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小栗康平 (おぐり こうへい、1945年10月29日 - )
群馬県前橋市出身。早稲田大学第二文学部卒。浦山桐郎に弟子入り『青春の門』、『青春の門・自立編』の助監督を務める。その後、フリーの助監督として、山本迪夫、大林宣彦、篠田正浩らの助監督を務めた。1981年に独立プロの木村元保に声をかけられ『泥の河』で映画監督デビュー。この映画では主役の子供役をプロの子役を使わず公募で選び、その子らと撮影前10日間は共同生活を送り、和むと同時に意識を高めて製作に臨んだという。その成果かこのデビュー作品は絶賛されキネ旬映画監督賞などを受賞。師と同様、寡作でほぼ10年に1、2本のペースで作品を発表するが、どの作品も高く評価されている。フランスのジョルジュ・サドゥール賞を日本人として初受賞、『泥の河』はモスクワ映画祭銀賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、『死の刺』『伽椰子のために』『眠る男』も世界的な賞を受賞するなど、海外での評価が国内より圧倒的に高く、日本映画界において極めて稀有な存在である。「哀切であることは誰でも撮れる。それが痛切であるかどうかだよ。オグリ。それだけを覚えておけ。あとはうんうん唸っておけば何とかなる」という浦山の言葉を肝に銘じているという。役所広司主演の『眠る男』は小栗の出身地である群馬県が製作(全額出資)し、群馬県中之条町で撮影された異色作。テレビやマンガ原作に頼らない、本来の映画の在り方だと僕は思うし、小栗の映画に取り組む姿勢は実に真摯で応援したくなる。『泥の河』の加賀まり子の美しさは格別でしたね。受賞暦はこちら。
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長谷川和彦 (はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - )
広島県賀茂郡西高屋町(現・東広島市)生まれ、広島市南区育ち。東京大学文学部英文科に進み、大学時代は学園紛争の真っ只中で、アメラグ部でボール相手に奮闘する姿がゴジラに似ているということから愛称ゴジという。在学5年目の1968年、映画『神々の深き欲望』の制作スタッフ公募に応じ、今村プロに入社。大学は中退した。今村昌平の下では『にっぽん戦後史・マダムおんぼろ生活』につき、日活では小沢啓一、藤田敏八、西村昭五郎、神代辰巳の助監督を務めた。その傍ら神代監督作品『青春の蹉跌』、『宵待草』、テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(沢田研二主演)などのシナリオを書き注目された。1975年よりフリーとなり、1976年に中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』で監督デビュー、キネマ旬報ベストテン1位に選ばれるなど、新人にして高い評価を受け、多くの映画賞を独占した。1979年にはレナード・シュレーダー(ポール・シュレイダーの兄)との共同脚本で『太陽を盗んだ男』を監督。キネマ旬報ベストテン2位と大きな支持を受けるが、興行的には失敗。以後、熱狂的なファンの熱望にも関わらず本編を撮る機会に恵まれていない。1982年、大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰亙の若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」を設立、代表として製作にまわったり、俳優としては鈴木清順監督の『夢二』の鬼松役、久世光彦演出テレビドラマの『雁』(森鴎外原作)の末造役などがある。 日本中のファン(僕も)がゴジの新作映画を熱望してます。もう30年も経ってしまいました。連合赤軍をテーマにした映画の企画や作家村上龍によるオリジナル脚本など、何度も映画製作の機会はあったのに出来ないのは彼に問題(ロケハン先で製作準備金で豪遊したという豪快さん伝説がある)もあったようですが、許してあげてください。どうか映画会社・プロデューサーの皆様よろしくお願いします。
| 太陽を盗んだ男 |
北野武 (俳優としてのビートたけしはこちら。 きたの たけし、1947年1月18日 - )
東京都足立区出身。テレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、元漫才師。明治大学工学部中退のち名誉卒業。浅草のストリップ劇場「フランス座」でコメディアンとしての修行を積む。兼子二郎(ビートきよし)と知り合い、漫才コンビ、ツービートを結成。早い掛け合いのテンポと「赤信号みんなで渡れば怖くない」といったギャグは「毒ガス標語」と呼ばれ一世を風靡。残酷ネタ、老人や弱者を痛めつける毒舌さ、「コマネチ!」などのナンセンスネタなどが折からの漫才ブームに乗って大ブレイクした。その後、タモリ・明石家さんまとともに「日本のお笑いタレントBIG3」として君臨するほか、『オレたちひょうきん族』『スーパージョッキー』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などテレビバラエティ番組の司会、『たけしくん、ハイ!』