京裁判の主席検察官。ブラウン大→ハーバード大学卒の弁護士だったが1933年連邦検事総長補佐官に抜擢され、ルーズベルト大統領の司法関係の側近としてリンドバーグ法(州外誘拐者処罰法)の草案などを手がけた。1946年にはトルーマン大統領から指名を受け東京裁判の主席検事に任命され来日。A級戦犯28人全員を有罪とし、東条英機ら7人を絞首刑にし「鬼検事」の異名をとった。米政府・マッカーサーの意向を受けて「昭和天皇を起訴せず・証人にせず」の姿勢を貫いたといわれる。裁判終了後1948年からは国連パレスチナ委員会米国代表となった。 | 菅原裕著 『東京裁判の正体』
日暮吉延著 『東京裁判 (講談社現代新書 1924)』
松本清張著 『砂の審廷―小説東京裁判 (ちくま文庫)』
小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』 |
ラダ・ビノード・パール(パル) Radha Binod Pal | (1886〜1967) インド出身。東京裁判の判事 | 東京裁判研究会編・著 『共同研究 パル判決書(講談社学術文庫)』
中島岳志著 『パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義』 |
愛新覚羅溥儀 (あいしんかくらふぎ・Pui) | (1906〜1967) 中国清、満州国皇帝。3歳で清国皇帝に即位したがその3年後辛亥革命で退位した。その後は袁世凱の保護を受けて北京の紫禁城で暮らしたが、袁世凱の死後は日本の保護を受け、満州事変が起こると日本軍に担ぎ出されて旅順に赴き日本が築いた傀儡国である満州国の皇帝となった。1945年に日本が降伏するとソ連軍に捕らえられて抑留される。極東軍事裁判(東京裁判)では証人として来日し出廷した。1959年に許されて釈放。その後は中国共産党の下、北京で余生を送った。弟溥傑は日本人女性(皇族嵯峨浩)と結婚した。
溥傑と浩との間に生まれた娘の悲劇についての参考書は↓ | 『わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈上〉 (ちくま文庫)』
入江曜子著『溥儀―清朝最後の皇帝』
山田勝芳著『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国(朝日選書)』
『ラスト・エンペラー』 |
ジョゼフ・ドッジ Joseph Morrell Dodge | (1890〜1964) 米デトロイト生まれの財政家。小さな地方銀行を有数の銀行にした手腕を買われ、1945年ドイツ占領軍の金融顧問を務める。1945年マッカーサーの経済顧問に就任し来日、日本経済の自立のため予算の建て直し・為替レートの設定などを行う。「日本経済は竹馬に乗っているようなもの。片足はアメリカの援助、もう片方は国内の補助金。竹馬の足を高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と補助金打ち切りなどを決めた。この荒療治ともいえる経済政策は「ドッジライン」と呼ばれ、1949年に実施され、一時日本経済は不況になって物価上昇に歯止めがかかり「安定恐慌」に突入した。しかしこれを機に日本経済界に自立の機運が高まり、以後の高度成長の礎となった。 | 伊藤正直著 『戦後日本の対外金融 -360円レートの成立と終焉-
』 |
シャウプ Carl Summer Shoup | (1902〜2000) アメリカの経済学者。税問題の権威。コロンビア大学教授で『全国税務協会雑誌』などの編集出版を行い、州や連邦の税制・財政の調査官を歴任した。1949年日本の税制調査のため来日し『シャウプ勧告書』を発表、これをもとに戦後日本は地方税制を中心とする税制大改革を行った。 | 『シャウプの証言―シャウプ税制使節団の教訓』 |
