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世界に誇る日本の映画監督パート1(生まれ年順で、戦前生まれの監督)
世界に誇る日本の映画監督パート2(生まれ年順で、戦後生まれの監督)
牧野省三
(まきの しょうぞう、1878年9月22日-1929年7月25日)は、京都府生まれ。まだ「監督」という言葉が無かった頃からの日本最初の映画監督であり、「日本映画の父」と呼ばれている。息子マキノ正博ら、日本映画・演劇業界に名高いマキノ一族の祖先である。元は浄瑠璃小屋の経営者で、狂言方をしていた。従って最初は浄瑠璃などの物語や上方の大衆演劇を下地にしたものを撮影し、上映して好評を博していた。1908年に活動写真の興行師横田商会から依頼を受けて作った『本能寺合戦』という映画が日本初の劇映画と言われる。牧野の名を一気に高めたのは歌舞伎俳優尾上松之助こと「目玉の松ちゃん」との出逢いからで、彼を主人公にした映画が爆発的な人気となり、以後約10年に渡って80本近くの映画を撮った。そのほとんどが歌舞伎、狂言、義太夫に題材をとった時代劇であるが、この間に日本映画の技術は飛躍的に発展した。1925年にはマキノプロを設立、本格的な映画製作と興行に乗り出した。晩年にはハリウッドの映画王、『イントレランス』のD.W.グリフィスから「グリフィス・マキノ」という称号を与えられ、それを名誉としていた。
カツドウ屋一代―伝記・牧野省三
衣笠貞之助
(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日) もとは新派の女形俳優で日活向島撮影所の時代劇映画に多く出演していた。映画に「女優」が採用されてからは監督に転じた。ドイツ表現派の影響を受け、アバンギャルド映画の『狂った一頁』(1926 川端康成脚本)、『十字路』(1928)を撮り日本の映画界に強い衝撃を与えた。衣笠は『十字路』を持ってドイツ・ソ連を2年に渡って上映するツアーを行い、欧米で最も早く世界的評価を受けた監督となった。その後は歌舞伎などに題材をとった日本の伝統美を追求する映画で大衆の心を掴んだ。特に林長二郎(長谷川一夫)と組んだ雪之丞変化(1935)は国民的人気を博し、衣笠=林のコンビが定着する。戦後『地獄門』(1953)がカンヌ国際映画祭グランプリなどの国際的賞を受賞、『白鷺』(1958年)『小さい逃亡者』(1966年)も海外で高く評価された。この他代表作に戦後最初の娯楽大作として喧伝された『或る夜の殿様』(1946年)、日本演劇界の重鎮松井須磨子と島村抱月を描く『女優』(1947年)、『源氏物語・浮舟』(1957年)、『歌行燈』(1960年)、『みだれ髪』(1961年)などがある。女優山田五十鈴、山本富士子らも育てた。
人生仕方ばなし―衣笠貞之助とその時代
地獄門
島津保次郎
(しまず やすじろう、1897年6月3日−1945年9月18日)トーキーからサイレントの過渡期を中心に、庶民の日常を明るく描くいわゆる松竹蒲田調・大船調という作風を確立した。何の変哲もない普通の人々の日常生活の中に「物語」を生み出した世界でも稀有な作家で、後世に与えた影響は計り知れない。五所平之助豊田四郎吉村公三郎木下恵介川島雄三谷口千吉ら後の巨匠、女優原節子を育てた大御所でもある。東京神田生まれ。正則英語学校在学中から映画にのめり込み、逓信省の宣伝映画の脚本募集に入選。