など自伝を中心にした作家活動、若松孝二、深作欣二、崔洋一、大島渚の映画、金嬉老を演じたテレビドラマ『金(キム)の戦争』に出演する俳優として、また歌手、東京芸術大学大学院教授(2005年より)、野球等スポーツ、映画、ジャズなどの造詣も深く評論本を出すなどマルチな才能を見せる。弟子たちはたけし軍団と呼ばれ、たけし出演のバラエティなどにこぞって出演していた。その中には後の宮崎県知事、東国原英夫(そのまんま東)がいる。1986年には写真誌「フライデー」編集部を襲撃した事件、1993年にはバイク自損事故で重症を負い長期休養を経たが、今なお日本の芸能界においてトップの位置にある。映画監督としては当初深作欣二監督作として出演が決まっていた『その男、凶暴につき』(1989)が深作の降板により、演出を引き継いだところ、高い評価を得て、以後本名北野武名義で映画を撮ることになった。激しい暴力を静謐を持って表現する作風と独特の青を強調した画面つくり(キタノブルーと呼ばれる)は世界でも高く評価され、現在生存の日本人の監督で最も知名度が高い。これまで、『3-4×10月』(1990)、『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)、『ソナチネ』(1993)、『みんな〜やってるか!』(1995)、『キッズ・リターン』(1996)、『HANA-BI』(1998)、『菊次郎の夏』(1999)、『BROTHER』(2001)、『Dolls』(2002)、『座頭市』(2003)、『TAKESHIS'』(2005)、『監督・ばんざい!』(2007)を発表している。2008年モスクワ映画祭で特別功労賞を受賞。その他海外での受賞歴はこちら。
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相米慎二 (そうまい しんじ、1948年1月23日 - 2001年9月9日)
岩手県盛岡市出身。学生運動の活動家として活躍していたが中央大学法学部を中退し日活に助監督として入社。曽根中生の日活ロマンポルノ作品の助監督を経て長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』、寺山修司の『草迷宮』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で助監督を務める。1980年にフリーとなり、薬師丸ひろこを主役に『翔んだカップル』で監督デビュー。大ヒット漫画だった柳沢きみおの原作を「超えた」映画作品として評論家筋からも絶賛を浴びた。ワンシーンワンカットの長まわしを多用するスタイルを確立し、当時のトップアイドルらを主役に据えた作品を次々発表し、永瀬正敏、河合美智子、斉藤由貴、牧瀬里穂らを育てた。師・長谷川和彦らと「ディレクターズ・カンパニー」に参加し、最も作品を作った監督だった。アイドル歌手だった工藤夕貴の演技を開眼させた『台風クラブ』(1985)や、マグロの一本釣りの漁師たちを描く『魚影の群れ』(1983 吉村昭原作)などを発表。浅田次郎の小説『壬生義士伝』に感銘を受け次回作として準備していたが肺がんのため53歳の若さで死去した。独特のヒゲはフランシス・フォード・コッポラ監督を意識してのものだった。
この他作品に『セーラー服と機関銃』(角川春樹事務所、東映、1981年)、
『ションベン・ライダー』(1983年 レナード・シュレーダー原案)、
『雪の断章 情熱』(1985年)、
『ラブホテル』(1985年)、
『光る女』(1987年)、
『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)、
『お引っ越し』(1993年)、
『夏の庭 The Friends』(1994年 三國連太郎主演)、『あ、春』(1998年)、
『風花』(2001年 浅野忠信主演)がある。
『ションベン・ライダー』の海に浮かぶ材木置き場での乱闘シーンが有名だが、どの映画も冒頭シーンなどでとんでもない長まわしが多い。さぞスタッフ・キャストとも大変だったろう。しかしその効果は非常に高い。
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『甦る相米慎二
』
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市川準 (いちかわ じゅん、1948年11月25日 - 2008年9月19日 )
CMディレクターとしても活躍。東京都府中市出身。CM演出家として禁煙パイポ(「私はこれで会社を辞めました」)、金鳥タンスにゴン(「亭主元気で留守がいい」)、NTTカエルコール、サントリーニューオールド、エバラ焼肉のたれ、ヤクルトタフマン、デューダ、三井のリハウス等の、シュールな笑いを巻き起こしたテレビCMを次々と作りトップ・ディレクターとして活躍していた。1985年にはカンヌ国際広告映画祭金賞を受賞している。1987年に『BU・SU』で映画初監督。以降、ハナ肇とクレージーキャッツ主演の『会社物語 MEMORIES OF YOU』(1988)、『ノーライフキング』(1989 いとうせいこう原作)、『つぐみ』(1990 よしもとばなな原作)、『病院で死ぬということ』(1993)、『東京兄妹』(1995 ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞)、『東京夜曲』(1997 モントリオール世界映画祭最優秀監督賞受賞)、『大阪物語』(1999)、『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002 三谷幸喜原作)、『トニー滝谷』(2004 村上春樹原作)など、今風な話題を呼んだ原作や幅広い題材に意欲的に取り組み秀作を数多く発表している。特に『トニー滝谷』は第57回ロカルノ国際映画祭で審査員特別賞、国際批評家連盟賞、ヤング審査員賞を受賞。海外でも評価は高く、今後の活躍が期待されたが、2008年の『buy a suit スーツを買う』のポストプロダクション作業を終え食事中に倒れ、完成直前にして脳内出血のため逝去した。