マシュー・リッジウェイ Matthew Bunker Ridgway | (1895〜1993) マッカーサーの後任の連合国最高司令官。ウェストポイント米陸軍士官学校卒。同校の教官、フィリピン総督の軍事技術顧問などを経て1942年に准将に昇任。空挺師団長としてノルマンディー上陸作戦やドイツ侵攻を指揮し軍功をあげ中将に昇進。1944年からマッカーサーの下で太平洋戦線に参加、ルソン島での戦闘を指揮した。1950年、朝鮮戦争が勃発すると第8軍司令官に就任。マッカーサー国連軍総司令官の下、北朝鮮・中国軍の攻勢に対し壊滅寸前であった国連軍を建て直し反撃に転じさせることに成功、大きな戦果を上げた。マッカーサーが解任されると、大将に昇進して、1951年4月からサンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が発効して日本の占領が解除された1952年4月まで連合国軍最高司令官として日本の占領政策を行った。日本を離れてからはNATO軍最高司令官、陸軍参謀総長を歴任。アイゼンハワー大統領にベトナム戦争への介入に反対する意見を述べたといわれている。 | 『朝鮮戦争』
マーク・ゲイン著 『ニッポン日記 (ちくま学芸文庫)』
竹前栄治著 『GHQの人びと―経歴と政策』 |
ルース・ベネディクト Ruth Benedict | (1887〜1948) アメリカの文化人類学者。コロンビア大学でフランツ・ボアズに師事しわずか三学期で博士号を取得、主にアメリカ先住民の研究を中心に様式学派の文化人類学を確立した。後コロンビア大学の教授になり、反社会ダーウィン主義の立場で『文化のパターン』などの本を著した。 1943年米政府情報局から日本占領の可能性から日本人の性質についての研究を依頼され、日本についての文献や日本映画、日系人との面談などをもとに日本人の気質についてまとめた『菊と刀』を著した。日本人の行動の基本パターンは「恥」からとする説は戦後日本においてもセンセーショナルとなりこの書は今なおロングセラーとなっている。それにしてもルース・ベネディクトが一度も来日もせずに書いたとは驚きである。
というわけで、この人は見目麗しき女性である。が、同性愛者だそうだ→→→→→→ | 『菊と刀―定訳 (現代教養文庫 A 501)』
森貞彦著 『『菊と刀』再発見』
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ローレンス・ヴァン・デル・ポスト Laurens Van der Post | (1906〜1996) 作家、探検家、哲学者、軍人、ジャーナリストなど多彩な活躍をした。イギリス人だが、オランダ系ボーア人として南アフリカに生まれ育った。南アフリカで雑誌の記者・編集者などを経て、1926年には森勝衛船長のはからいで貨物船かなだ丸に乗って来日、約1年に渡って日本文化を研究した。1942年、第二次大戦では英国陸軍将校としてジャワ島に渡り日本軍と戦うが敗れ、片言の日本語で命乞いをして捕虜となり、その後は収容所で過ごす。死と隣り合わせの過酷な条件下の収容所では捕虜たちと「学校」を設け、この時の経験から『影の獄にて』を執筆。その中の短編『影さす牢格子』と『種子と蒔く者』が大島渚の映画『戦場のメリークリスマス』の原作になった。戦後は南アフリカで農園を営むと同時に英国政府の要請でアフリカ各地を旅し、レポートやドキュメンタリー映画を作製。また、心理学者ユングと交流しその影響下で多くの著作をものにした。晩年はイギリス政府の顧問、チャールズ皇太子の心の師としても活躍。アパルトヘイト反対運動の活動家、ブッシュマンの研究家として著書『カラハリの失われた世界』も世界的に有名。 | 戦場のメリークリスマス―影の獄にて 映画版 |
アンドレ・マルロー Andre Malraux | (1901〜1976) フランスの作家、冒険家、美術評論家、政治家。パリ近郊に生まれ、東洋語学校で東洋の言語を学ぶ。ここで多くの芸術家と交わり彼らから大きな影響を受けた。フランスのアジア植民地政策に批判的だった彼は、1922年、妻と共にカンボジアに行くが盗掘の容疑で禁固刑となる。妻がパリの友人たちに働きかけ、アンドレ・ジッドら著名人から署名が集められ、減刑されてパリに戻った。この時の経験を元に小説『王道』を書いた。1931年には再びアジア諸国を訪問、10月には初来日を果たしている。1933年には上海の共産主義政権を描いた『人間の条件』を書き、フランスにおける最も権威ある文学賞ゴンクール賞を受賞した。「戦う作家」としてスペイン内戦では国際義勇軍の飛行隊長を務め、第二次世界大戦ではフランス軍に従軍、その後レジスタンス活動家として活躍。1944年ゲシュタポに逮捕され、処刑寸前に仲間に救出されるという体験をしている。その直後、ド・ゴール将軍(後の大統領)と知り合い、戦後の臨時政府では情報大臣に任命された。1950年代から60年代にド・ゴールが大統領として活躍する頃には国務大臣や文部大臣として重用された。この間に日仏文化交流に尽力、1974年には4度目の来日をし、伊勢神宮などを見学、日本の陶器や美術、茶道など「日本美」について研究をした。ゴヤなどの美術評論、ナポレオンの研究でもよく知られている実にマルチな人だった。 |