その後家業下駄屋の仕事を継ぐが、日本の演劇界をリードした劇作家・演出家小山内薫の知己を得て、松竹キネマ研究所に入社。小山内製作・村田実監督の『路上の霊魂』(1921 日本の近代映画の最初といわれる重要な作品)に助監督としてつく。ハリウッド帰りの監督牛原虚彦の助監督を経て監督に昇進。関東大震災で蒲田撮影所が壊滅状態となり、撮影の中心は京都に移るが、撮影所長城戸四郎らと共に東京に残って低予算で庶民を描く作品作りを推進する。その際島津はハウプトマンの原作を伊藤大輔が脚色した『山の線路番』(1923)を監督。この作品で認められる。文芸作品の『多情仏心』(1929)、『麗人』(1930)などを経て、出世作となった『隣の八重ちゃん』(1934)を監督(オリジナル脚本も)。アメリカの都会派映画に影響を受け、自然体の台詞回しや洗練されたストーリーテリングが持ち味であった。その後も谷崎潤一郎の『春琴抄』を脚色した『お琴と佐助』(1935 田中絹代・高田浩吉主演)、『兄とその妹』(1939年 佐分利信・三宅邦子主演)、東宝に移籍して『白鷺』(1941年)などを発表した。 東宝の文芸部にいた池部良は彼に見出され俳優に転向した。池部の回想録『心残りは…』に島津との思い出が綴られている。
婚約三羽烏
溝口健二
(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)日本が誇る映画監督のうちでも最高峰といえる巨匠。『西鶴一代女』(1952)、ベネチア映画祭国際賞『雨月物語』(1953)ベネチア映画祭銀獅子賞(甲斐荘楠音はアカデミー賞白黒衣裳デザイン賞ノミネート)、『山椒太夫』(1954)ベネチア銀獅子賞と3年連続でベネチアで受賞した監督は他に世界に存在しない。
東京本郷生まれ。小学校卒業後に黒田清輝の洋画研究所で絵画を学んだ。1920年、日活向島撮影所に入所、助監督を経て1923年、『愛に蘇へる日』で監督デビュー。1933年『滝の白糸』で本領を発揮し一躍一流監督の座に着いた。白血病で死去。
内田吐夢
(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)日本映画の創生期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」である。岡山生まれ。中学を中退し横浜のピアノ製作所に奉公、ピアノ調律師をしていたという変わった経歴を持つ。1920年、文豪谷崎潤一郎が経営に関わった大正活映に出入りするようになり、トーマス栗原監督の助手や役者などをこなすがまもなく大正活映が解散となり、旅役者などしばらく放浪生活を送る。その後日活に入社し、1927年に監督に昇進、入江たか子や小杉勇を主役にした喜劇映画やいわゆる傾向映画を次々と発表し早くも巨匠と言われるようになる。この頃の傑作に『仇討選手』(1931)や当時異例の1年半に及ぶ製作期間を得た『土』(1936)がある。戦時中は中国に渡り満映で映画製作やスタッフの育成に携わる。中国には終戦後も留まり9年にも及んだ。満映の甘粕正彦理事長が自害するのに立ち会った。