| 東京兄妹 |
崔洋一 (さい よういち、チェ・ヤンイル、1949年7月6日 - )
脚本家、俳優、日本映画監督協会理事長としても活躍。長野県生まれ。大島渚の『愛のコリーダ』の助監督などを務めていた。テレビのアクションドラマなどで活躍した後、内田裕也主演の『十階のモスキート』(1983)で監督デビュー。国内外で高く評価された。石井聰亙総監修によるテレビムービー『月はどっちに出ている』(1993)が評判を呼び、すぐに劇場用映画としてリメイクされ同作品で高い評価を得た。 俳優としても『御法度』(1999 監督大島渚)に近藤勇役で出演、翌2000年の第53回カンヌ国際映画祭の地を大島監督、ビートたけし、松田龍平とともに踏んだ。テレビコメンテーターとして彼の映画・政治・朝鮮問題などの辛口批評は定評がある。 僕はかつて『花のあすか組!』にほんの少しだけ関わったことがあり、大泉の撮影所の初号試写で監督とお会いしたことがある。また、『平成無責任一家・東京デラックス』のカメラマン上野彰吾は大学の同級生である。 | 月はどっちに出ている
↑一気に名を高めた出世作。
監督自身在日朝鮮人であり、いろいろな想いがストレートに伝わってくる大傑作である。 |
原田眞人 (はらだ まさと、1949年7月3日 - )
静岡県沼津市出身の映画評論家、映画監督、俳優。子供の頃からの映画マニアで、キネマ旬報誌などの投稿者の常連だった。監督としては木村一八・ノブ・マッカーシー主演の『ペインテッド・デザート』(1994)ハリウッド映画『ラスト・サムライ』、ロニー・ユー監督、ジェット・リー主演の香港・米合作『SPIRIT<スピリット>』(2006)にも中村獅童とともに出演している。 1970年後半からハリウッドに在住し、さまざまな映画製作、評論活動に関わった。1981頃はアメリカ・フォックス社でアービン・カーシュナー監督の『The Ninja』という、現代ニューヨークと40年〜60年代の日本を舞台にしたゴッド・ファーザーのような作品の企画があり、脚本アドバイザーとして初期から協力していた。カーシュナーは弟子ルーカスの要請で『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』を撮った直後の乗っていた時期だったが、企画は何故か立ち消えになってしまった。一時帰国して撮った『さらば映画の友よ インディアンサマー』(1979年)で監督デビュー、映画マニアらから注目を浴びた。1988年にはスタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』の戸田奈津子の字幕が「正確に訳していない」という理由で監督から没にされた事件があり、原田が改めて翻訳を担当した。確かに内容は正確だったが映画字幕翻訳のセオリーからは外れていたため読み切れないところがあったが。 その他の主な代表作は『タフ』シリーズ、役所広司主演の『金融腐蝕列島 呪縛』(1999)、『突入せよ! あさま山荘事件』(2002)、SF大作『ガンヘッド』(1989 主演高嶋政宏)、伝奇ホラー『狗神 INUGAMI』(2001)、京極夏彦原作の『魍魎の匣』(2007)など、ジャンルは多岐に渡る。 参考書:『原田眞人の監督術』、『映画監督になる15の方法』、『ハリウッド映画特急―L.A.EXPRESS』、翻訳書に奥さんと共著『ノーツ―コッポラの黙示録』、黒澤へのロングインタビュー集『黒澤明語る』など多数。 公式サイト | |
森田芳光 (もりた よしみつ、1950年1月25日 - 2011年12月20日) 脚本家としても活躍。東京都渋谷区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市育ち。1981年に『の・ようなもの』で長編映画監督デビュー。以降、シリアスなドラマから喜劇、ブラックコメディー、アイドル映画、恋愛映画、ホラー映画、ミステリ映画と幅広いテーマを意欲的に取り扱い、話題作を数多く発表する。2011年末死去、『僕達急行 A列車で行こう』が遺作。
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根岸吉太郎 (ねぎし きちたろう、1950年8月24日-)東京都出身。早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。繊細な人物描写を武器に、高い演出力でポルノからサスペンスまで幅広いジャンルの映画を手がける実力派映画監督である。大学卒業後日活に入社。藤田敏八や曽根中生監督の下で助監督を務め、1978年、『オリオンの殺意より/情事の方程式』でデビュー。後のロマンポルノ全盛紀のにっかつで秀作を撮り続けた。1981年、ATGで製作した映画『遠雷』(原作・立松和平)でブルーリボン賞の監督賞と芸術祭奨選新人賞を受賞。一躍注目を浴びる。1982年には長谷川和彦らと「ディレクターズ・カンパニー」を設立、日活の同期だった池田敏春監督の『人魚伝説』の製作などの仕事も行いつつ、監督作として『探偵物語(1983)、『ひとひらの雪』(1985)、『ウホッホ探検隊』(1986)、『永遠の1/2』(1987)など話題作・ヒット作を連発した。一時低迷時期もあったが最近では『雪に願うこと』(2005)が東京国際映画祭で東京サクラグランプリと最優秀監督賞を受賞するなど再び評価が高まっている。最新作は『サイドカーに犬』(2007)。 | |