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毛沢東 (もうたくとう) | (1893〜1976)
| (調査中) |
周恩来 (しゅうおんらい) | (1898〜1976) 中国の革命家、政治家。中学を卒業後の1917年に日本に留学。明大や京大に学んだ後、フランスに留学。フランスで中国共産党に入党し次第に頭角を現した。帰国後は労働者の武装蜂起を指導して革命軍の指揮者として知られるようになった。日中戦争の時は蒋介石の国民党に内戦を中止して一致して日本に抵抗することを承知させるなど手腕を発揮、一躍世界に名を知られた。その後抗日戦争を指導した毛沢東とともに共産党の代表となり、蒋介石とともに日本と戦い、勝利を収める。しかし戦後蒋介石率いる国民党とは袂を分かち内戦の末、台湾に追いやり、こうして中国共産党は中華人民共和国政府を設立。蒋介石は国務院総理と外交部長を兼任。中ソ友好同盟条約の締結、ジュネーブ会議でインドシナ戦争終結の実現、インド・ネルー首相との対談で平和五原則の提唱など数々の国際会議で活躍した。日本とは終戦後国交が無かったが、1972年、ニクソン大統領訪中で米中の国交が始まると日本の田中角栄も訪中し、日中国交回復を果たした。 |
周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫)
周恩来についての参考書 |
金日成(きんにっせい・キムイルソン) | (1912〜1994)
| (調査中) |
李承晩 (りしょうばん・イスンマン) | (1875〜1965) 朝鮮黄浦道出身の政治家。李王室の枢密顧問を務めたが政治陰謀が発覚して投獄。釈放後に米国に留学。日韓併合後1913年に帰国し抗日独立運動の活動家として活躍。しかし寺内正毅朝鮮総督暗殺計画が失敗し再び投獄される。1919年に上海で韓国臨時政権を立てて大統領に就任したが日本軍などの激しい弾圧にあい再び米国に亡命した。戦後朝鮮半島に戻り大韓民国建国に尽力し初代大統領に就任。反対派を駆逐し強力な独裁体制をしき、四期13年を務め、米国との折衝、北朝鮮との戦争を指揮した。1952年一方的に竹島を含む広い公海に主権を主張し(李ライン)、日本漁船の拿捕などを行い、日本から激しい非難を浴びた。 | 李昊宰著 『韓国外交政策の理想と現実―李承晩外交と米国の対韓政策に対する反省 (韓国の学術と文化)』 |
朴正熙 (パク・チョンヒ) | (1917〜1979) 日本統治下の朝鮮・慶尚北道の貧しい農家の出身。幼い頃から優秀で知られ大邱師範学校を優等で卒業、慶北聞慶国民学校で教師をしていた。その後満州国軍官学校を卒業し優等のため選抜されて日本に留学した。創氏改名により高木正雄と名乗り、陸軍士官学校に入学。1944年士官学校を3位という好成績で卒業すると、関東軍に配属され満州国軍中尉で終戦を迎えた。戦後は韓国陸軍士官学校に入り、朝鮮戦争時には情報畑で活躍。1957年には陸軍大学を出て、師団長、軍需基地司令官などを歴任。1961年、クーデターを起こして軍事革命委員会副議長に就き、後に大将として軍部の最高指導者を兼務。1963年には民主共和党党首として大統領選に立候補し当選。アメリカと結んで軍備の強化、日韓条約の締結(日本との国交回復)、ベトナム派兵など反共・親米路線の政治を推し進めた。また数次に渡る「五カ年計画」の経済計画を立て高度経済成長を達成した。大統領選には3選し圧倒的な支持を得ていたが、1973年の金大中事件を契機に、民主化運動への弾圧や政治腐敗・独裁政治に批判が高まった。1974年の光復節の日には朴正熙を狙った弾がそれて夫人陸英修が殺されるという事件が起こる(文世光事件)。その後1979年に側近のKCIA部長金載圭によって本人も暗殺された。 | 河信基著 『韓国を強国に変えた男 朴正煕―その知られざる思想と生涯 (光人社NF文庫)』