1954年に帰国後は東映に入社。時代劇『血槍富士』で監督復帰。以後『大菩薩峠』(1957〜1959三部作 片岡千恵蔵主演)、『宮本武蔵』(1961〜65年五部作 中村錦之助のち萬屋錦之介主演)のような大作を発表する一方、 アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』(1958)、部落問題を底流に描いた『飢餓海峡』(1965 三國連太郎高倉健主演)など、現代社会のマイノリティを描いた問題作も発表した。他の代表作に『浪花の恋の物語』(1959年)、『人生劇場 飛車角と吉良常』(1968年)など。芸名「吐夢」は横浜の不良時代のあだ名から。豪快な大男で手はグローブのようだったそうだ。僕はまず萬屋錦之介が演技開眼したという『宮本武蔵』シリーズのダイナミズムとヒューマニズムに、高倉健が自ら最高傑作と称した『飢餓海峡』に☆3つです。特に『飢餓海峡』のわざと荒涼とした雰囲気を出すために16ミリで撮影したという画面と左幸子・伴淳三郎の演技には参りました。
私説内田吐夢伝
内田吐夢―映画監督五十年
伊藤大輔
(いとう だいすけ、1898年10月12日 − 1981年7月19日)時代劇映画の基礎を作った名監督の一人。「時代劇」という言葉を創作したとも言われている。ダイナミックなカメラ移動を使った演出から名前をもじって「イドウダイスキ(移動大好き)」と呼ばれた。愛媛県松山生まれ。松山中学では後の映画監督伊丹万作、俳人中村草田男らと同人誌を作り、評論家大宅壮一らなど文才を競っていた。一時海軍の製図工となるがプロレタリア活動の疑いをかけられクビに。文通していた小山内薫を頼って上京。伊丹万作と同居し、小山内が主宰していた「松竹俳優学校」に入学。ヘンリー小谷監督の第1作『新生』のシナリオを執筆する。その後、松竹、帝国キネマで数多くのシナリオを執筆する。脚本家として衣笠貞之助『雪之丞変化』島津保次郎『山の線路番』などを残している。1924年、国木田独歩原作の『酒中日記』で監督デビュー。この頃から外国映画の影響を受けた躍動感溢れる大胆で激しいカメラワークが話題を呼ぶ。大河内傳次郎を主演にした『忠治旅日記』三部作(1927)は、子分に裏切られて破滅していく忠治像を描き、豪傑一本だった時代劇のヒーローに、悲哀や苦しみを織り交ぜた表現は、当時不況にあえぐ観客から圧倒的な支持を得、評論家からも絶賛された。サイレント時代劇のみならず戦前の日本映画の最高傑作と呼ぶ人も多い。続く『新版大岡政談』(1928)では大河内の丹下左膳が登場し以後の時代劇ヒーローの定番となった。この他河竹黙阿弥作の歌舞伎『鼠小僧』を原作にした『御誂次郎吉格子』(1931)は権力への反逆とメロドラマを結びつけた傑作である。その後、嵐寛寿郎を主役に『鞍馬天狗』、片岡千恵蔵の『宮本武蔵・二刀流開眼』などを撮り、スターを育て上げると同時に、時代劇人気を支えた。トーキー時代になり一時低迷期に入るが、戦後は阪東妻三郎主演で『王将』(1948)、早川雪洲主演『遥かなり母の国』(1950)、『反逆児』(1961 中村錦之助=萬屋錦之介主演)などを監督、錦之助らを育てた。生涯に90本の監督作品と200本近い脚本を残した。しかし初期の時代の作品は散逸してしまったため、ほとんどが完全な形で見ることができない。代表作といわれた『忠治旅日記』でさえ、第2部「信州血笑編」・第3部「御用編」は失われ、90年代に偶然民家からフィルムが発見されるまで「幻の映画」と呼ばれていた。時代劇を得意とし、その活劇・娯楽的な作風で多くのヒーローを生んだが、底辺には社会主義的思想があり、作品には権力・封建主義への反逆精神や庶民の苦しみが表現されていた。近年になって再評価の声が高まっている。
伊藤大輔―反逆のパッション、時代劇のモダニズム!