押井守 (おしい まもる、1951年8月8日 - )は、アニメを中心に活動している演出家。実写映画にも独自の美学があり定評がある。その他ゲームクリエイター、小説家、脚本家、漫画原作者と活動は幅広い。東京都大田区出身。東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。代表作に『うる星やつら』、『機動警察パトレイバー』、『攻殻機動隊』など。アニメ映画『イノセンス』(カンヌ国際映画祭コンペ部門出品作品)により、日本SF大賞を受賞した。大賞でアニメ映画が対象となったのはこれが初めてであった(星雲賞では過去に例がある)。
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大森一樹 (おおもり かずき、1952年3月3日 - )
大阪市生まれ。京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ珍しい映画監督。高校の時から映画監督を目指し、大学時代に完成させた16ミリ映画が高く評価される。1998年に『日本沈没1999』の監督に抜擢されるが、松竹の経営不振により、製作中止になった経緯がある。
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井筒和幸 (いづつ かずゆき、1952年12月13日 - )歯に衣着せぬキャラでタレントやコメンテーターとしても活躍。奈良県大和郡山市出身。奈良県立奈良高等学校卒業。『ガキ以上、愚連隊未満。』など著書も多数。
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大友克洋 (おおとも かつひろ、1954年4月14日 - )漫画家、映画監督。宮城県登米郡迫町(現在の登米市迫町)出身。同郷、同高校(宮城県佐沼高等学校)出身に故石ノ森章太郎がいる。屈指の画力を持つ漫画家として数々の短編を手がけた。原作・監督のSFアニメ『AKIRA』でアニメーション監督としても手腕を発揮、現在は宮崎駿、押井守らとともにアニメーション作家として世界に知られる巨匠の一人である。『AKIRA』は2008年ハリウッドで実写映画化が進められている。『ロボコップ3』に登場するオートモは彼の名に因んで付けられている。 | |
金子修介 (かねこ しゅうすけ、1955年6月8日 - )東京都渋谷区出身。東京学芸大学卒業後、にっかつロマンポルノで監督デビューし、後に一般映画に転向する。1995年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』で映画芸術誌邦画ベスト10で第1位、1996年に『ガメラ2 レギオン襲来』で第17回日本SF大賞を受賞。
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黒沢清 (くろさわ きよし、男性、1955年7月19日 - )兵庫県神戸市出身。脚本家としても活躍。立教大学社会学部卒業。特にホラーの分野において1990年代以降の日本映画界には希有な鬼才。 | |
堤幸彦 (つつみ ゆきひこ、1955年11月3日 - )愛知県名古屋市出身。法政大を中退し東放学園に再入学。卒業後はテレビディレクターとしてとんねるずのバラエティ番組などを手がけていた。1988年オムニバス映画『バカヤロー! 私、怒ってます』の第4話『英語がなんだ』でデビュー。テンポのよく仕上げた手腕が一躍注目を浴びる。 その後もテレビドラマ『金田一少年の事件簿』、『ケイゾク』、『池袋ウエストゲートパーク』、『TRICK』などシリーズのヒット作を続出させ、テレビ界を代表する売れっ子ディレクターとなった。最近も『TRICK』の劇場版や渡辺謙が製作・主演した『明日の記憶』(2006)、『大帝の剣』(2007)、 天童荒太原作の『包帯クラブ』(2007)、『自虐の詩』(2007)、『銀幕版 スシ王子! ?ニューヨークへ行く』(2008)、『20世紀少年』(2008年)などヒット作・大きな話題を呼んだ作品が目白押しである。
公式ブログ | |