趙甲済著 『朴正煕、最後の一日―韓国の歴史を変えた銃声』
小谷豪治郎著 『韓国危うし―朴正煕と金鍾泌を再評価する』 |
バイニング Elizabeth Gray Vining | (1902〜1999) アメリカ・フィラデルフィア生まれの女流作家。ドレクセル大学卒後、ノースカロライナ大学チャペルヒル校で図書館司書をしていたが、夫が交通事故で急死した後作家活動に入り、青少年向けの作品を書いていた。第二次大戦後に日本の皇太子(現・今上天皇)がアメリカ婦人の家庭教師を求めていることを聞き応募、数百人の候補者から選ばれて1946年来日。皇太子の12歳から17歳までの5年間を教え、英語だけでなく御人格にも大きな影響を及ぼしたとされる。また、学習院大、津田塾大などでも講義を行っている。その功で瑞宝章を受賞。1950年に帰国後はそれらの体験を元に『皇太子の窓』1952を執筆、日米でベストセラーになった。その後1960年には『日本再訪』を上梓した。 | 『皇太子の窓』
『天皇とわたし』
『旅の子アダム』 |
ブルーノ・タウト Bruno Julius Florian Taut | (1880〜1938) ドイツの建築家・都市計画家・工芸デザイナー。グロピウス、ル・コルビジェなどの「国際建築」に関わり、『鉄の記念塔』『ガラスの家』等の独創的な建築作品で名を成した。ドイツ工作連盟に参加し、1924年、シュトウットガルトの集合住宅ワイセンホーフ・ジードルングの設計などで国際的な注目を浴びた。その後ソ連に渡って活動したがナチスから親ソ連派とみなされたタウトは職と地位を奪われ、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年夫人とともに日本を訪れ、そのまま亡命した。以前からジャポニズムで日本に興味を持っていた彼は、伊勢神宮や桂離宮といった建築や、美術、歌舞伎などの文化に触れ、日本の美を再評価した。その後は主に群馬県高崎に滞在、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かしたモダンな工芸品や熱海の日向邸の設計などを発表、また仏像・絵画や陶器といった日本の美や桂離宮に関する著作など多くを残した。3年あまり日本に滞在した後トルコに移住、その地で死去した。黒澤明は自分のデビュー作用に彼をモデルにした『達磨寺のドイツ人』というシナリオを書いた。 | 『日本美の再発見 (岩波新書 新赤版 (39))』 『ニッポン―ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫)』
ワタリウム美術館著 『ブルーノ・タウト―桂離宮とユートピア建築』 |
オイゲン・ヘリゲル Eugen Herrigel | (1884〜1955)
| (調査中) |
ピエール・ブール Pierre-Francois-Marie-Louis Boulle | (1912〜1994) フランス・アヴィニョン生まれ。理学士と電気技師の称号を得た後、エンジニアとして1936年にマレーシアへ渡ったが第二次世界大戦が勃発、1939年に仏領インドシナで軍に召集され秘密諜報部員として東南アジア諸国で活躍していた。しかし1943年にメコン川でヴィシー政権軍によって捕らえられ、1年半に渡り日本軍の捕虜として収容所生活を送った。この時の厳しい体験を元に、日本軍の命令で捕虜である英仏の兵士たちがタイとビルマを結ぶ400マイルにわたる鉄道敷設とクワイ河架橋の建設という過酷な生活を描いた『戦場にかける橋』(1952)、野蛮な生物に文明人が支配される世界を描いた『猿の惑星』(1963)を執筆した。両作品ともハリウッドで映画化されヒットしている。また、日本人の科学者がロケットを発明し自ら月に行くが、宇宙船が故障して地球に帰れなくなり切腹するという『月への挑戦』(別題『カナシマ博士の月の庭園』) - Le Jardin de Kanashima (1964)珍作SFもある。 | 『戦場にかける橋 (ハヤカワ文庫 NV フ 15-1)』 |