伊丹万作
(いたみ まんさく 1900年1月2日 - 1946年9月21日)それまで日本映画になかった「散文精神」を作品に盛り込んだと激賞された名監督。愛媛県松山市出身で名門松山中学では後の俳人中村草田男、映画監督・脚本家の伊藤大輔などと同人雑誌を作り、文才を競った。日本映画界一の名文家と呼ばれ、著作は伊丹万作全集として残されている。上京し伊藤大輔と同居、シナリオ執筆修行をしていたが、1928年に伊藤の推薦で助監督兼脚本家として片岡千恵蔵プロに入社、同年『仇討流転』で監督デビュー。偽物の剣豪が本物の剣豪を簡単に破ってしまう『国士無双』(1932)、ブ男でお人よしの間者を千恵蔵が演じ、原作者志賀直哉が絶賛したという『赤西蠣太』(1936)など軽妙洒脱な時代劇で観客の大きな支持を得た。『戦国気譚 気まぐれ冠者』(1937)、日独合作の大作だが、ドイツ側のアーノルド・ファンク監督と衝突し自らのフィルモグラフィとして語らなかったという新しき土(1937)、『ああ無情』の翻案物『巨人伝』(1938)、など生涯に22本の映画を残すが現存しほぼ完全な形で観られるのはここに挙げた『国士無双』以降5本のみ。戦後は病魔に苦しみながらも日活などで、『無法松の一生』(1943 稲垣浩監督)、『手をつなぐ子等』(1946)などのシナリオを書く。『手をつなぐ子等』は知的障害児教育を題材にした田村一二『手をつなぐ子ら』が原作で、それを読んで感動した伊丹万作が、自ら監督すべく脚本を書いたものだが、46歳の若さで肺結核のため死去した。結局、盟友稲垣浩が追悼の意を込めて監督したいわくがある。なお、『手をつなぐ子ら』は羽仁進によって1964年にリメイクされ、モスクワ映画祭審査員特別賞を受賞した。『国士無双』も1986年に保坂延彦監督、中井貴一主演でリメイクされている。
息子伊丹十三は、父が死去した歳を過ぎた51歳から映画監督になった。娘の夫は大江健三郎である。
島耕二
(しまこうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日)長崎県長崎市に医者の息子として生まれる。旧制長崎中学卒業後、上京。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢阿部豊溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年の労働争議で内田吐夢、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、『明治一代女』、『真実一路』などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立した。1939年監督に転進して『雲雀』でデビュー。『風の又三郎』(1940)、『次郎物語』(1941)など児童向け映画、文芸映画で好評を得た。『風の又三郎』では長男の片山明彦を主役に据えて詩情豊かに描いた傑作だが、あの「ドドドド〜」という歌は印象的で長く”風の又三郎”の代名詞的なイメージを残している。
戦後は東横映画(東映系)、新東宝などに移籍するが主に大映で、若尾文子・南田洋子主演の『十代の性典』(1953年)、『金色夜叉』(1954 山本富士子・根上淳主演)、サラブレッドと少年らの交流を描く『幻の馬』(1955)、岡本太郎デザインの宇宙人パイラ人が面白い『宇宙人地球に現わる』(1956年)、溝口健二監督の名作をリメイクした『残菊物語』(1956 長谷川一夫、淡島千景主演)、妻の轟夕起子、京マチ子、山本富士子、叶順子を配した『細雪』(1959)、『安珍と清姫』(1960 市川雷蔵・若尾文子主演)など時代劇・文芸映画・SFから『銀座カンカン娘』(1949)、『上海帰りのリル』(1952)、『有楽町で逢いましょう』(1958)などの歌謡映画までジャンルを問わず職人的な手腕を発揮した。『いつか来た道』(1959)ではモスクワ映画祭最優秀監督賞を受賞した。
五所平之助