滝田洋二郎 (たきた ようじろう、1955年12月4日 - )富山県出身。国会議員の秘書のコネで東映に入るはずが、どこをどう間違えたのか、下請けの獅子プロに入って成人映画の手伝いから監督になった。僕らの時代はピンク映画の分野では『未亡人下宿』シリーズの山本晋也監督と同じくらい神様のような存在で『痴漢電車』シリーズで有名だった。流行に敏感というか「時代」を見る目があるというかその時のニュースや社会問題、芸能やスポーツの事件・話題をうまくパロディ化して「ニヒルな笑いを取る」といった作風は他者にない個性があった。とにかくこの分野では80年代を席巻した名監督であった。一般の劇映画に転じた第一作では内田裕也(本木雅弘の義父!)を主演に、ビートたけし(北野武)らが出演した『コミック雑誌なんかいらない 』もその作風を昇華させた傑作だったが、『木村家の人びと』『病院へ行こう』も前者は守銭奴というか金に異常な執心を持つ夫婦(役所広司・桃井かおり)が主人公、後者は真田広之と薬師丸ひろ子を主人公に病院を舞台に医者と患者らが繰り広げるという、いわばシニカルなブラックコメディで、大いに笑わされた。これらは高く評価されてまたヒットもして一躍売れっ子監督となったが、以後もアクションや『壬生義士伝』『陰陽師』などの時代劇やエンターテイメント作品などジャンルを問わず冴えた演出手腕を発揮している。しかし最近は少しオーソドックスであまり毒のないような映画が多かったので寂しい気がしていた。しかし2009年、第81回米アカデミー賞で『おくりびと』が外国語映画賞を受賞。いよいよこれからですね。
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周防正行 (すお まさゆき、1956年10月29日 - )脚本家としても活躍。東京都出身。立教大学文学部フランス文学科卒業。妻は、バレリーナで女優の草刈民代。小津の信奉者としても知られる。大卒後黒沢清監督等の助監督を務めた後に、1984年に『変態家族 兄貴の嫁さん』で監督デビュー。1989年、岡野玲子原作の人気漫画『ファンシイダンス』を映画化、この若き修行僧達の非常な日常を描いた作品で一躍注目を浴び、高い評価を得た。1991年には続いて本木雅弘を主演に据え、大学の弱小相撲部を舞台にした『シコふんじゃった。』を監督。そして1996年に発表した『Shall We ダンス?』(役所広司主演)で日本アカデミー賞の監督賞と脚本賞を受賞。日本有数のヒットメーカーとなる。その後、自らフィルムを抱えアメリカに渡り、全米各地区を巡って地道な映写活動を行い商業的な成功を収めた。その辺の事情は著書『『Shall we ダンス?』アメリカを行く (文春文庫)』に詳しい。同作はハリウッドでリチャード・ギア主演でリメイクされ、大きな話題にもなり、周防はハリウッドでの監督契約を結ぶが果たせず、残念ながら長いブランクがあった。しかし日本で『それでもボクはやってない』(2007)を監督、2007年度キネマ旬報ベストワンに輝いた。「笑いの中にほんのりとした哀愁が漂う」描写が上手い監督だと思う。『それでもボクはやってない』もぐいぐいと人を惹きつける魅力があったが最後があまりにも哀しすぎる…。『アメリカ人が作った「Shall we dance?」』、『それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』、『インド待ち』『スタジアムへ行こう!―周防正行のスポーツ観戦記』
など著書も多数。 | |
石井聰亙 (いしい そうご、男性、1957年 - )
福岡県生まれ。福岡高校時代はロックにのめり込み映画館に入り浸った。1976年日大芸術学部映画学科入学直後、狂映舎を設立、8mm映画デビュー作『高校大パニック』を撮り、熱狂的な支持を得る。『高校大パニック』は日活の目にとまり、澤田幸弘監督と共同で劇場映画としてリメイクをしている(主演は浅野温子 石井は自作として認めていない)。「数学できんのが何で悪いとや」と言って教室でライフルを撃つ高校生の姿は当時大きな話題を呼んだ。
日芸の卒業制作だった『狂い咲きサンダーロード』(1980)でジャパニーズ・ニューウェイブの急先鋒となる。1981年には大友克洋の短編漫画を原作に『シャッフル』、『爆裂都市 Burst City』(1982)を発表。斬新で前衛的なアクション映画を撮り続け、1984年には長谷川和彦・高橋伴明ら若手監督らとディレクターズ・カンパニーを設立、その第一作として『逆噴射家族』(小林よしのり原案・小林克也・工藤夕貴主演)を監督。これがイタリアの第8回サルソ映画祭グランプリ等、国内のみならず海外でも高い評価を受ける。長編劇場用映画についてはさまざまな企画がクランクイン直前まで行きながら諸事情で流れることになり約10年間撮っていない。しかしその間、日本のパンク・ニューウェーブシーンとのコラボで数々の音楽ビデオと実験的短編映画製作に打ち込み、また、1992年には衛星放送局WOWOW製作のJ MOVIE WARSシリーズの総監修を務め、崔洋一の『月はどっちに出ている』などを製作、自らも『TOKYO BLOOD』(1993)を発表した。1994年には『エンジェル・ダスト』(バーミンガム映画祭グランプリ)、『水の中の八月』(1995)、『ユメノ銀河』(1997 オスロ映画祭グランプリ)と作品を発表。 続いて、時代劇とSFXを融合させた久々の超大作『五条霊戦記』(2000)が公開されるが、期待されたほどの興行収入を得ることはできなかった。その後映画のジャンルを超越したハイパーエキサイトムービー『ELECTRIC DRAGON 80000V』(2001)、『DEAD END RUN』(2002)を発表。2005年には、フルデジタル機材を使用して制作した『鏡心・3Dサウンド完全版』を発表、全国上映ツアーを行った。2006年、監督生活30周年を迎え、記念の初期作品集が発売された。 1980年当時の学生映画界にとって石井はヒーローの一人だった。僕は『狂い咲きサンダーロード』の試写会に行った(大学の同級生が一人出演している)が、最初から最後まで激しい音と暴力シーンの連続・カメラワーク、カッティングその他が目まぐるしいスピードで展開し、その迫力と新鮮さにまず圧倒された。その反面登場人物の台詞がほとんど聞き取れず、また画面上で何が起こっているのかさえわからないストーリーには面食らい、正直あまりピンと来なかった。エネルギーだけが空回りしているような気がして。試写会場では中座してしまう人が少なからずいたのを覚えている。 公式サイト | |