ノーマン・メイラー Norman Mailer | (1923〜2007) 現代アメリカを代表する作家のひとり。ベトナム反戦をテーマにした『夜の軍隊』、マリリン・モンローを書いた『マリリン』、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンを描いた『ザ・ファイト』やアポロ計画についての『月にともる火』などあらゆる事象に興味を持って書いた。『夜の軍隊』と『死刑執行人の歌』でピュリッツァー賞を2度受賞している。ベトナムや中東戦争を厳しく批判をしており、現代アメリカ社会に大きな影響を与えた評論家・思想家・哲学者としても良く知られている。ハーバード大学在学中に作家デビューしているが、卒業後は太平洋戦争のレイテ戦などに従軍し、終戦後はそのまま日本の千葉県銚子や福島の小名浜に駐留していた。帰国後パリのソルボンヌ大学に留学するが、それまでの間に自身の体験を元に書いた『裸者と死者』(1948)によって、一躍世界で知られる存在となった。この小説は今なお戦争小説の金字塔的作品と呼ばれ、戦死した日本軍将校イシマル少佐の遺品の日記を、日系米軍将校ワカラ少尉が英訳するという形をとってあり、日本軍が占領する太平洋の孤島で戦い死んでゆく米軍の小隊を描いた(映画化もされている)。また『ゲイシャ・ハウス The Paper House』は銚子が舞台である。
| 『なぜわれわれは戦争をしているのか
』 |
ドナルド・キーン Donald Lawrence Keene | (1922〜) ニューヨーク生れ。16歳でコロンビア大学に入学、『源氏物語』に感動して日本文学の研究を始め、同大学院に進学。大戦中は海軍に所属し、日本語の通訳官として太平洋戦争に従軍。戦後はハーバード大でエリセーエフに師事、後ケンブリッジ大学を経て、1953年京都大学大学院に留学。1955年よりコロンビア大学教授、また同大で文学博士号を取得、現在コロンビア大学名誉教授、早稲田、慶応などで名誉博士、日本学士院客員を務める。日本文学の研究、海外への紹介などの功績によって62年、菊池寛賞、83年、山片蟠桃賞、90年、全米文芸評論家賞、93年、勲二等旭日重光章を受章。2002年、文化功労者、2008年文化勲章を受賞した(外国人の文化勲章受賞はアポロ11号の月面着陸した宇宙飛行士3人以来の快挙)、『百代の過客』(読売文学賞、日本文学大賞)、『明治天皇』(毎日出版文化賞)など著書多数。日本文化の紹介と異文化交流の場として1986年コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立され、また海外で日本文化振興に大きく寄与した個人・団体に贈る「ドナルド・キーン日本文化振興賞」も主宰している。2011年東日本大震災を機に日本永住を決意、2012年に日本国籍を取得、戸籍名はキーン ドナルド(漢字では鬼怒鳴門)になった。 | |
セルゲイ・エリセーエフ Serge Elisseeff | (1889〜1975)
| (調査中) |
エドワード・G・サイデンステッカー Edward George Seidensticker | (1921〜2007)
| (調査中) |
ドナルド・リチー (リッチー) Donald Richie | (1924〜) 米国オハイオ州生まれ。第二次世界大戦中は水夫としてヨーロッパ海域での海上輸送に従事。戦後間も無い占領時代の1946年に米軍準機関紙『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』紙の記者として来日。来日直後から川喜多かしこの知己を得て日本映画に傾倒。占領終了後は一時帰国し1949年から53年までコロンビア大学に在学し学位を得、再来日。以後、『ジャパンタイムズ』の映画評論、芸術批評家として活躍。米紙『ニューヨークタイムズ』『ワシントンポスト』などに日本映画や日本文化について寄稿し、精力的に日本を海外に紹介。特に小津や黒澤の映画を海外に知らしめた功績は大きい。半世紀以上にわたり日本を拠点に作家・評論家として第一線で活動を続けている。『黒沢明の映画 The Films of Akira Kurosawa』、『小津安二郎の美学―映画のなかの日本 Ozu』、『日本映画ガイド One Hundred Years of Japanese Film』を含め数々の著書を出版。また、生涯60年間過ごして来た日本について『美しい日本―Introducing Japan』、『The Island Sea』、『ジャパニーズ・ポートレイト Japanese Portraits』、『The Japan Journals』を含め40冊以上の著書がある。1968年から1973年にかけて、ニューヨーク現代美術館のキュレーターを務める。『タイム』誌より「日本芸術批評家の最高権威」と称され、女流作家スーザン・ソンタグからも「ドナルド・リチーは類い稀なる視点で、鋭くしかも機知に富んだ方法で日本を描いている」と称されている。また、1960年代には実験映画の作家として何本か作品を発表している。また、黒澤明の『影武者』『夢』の英語字幕も手がけた。80歳を越えなお精力的に執筆や講演など活動を続けている。 | |