(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日−1981年5月1日)日本最初の国産トーキー映画マダムと女房(1931)の監督として歴史に残る監督。東京神田の大きな乾物問屋が芸者に生ませた子という。知人の島津保次郎の紹介で1923年、松竹蒲田撮影所へ入社し、島津の下で助監督を務める。1925年に清水宏、小津安二郎とともに監督昇進。この時、成瀬巳喜男が昇進に遅れ、悩んで映画界を去ろうとした成瀬を五所が酒に誘い引き留めた話は有名。原作、脚本も手がけた『南島の春』で監督デビュー。以後、「庶民派」「女性映画」「文芸物」の名匠といわれ、サイレント時代から戦後のカラーワイド時代まで約50年に渡って99本の映画を残した。そのうち『マダムと女房』、伊豆の踊子(1933)など田中絹代を主役にした作品が23本。溝口とともに名女優田中を育てた監督である。1945年8月30日に封切された『伊豆の娘たち』は戦後封切第1号(マッカーサーが厚木に来日した日)。東京北千住のお化け煙突を背景に下町の人々の生活を詩情豊かに描いた『煙突の見える場所』(1953)はベルリン国際平和賞を受賞。疎外された子供の心理を繊細に描写した『黄色いからす』(1957)は米ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞、井上靖原作の『「通夜の客」よりわが愛』(1960)は戦中戦後を通じて妻子ある中年男にすべてを捧げた若い娘のひたむきな愛を描き、主演の有馬稲子が絶賛されコーク映画祭(アイルランド)主演女優賞を受賞した。その他の代表作は『今ひとたびの』(1947)、大阪の宿(1954)、『挽歌』(1957)など。日本各地の風景を物語に美しく溶け込ませて表現する名手だった。
俳人としても知られ「五所亭」という俳号で活躍。辞世の句は「花朧ろ ほとけ誘う 散歩道」。
お化け煙突の世界―映画監督五所平之助の人と仕事
マダムと女房

煙突の見える場所

黄色いからす
山本嘉次郎
(やまもと かじろう、1902年3月15日 - 1974年9月21日)黒澤明谷口千吉本多猪四郎、本木荘二郎、高峰秀子、榎本健一(通称エノケン)などを育て上げたことでも有名である。黒澤明がPCLの入社試験を受けた時、合格した10人のうち9人は大学出で黒澤だけが旧制中学卒だった。山本が黒澤を強く買い採用したといわれる。山本の黒澤助監督に対する信頼は厚く、撮影中、カットの声の後、黒澤を見て、彼のOKが出てからOKを出したという逸話がある。山本はシナリオの名人として知られ、特に黒澤らにシナリオの書き方を指導した。
子供の頃から歌舞伎や軽演劇に親しみ、合唱団で西洋音楽に接し、慶応大学在学中からアマチュア映画を作っていた。いくつかのプロダクションを経て1926年日活京都に入社。脚本家として田坂具隆監督作品などを担当し名を挙げた。東宝の前身PCLに移ってから浅草の榎本健一を主役に採用した『エノケンの青春酔虎伝』で監督デビュー。以降エノケンと組んだ喜劇映画や『ちゃっきり金太』のような和製ミュージカルを監督した。また都会的なモダニズムを描くことが得意で、多くの作品を大ヒットさせて会社を支えた。
1938年、高峰秀子主演で下町の貧しい家族の日常をセミドキュメントタッチで淡々と描いた『綴方教室』、1941年には黒澤明を助監督に東北の農村の馬と少女の温かな交流を描く『馬』を制作し高い評価を得た。
また、太平洋戦争中監督した『ハワイマレー沖海戦』は海軍の依頼で会社が引き受けた戦争高揚映画だが、海軍からは「活動屋は信用できない」という理由で戦艦や戦闘機の資料がいっさいもらえなかった。仕方なく特撮監督と神田の古本屋でアメリカの雑誌「ライフ」などを買って、そこに出ていた写真を参考に精密な模型を作った。その時の特撮監督こそ円谷英二で、実写と見まごうほどの素晴らしい戦闘シーンは絶賛された。
父は天狗煙草(煙草が国営になる前の煙草会社)の支配人、実家は銀座で日本で始めて親子丼を作った店で、食についての造詣が深く、また、「なんでもかじろう」のあだ名の通り博学でも知られ著作も多数。そのうちのひとつ『日本三大洋食考』は日本の洋食から日本の西洋文化の取入れ方や影響を解いた本で、装丁はデザイナー時代の伊丹十三である。