中島哲也 (なかしま てつや、1959年9月2日 - )CMディレクターとして活躍。福岡県生まれ。明治大学卒業。CM制作会社・日本天然色映画を経て、1987年よりフリー。CMデビュー作のフジッコ漬物百選では、山口美江の「しばづけ食べたい」のセリフが話題に。以後、サッポロ黒ラベル「温泉卓球」篇など多数のヒットCMを世に送り出しCM界の巨匠として知られるようになる。大学在学中に制作した『はの字忘れて』が、82年ぴあフィルムフェスティバルで入選し、『バカヤロー!私怒ってます/第二話 遠くてフラれるなんて』(1988年)で劇場映画監督デビュー。以後、『下妻物語』(2004)を監督。独特のユーモアとポップで色鮮やかな映像世界でCM、映画等幅広く活躍している。また、「プロの女優さんをほめるのは逆に失礼」という信念を持っており、出演者を罵倒し続ける監督として有名。このことは、『嫌われ松子の一生』に主演した中谷美紀が著書の中で書いている。2006年度文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞。因みに僕と大学の同期だが残念ながら直接の面識は無い(共通の知人はいるし、学生時代に彼の撮った8ミリ映画は見ているけど)。
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塚本晋也 (つかもと しんや、1960年1月1日 - )俳優としても活躍。東京都出身。中学2年から8ミリカメラで映画を作り始める。処女作は『原始さん』(1974)。高校時代に作った『翼』(1975)が"日本を記録する映像フェスティバル"に入選しなお映画にのめりこむ。日大芸術学部美術学科に入学し、芝居にも興味を持った塚本は自ら劇団を主宰。脚本・演出・主演を務めていた。大卒後CF製作会社入社しCMディレクターとして活躍しつつ1985年劇団海獣シアターを旗揚げ。自作テントでかなりアングラでホラー的な芝居を展開していた。「ハウスとんがりコーン イチロー編」などのCMを残し結局会社は4年で退職するが、1988年コマ撮り手法で作った『電柱小僧の冒険』でぴあ社のPFFアワードグランプリを獲得、塚本は勢いに乗って16ミリで『鉄男』(1989)を監督。普通の人間が鉄に変態していくというエキセントリックなストーリーを、得意のコマ撮りと細かなカットの積み重ね・耳をつく金属の音と一体化した奇妙なリズムを築き上げた作品に仕上がり、カルト的な人気を得て、ローマファンタスティック映画祭でグランプリに輝く。塚本の名はここで一気に高まった。またこの作品はNHKのドキュメンタリー『プロジェクトX』のナレーションでも知られる俳優田口トモロウを世間に知らしめた。自作のほとんどは自主制作に近い形で、製作・脚本・監督・撮影・美術・編集まで塚本が行う場合がほとんど。俳優陣も田口ら俳優「仲間」らを活かした採用をしている。
諸星大二郎の漫画を映画化した『ヒルコ/妖怪ハンター』(1991)、『鉄男II BODY HAMMER』(1993)、『東京フィスト』(1995)、『双生児-GEMINI-』(1999)、『ヴィタール』(2004 浅野忠信主演)、『悪夢探偵』(2007 松田龍平主演)などコンスタントに作品を発表し、クエンティン・タランティーノなど海外の多くの映画関係者にもリスペクトされている。 また、俳優として自作に出演するのはもちろんのこと、
『東京日和』(1997、竹中直人監督)、『完全なる飼育』(1999、和田勉監督)、『さくや妖怪伝』(2000、原口智生監督)、『殺し屋1』(2001、三池崇史監督)、『クロエ』(2001、利重剛監督)などメジャー映画会社の作品はないが、サブカルの世界では熱狂的な支持を得る作品群に出演し、出番は多くはないが非常に印象的な役どころをこなす名脇役である。
1997年、ヴェネツィア国際映画祭で審査員を務めた。2003年公開の『六月の蛇』は、ヴェネツィア国際映画祭コントロコレンテ部門審査員特別賞受賞。 参考資料として彼と関わった「仲間」たちの証言集:『塚本晋也読本―普通サイズの巨人 (キネ旬ムック)』、『シネマでヒーロー 監督篇―武藤起一インタヴュー集』がある。 | |
三池崇史 (みいけ たかし、1960年8月24日 - )大阪府八尾市生まれ。日本映画学校卒業。今村昌平、恩地日出夫に師事。1991年のVシネマ『突風!ミニパト隊』で監督デビュー、1995年の『新宿黒社会』で初の劇場用オリジナル作品を手掛けた。コメディ、バイオレンス、ホラーなど多岐に渡るジャンルで映画制作を続ける。1998年に、米『TIME』誌上よりこれから活躍が期待される非英語圏の監督としてジョン・ウーと並び10位に選出。作品はクエンティン・タランティーノ監督に影響を与える(『殺し屋1』など)。『極道恐怖大劇場 牛頭』はVシネマとして初めてカンヌ国際映画祭に出品された。旧名は三池モバ。多作である。
| ↑絶対結末は人に言ってはいけない! |