ダレス John Foster Dulles | (1888〜1959) アメリカの国務長官。国際連合の米代表を歴任。太平洋戦争後の対日講和条約、日米安全保障条約・行政協定を成立させた。1953年にアイゼンハワー大統領の下で対ソ強硬策を取り「冷たい戦争」を推進した。 | 村川一郎著 『ダレスと吉田茂―プリンストン大学所蔵ダレス文書を中心として』 |
ブルガーニン Nikolai Aleksandrovich Bulganin | (1895〜1975) ソ連の軍人・政治家。1917年共産党に入党、主に経済部門で成果をあげ、1931年にはモスクワ・ソビエト議長、副首相を歴任。第二次大戦中は軍事委員として独ソ戦で大きな功を成した。1955年、首相に選任され、翌年には鳩山一郎首相をモスクワに招いて領土問題を話し合い、日ソ共同宣言を発し、国交を回復させた。 | (調査中) |
クリスチャン・ハーター Christian Herter | (1895〜1966) アメリカの国務長官。ハーバード大学を卒業後外交官としてドイツ・ベルリンのアメリカ大使館に勤める。1931年、マサチューセッツ州選出の下院議員となり外交政策に強い議員として活躍した。1953年、マサチューセッツ州知事に当選。1957年、アイゼンハワー大統領政権の国務次官に任命され、「ハーター委員会」を組織、ヨーロッパ復興支援の基本政策「マーシャル・プラン」に発展させ、成功させた。1959年には死去したダレスの後を継ぎ第53代国務長官となり、2年あまりの間、日米安全保障条約の定款に従事した。 | 豊下楢彦著 『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)』 |
ニクソン Richard Milhous Nixon | (1913〜1994) 第37代アメリカ大統領。弁護士出身で下院・上院議員を歴任、1953年アイゼンハワー大統領の下、39歳の若さで副大統領に就任。1961年の選挙ではケネディに敗れたが1969年に大統領に就任。1969年には佐藤首相との会談で安保延長・在沖縄米軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意した。1971年突如ドルの金互換停止を発表、ドルショックを引き起こす。東京の株式市場は史上最大の暴落を記録、円が変動為替制に移行することになった。対外的には中国との国交回復、ベトナム戦争停戦などを推進し日本にも大きな影響を及ぼした。ウォーターゲート事件で失脚し任期半ばで大統領を辞任した。 | |
ライシャワー Edwin Reischauer | (1910〜1990) 父カール・ライシャワーはオーストリア系アメリカ人の宣教師で明治学院大学の教師。後に東京女子大学の創立などに尽くした人物だった。その関係でライシャワーは東京で生まれ、以後日米を行き来して教育を受けていた。米ハーバード大学では日本と中国の言語・文化を学び、後に仏、中国、及び東京帝国大に留学。ハーバードの東洋言語学部の教授になった。太平洋戦争中は両親とともに帰国し、日本の研究者として暗号解読など軍に協力をした。しかし日本の民主化には天皇が必要なこと、日系人の強制収容と原爆投下には絶対反対の立場をとった。戦後、マッカーサーからブレインとして来日を請われたがそれを蹴り、ハーバード大イェンツェン(東洋学)研究所の所長の座に就く。しかしその後ケネディ大統領の要請で1961年から5年間駐日大使を務め、60年安保闘争当時、日本人の強い反米感情を和らげ、日米関係の改善に尽くした。しかし1964年大使館内で日本人青年に刺され重傷を負った。日本通のアメリカ人の代表格として日米で広く知られ『日本人』『日本の過去と現在』『米国と日本』など多数の著作がある。再婚した相手、春夫人は公爵・元総理松方正義の孫。
参考書は→国際結婚のコーナーで。 |
『ライシャワーの日本史 (講談社学術文庫)』
『ライシャワー自伝』 |
ジョン・W・ホール John Whitney Hall | (1916〜1994) アメリカ人宣教師の息子として東京で生まれた日本学者。京都で育ち、一時帰国しアマースト大学卒後、同志社大学で1941年まで英語講師を務める。太平洋戦争が始まると再び帰国し海軍の情報部に勤め、戦後はハーバード大学のライシャワーの下で東アジア言語を修め博士号を得た。1957年にはミシガン大学日本研究センターの設立に協力し、初代所長となり、その研究拠点として岡山に滞在した。その後もエール大学教授として日本研究の第一人者として数々の功績を上げ名を馳せた。『田沼意次』『日本の近代化』『日本の歴史』など多くの著作を残し日本の紹介に尽くした。 | 『日本の歴史 (講談社現代新書 229)』 |
金大中 (キム・デジュン) | (1925〜2009) 日本統治下の朝鮮南西部・全羅南道生まれ。1961年に韓国国会議員に初当選。直後の軍事クーデターで政権を握った朴正煕大統領によって議員の座を追われるが、朴の独裁に反対し政治活動を続け、1971年の大統領選では数々の妨害工作に遭いながらも朴に95万票まで迫った。この妨害工作の中では交通事故に見せかけた暗殺未遂に遭い、足に障害を負っている。その後も日米を行き来しながら韓国の民主化運動の中心人物として活躍したが、日本滞在中の1973年、東京のホテルから突然拉致され殺されかかるものの、5日後にソウルの自宅近くで開放されるという事件が起こり、日韓両国に大きな衝撃を与えた(金大中事件)。犯人は韓国中央情報部(KCIA)とされるが真相は日韓両政府の「政治決着」で闇に葬られた。1979年には朴大統領暗殺事件が起こり、全斗煥が大統領に就任、翌年の軍事独裁に対し民衆化を求めた民衆のデモに対し軍が鎮圧し大勢の死傷者を出した光州事件では首謀者として捕らえられ、死刑判決を受けた。日米を中心とした国際社会の助命運動によって釈放されるが1985年までは米国で亡命生活を余儀なくされる。1987年、帰国した彼は大統領選では民主化運動においてライバルだった野党の金泳三と候補一本化に失敗し、軍出身の盧泰愚に敗れた。92年の大統領選ではその金泳三に破れ、政界引退を宣言するに至った。しばらく研究生活を送り、論文などを発表していたが、1995年、突如として新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰を果たし、1998年の大統領選で遂に当選。大統領として5年間務めた。この間、韓国の経済政策を強め、サムソンや現代グループなどを世界的な企業に育てるなど大きな功績を残した。1998年には来日し、小渕首相との会談で「日韓パートナーシップ宣言」をまとめ、新たな日韓関係を築いた。2002年には日韓共催サッカー・ワールドカップを成功させた。また北朝鮮に対しては「太陽政策」を敢行、韓国の大統領として初めて北朝鮮に出向き、金正日総書記と会見、南北共同宣言に署名するなど南北の和解に尽力した。この貢献が国際社会において高く評価され、2000年、韓国人として初めてノーベル賞(平和賞)を受賞した。2009年8月18日85歳で死去。ソウル市の国会議事堂前広場で韓国史上二人目の国葬に処された。何度も死に直面しながらも不屈の精神で韓国の民主化に尽くした。流暢な日本語を話したが、大統領になってからは日韓の公式な会談では韓国語で通訳を通して話した。
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『金大中自伝―わが人生、わが道』
権魯甲著 『金大中とともに―波爛万丈の40年』
趙甲済著 『「首領様の戦士」金大中の正体 (洋泉社ペーパーブックス)』
中薗英助著 『拉致―ドキュメンタリーノベル「知られざる金大中事件」 (現代教養文庫)』 |