三谷幸喜 (みたに こうき、1961年7月8日 - )劇作家、脚本家、俳優としても活躍。東京都世田谷区出身。1983年、日本大学芸術学部演劇学科在学中に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成、脚本・演出家として名を挙げる。この劇団からは俳優・西村雅彦、松重豊らを輩出した。また、学生時代からテレビの放送作家としても活躍。1988年には小林聡美(後に三谷と結婚)、もたいまさこ、室井滋が出演したフジテレビの深夜ドラマ番組『やっぱり猫が好き』の脚本を一部担当、この番組は斬新な演出と緻密な構成、ユニークなキャラ設定で大きな話題となった。1991年、劇団の上演作『12人の優しい日本人』が中原俊監督によって映画化され、また1993年には連続テレビドラマ『振り返れば奴がいる』の脚本家として本格的なデビューを果たし、その実力は広く一般に知られることになった。1997年には伊丹十三監督の『マルタイの女』の企画協力、そして自身の初監督作品『ラヂオの時間』(渡辺謙がチョイ役で出演)がベルリン国際映画祭特別表彰、日本アカデミー賞で作品賞など主要部門でノミネートされるなど高い評価を受けた。 1994年からは田村正和主演の刑事ドラマ『警部補 古畑任三郎 』シリーズの脚本を手がけ、高視聴率を挙げた。他にテレビでは『王様のレストラン』(1995、フジテレビ)、NHKの大河ドラマ『新選組 ! 』(2004)などがある。舞台では『オケピ!』(2001年第45回岸田國士戯曲賞受賞・真田広之主演)、『バッドニュース☆グッドタイミング』、『笑いの大学』なども評判を呼んだ。 映画監督としては『みんなのいえ』(2001年)、『THE 有頂天ホテル』(2006)、『ザ・マジックアワー』(2008)、また戯曲・演出を手がけた舞台から映画化された『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002、市川準監督)、『笑の大学』(2004、星護監督)など、いずれも大ヒットとなった。今、一番「お金を生む」脚本・演出家の一人である。俳優としては大河ドラマ『功名が辻』の足利義昭役などがある。よく組む俳優に西村雅彦、役所広司、戸田恵子らがいる。雑誌『キネマ旬報』誌で連載されたイラストレーター・映画監督の和田誠との対談集『それはまた別の話』、朝日新聞で連載中の『三谷幸喜のありふれた生活』などエッセイ・著書も多数で、映画通・テレビ通としてもよく知られている。フジテレビ系列のバラエティ『ザ・ベストハウス123』に出演した時には「ハリウッドスターが演じた日本人」を紹介していたが3位が『ティファニーで朝食を』のミッキー・ルーニー、2位が『八月十五夜の茶屋』のマーロン・ブランド、1位が『007は二度死ぬ』のショーン・コネリーだった。ついでに『エリック・ザ・バイキング』に出ていた関根勤も紹介してた。
| 高間賢治撮影監督による冒頭の長回しが圧巻。僕はこのショットで三谷が好きになった。 |
塩田明彦 (しおた あきひこ、1961年9月11日 - )脚本家としても活躍。京都府舞鶴市出身。立教大学卒業。立教大学在学中に自主映画制作サークルであるパロディアス・ユニティーに所属し、自主映画を制作する。1983年『ファララ』がぴあフィルムフェスティバルに入選し、注目を集める。卒業後、黒沢清監督作品『神田川淫乱戦争』などに助監督として参加する。1989年には高橋洋らと同人誌「映画王」を発刊。「映画王」でのインタビューがきっかけとなり、大和屋竺と出会う。大和屋のもとで脚本を学び、1991年脚本家として独立。その後、山口貴義監督『ヤマトナデシコ』などで撮影、照明を担当する。 1996年、以前に持ち込んでいた企画が採用され、OV『露出狂の女』で念願の監督デビュー。1998年に『月光の囁き』、『どこまでもいこう』が同日公開され、劇場映画監督デビューを果たす。
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是枝裕和 (これえだ ひろかず、1962年 - )東京都清瀬市出身。早稲田大学第一文学部文芸学科卒業。テレビマンユニオンに参加し、福祉・医療・教育などの分野のドキュメンタリー番組の演出家をつとめた後、1995年映画監督デビュー。現在までに5本の劇場映画を監督し、多くの国際映画祭に招待されるなど海外での評価が高い。若手監督のプロデュースや、テレビCM『日産ニューセレナ・モノより思い出』、『サントリーなっちゃん』 (田中麗奈出演)などの作品、スネオヘアー『やさしいうた』のミュージックビデオの演出なども手がけている。現在国内外ともに最も高い評価を受ける日本の映画監督の一人である。主な作品として、映画『幻の光』(1995 第52回ベネチア国際映画祭金のオゼッラ賞受賞)、『ワンダフルライフ』(1998)、『ディスタンス』(2001)、『誰も知らない』(2004)、『花よりもなほ』(2006)、、TVドキュメンタリー『しかし… 福祉切り捨ての時代に』がある。書籍にノベライズ『小説ワンダフルライフ』プロデュース作品として西川美和監督作品がある。『誰も知らない』ではカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞(柳楽優弥)を受賞するなど、高い評価を受けた。『ワンダフルライフ』はナント三大陸映画祭、ブエノスアイレス映画祭でグランプリを獲得するなど高い評価を受け、アメリカのみならず各国で公開され評判を呼び、現在ハリウッドでリメイクの製作が進行中。2008年、『歩いても歩いても』が公開される。
公式サイト | |