ジョン・ダワー John W. Dower | (1938〜) アメリカ・ロードアイランド州生まれ。アマースト大学でアメリカ文学を専攻していたが、1958年の夏休みにホームステイのため来日し金沢市に滞在。これを契機に日本文学に関心を移し、ハーバード大学では東アジア研究に転じ日本近代文学を専攻。森鴎外の研究で修士号を取得。その後再び来日して金沢女子短期大学の英語講師を務めた。一時帰国して出版社編集助手などをするがまたハーバードに戻って研究生活に打ち込み、吉田茂の研究によって歴史学・東アジア語学の博士号を取得した。しばしば来日し東大、京大などで研究に従事。ネブラスカ大学講師、ウィスコンシン大学助教授・準教授・教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授で日本史などの教鞭をとり、現在は名門マサチューセッツ工科大学教授を務める。金沢のホームステイ時代に知り合った靖子さんと結婚。著書に日本の家紋から歴史を説いた『紋章の再発見The Elements of Japanese Design』、リベラリストではなく「保守派」としての吉田茂を生い立ちから丹念に描いた『吉田茂とその時代Empire and Aftermath』、太平洋戦争末期に原爆などで日本の非戦闘員40万人を虐殺した米軍の行為を糾弾しその原因を探った力作『人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流War without Mercy(改題:容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別)』などを出版。2000年には日本の終戦直後を描いた『敗北を抱きしめて―第二次大戦後の日本人Embracing Defeat』でピュリツァー賞、バンクロフト賞などを受賞。これは日本でも大ベストセラーになった。 | |
エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル Ezra Feivel Vogel | (1930〜) 米オハイオ州出身の日本学者。1958年ハーバード大で社会学の博士号を取った後、指導教官の勧めで日本の家族関係の研究のため妻と来日。千葉県市川市に一軒家を借りて2年間住み、近所の6家族の生活を記録した。帰国後にハーバード大教授になり本格的な日本研究と講義を始める。1975年に再来日して再び長期滞在、主に財界を研究。日本の技術・経済の進歩のスピードに驚き、米国人が脅威を抱き米国にとって日本が再び敵になるのではないかと危惧し、日本の優れた面を米国に教えなければならないと考えて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』1979を著した。これは日本では大ベストセラーになり「社会現象」にもなった。その後ハーバード大名誉教授として日本だけでなく中国・アジアの研究者としても世界的権威となるが2000年にハーバード大を引退。現在はボストンに在住し著作に専念している。妻スーザン・ヴォーゲルも日本の家族問題、女性問題を専門とする研究者で日本の聖路加病院などに勤務し、『変わりゆく日本の家族: アメリカから見た「専業主婦」』などの本を出版している。また、息子スティーヴン・K. ヴォーゲルもカリフォルニア大学バークレー校教授で『新・日本の時代―結実した穏やかな経済革命
』の著作がある日本経済研究者。 | 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 |
このページの参考書など 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
佐伯修著『外国人が見た日本の一世紀 (新書y)
』
加藤恭子著『私は日本のここが好き!―外国人54人が語る』
波田野毅著『日本賛辞の至言33撰―世界の偉人たちが贈る』
「書かれた日本」文献研究会著『世界史が伝える日本人の評判記―その文化と品格 (中経の文庫)』
前川貞次郎、会田雄次、外山軍治編・著『世界史辞典 新制版』
毎日新聞社編『一億人の昭和史別冊 昭和史事典』
映画監督・内藤誠著『外国人が見た古き良き日本 (講談社バイリンガル・ブックス)』
木暮修著『ニッポン通―外国人から見たちょっとヘンなこの国 (知恵の森文庫)』、『正しいニッポン人―49人のガイコク人と木暮修』
田中英道著『日本史の中の世界一』
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