青山真治 (あおやま しんじ、男性、1964年7月13日 - )映画監督以外にも小説家として活躍。福岡県北九州市出身。高校時代はロックバンドを結成し音楽に熱中していた。立教大学では映研に所属し8ミリで自主映画を製作、またフランス文学者で映画評論家でもある蓮實重彦に師事。卒業後は美術助手として映画界入り、次いでフリーの助監督として、井筒和幸監督の『日本一の悪女』(、フリドリック・フリドリクソン監督の『コールド・フィーバー』(1995 永瀬正敏主演)、『ヘカテ Hecate』(1982)のダニエル・シュミット監督の『書かれた顔』(1996)や黒沢清などにつく。1995年オリジナルビデオ『教科書にないッ!』で監督デビュー。劇場映画デビュー作『Helpless』(1996 浅野忠信主演)が話題を呼び、九州で起きたバスジャック事件をモチーフにした『EUREKA(ユリイカ)』(役所広司主演)が、2000年第53回カンヌ国際映画祭「国際批評家連盟賞」「エキュメニック(世界キリスト教)賞」を受賞、一躍国際的名声が高まった。また、同作品を自らノベライズした小説で三島由紀夫賞を受賞した。『月の砂漠』(2001)、『AA』(2006)、テレビドラマ『私立探偵 濱マイク』(6「名前のない森」)、『サッド ヴァケイション』(2007)など、静謐の中に描かれる暴力、家族崩壊などを描く作品に定評がある。『月の砂漠』に出演した女優とよた真帆と結婚した。
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行定勲 (ゆきさだ いさお、1968年8月3日 - )熊本県出身。熊本県立第二高等学校普通科卒業。東放学園専門学校在学中より制作会社へ入社。 | |
石井克人 (いしい かつひと、1966年12月31日 - )新潟県出身。CMディレクターとして活躍。1991年武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。同年東北新社に入社し、CMディレクターとして働く傍ら多数の映像作品を手がける。2000年退社し、現在(株)337所属。米映画監督クエンティン・タランティーノのファンとして知られ、同映画監督作品の『キル・ビル Vol.1』ではアニメパートを担当した。
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河瀬直美 (かわせ なおみ、1969年5月30日 - )奈良県奈良市紀寺町出身。中学からバスケの選手として活躍。高校で国体に出場するほどのスポーツウーマンだった。大阪写真専門学校卒業後、同校の講師を務めながら、8mm作品『につつまれて(山形国際ドキュメンタリー映画祭国際批評家連盟賞受賞)』や『かたつもり(山形国際ドキュメンタリー映画祭奨励賞受賞)』を制作。初の35o作品『萌の朱雀』(WOWOW、バンダイビジュアル合作)が、1997年カンヌ国際映画祭カメラドール(新人監督賞)を受賞(この時27歳で史上最年少だった)。同作品のプロデューサー仙頭武則と結婚し、仙頭直美名義で何作か監督するが後に離婚、現在は元の「河P」で活動している。続く『杣人物語(そまうどものがたり)』(1997)で、1999年ニオン国際映画祭特別賞受賞。2000年『火垂(ほたる)』は、スイスのロカルノ国際映画祭コンペティション部門にてワールドプレミアされ、国際批評家連盟賞、ヨーロッパ国際芸術映画連盟賞のダブル受賞、2001年ブエノスアイレス国際映画祭でも最優秀撮影監督賞、主演女優賞(中村優子)を受賞した。第60回カンヌ国際映画祭で『殯の森(もがりのもり)』が審査員特別賞を受賞。また、同年山形国際ドキュメンタリー映画祭のインターナショナル・コンペティション部門で『垂乳女(たらちめ)』が特別賞を受賞。2009年、第62回カンヌ国際映画祭で、映画祭に貢献した監督に贈られる「金の馬車賞」を受賞した。日本では数少ない女流監督のひとりだが、海外で非常に高く評価されている。他の代表作に『沙羅双樹』(2003)、『七夜待』(2008)など。奈良を舞台にした作品が多いが現在も奈良に住み活動をしている。
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北村龍平 (きたむら りゅうへい、1969年5月30日 - )大阪生まれ。DGA(全米映画TV監督組合)に所属する。ハリウッドのエージェントはクリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)。ハリウッドにて『ミッドナイト・ミートトレイン』の監督として採用されている。 | |
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参考資料:
「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
映画データベース - allcinema 日本映画史100年 (集英社新書)
AERA MOVIE ニッポンの映画監督 (AERA Mook AERA MOVIE)
現代日本映画の監督たち 日本映画人名事典 監督篇 日本映画史100年 (集英社新書) 日本映画史ー増補版〈1〉1896‐1940 日本映画の巨匠たち〈1〉 日本映画人改名・別称事典 日本映画・テレビ監督全集
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