春や春カツドウヤ
ハワイ・マレー沖海戦
小津安二郎
(おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日)日本映画史上の屈指の巨匠。東京深川生まれ。9歳のときに父の郷里・三重松阪へ転居しここで育つ。活動写真(特に洋画)に夢中になる。旧制中学卒後、高校を受験するが失敗、小学校で1年間代用教員を勤めるが後上京。1923年松竹蒲田撮影所に入り、撮影助手、大久保忠素監督の助監督を経て1927年『懺悔の刃』で監督デビュー。『大学は出たけれど』、『生れてはみたけれど』のような庶民の生活を題材にした軽喜劇で人気を博す。戦争中は軍部報道映画班として脚本家・斎藤良輔と厚田雄春カメラマンとともにシンガポールへ赴任。ここで、接収された『風と共に去りぬ』『市民ケーン』など大量のハリウッド映画を観ていた。日本が戦争でアメリカに勝つ見込みが無いことをここで思い知ったという。戦後は松竹に戻り1947年『長屋紳士録』で監督復帰。1949年『晩春』で名声を確実なものにした。以後『麦秋』『東京物語』『彼岸花』『秋刀魚の味』など庶民の哀歓や下町の情緒、親子・家族の愛憎などを作品に投影し高く評価された。ローアングルで主人公らを正面から見据え、少し冗漫と思われるくらいの独特の「間」で描く、このオリジナルなスタイルは世界の映画人からも尊敬の的となっている。

映画作りはまず脚本家の野田高梧とともに茅ヶ崎の旅館や蓼科の別荘「無芸荘」に缶詰になってオリジナルのシナリオを作成するところから始まる。カメラマンは厚田雄春。美術、音楽などもいつもスタッフはほとんど同じ。主演も笠智衆、佐分利信、佐野周二、佐田啓二、原節子、浪速千恵子、杉村春子らが常連。同僚の映画監督も彼のことを「先生」と呼んでいたそうだ。「僕の映画はエンドマークから始まる」というのが口癖だった。これは映画で問題を観客に投げかけ、あとは観客に考えてもらうというスタンスでどの映画も製作していることを表わしている。
『早春』の時、リハーサルで何度も同じ演技を繰り返し要求された岸恵子は「なぜ何度も同じことをしなければいけないのですか?」と監督に尋ねた。周りのスタッフは蒼ざめたが小津は諭すように「それはね、君がとっても下手だからだよ」と言ったという。実際は小津は岸を気に入っており、次回作も岸を想定していたが、スケジュールの都合で実現しなかった。元松竹の監督で後作家になって直木賞を受賞した高橋治が書いた小津伝『絢爛たる影絵』には、小津が編集の天才だったエピソードが綴られている。小津の映画はどれもゆったりとしたテンポで流れる。一見、もっと摘んで短くしても良いと思われるカットも実は彼の独自の計算によって緻密に組み立てられている。松竹大船撮影所には編集の神様と呼ばれるベテランがいた。ある映画の初号試写で、小津が指示したカットを無視してその編集マンが勝手に編集してしまった所があった。どこかの景色のシーンだったらしい。試写が終わって小津はその編集マンに「あのカット何コマ削ったろう?」と尋ねた。この時も周りのスタッフ皆が凍りついた。巨匠小津の指示に逆らう人は松竹にはいない。しかし編集マンは「はい。その方がいいと思ったからです」と答えた。小津は納得し「そうだ。君のカットの方がいいね」と許した。この直後高橋治は編集室を訪ね、くだんの編集マンに真相を聞いた。実際小津の指示よりも数コマ(1コマは24分の1秒である)短くしたそうであり、凡人には到底気づくはずのない変更だったそうだ。驚愕した高橋は「そんなことがわかる映画監督は松竹に他にいるのですか?」と聞くと編集マンは「松竹どころか日本にはいない」と答えた。「どうしたらそんなことができるんですか?」とさらに聞くと編集マンは嬉しそうに「…できるようになるんだねえ」と答えたという。

原節子と結婚の噂があったが、生涯独身で、老いた母と二人暮らしだった。酒を愛し、食通としても知られ、横浜の元町で購入した英国製のネクタイや帽子を見につけるなどダンディだった。また博学で日記や俳句など名文が多数残っている。還暦の誕生日に亡くなった律儀な人生だった。原節子は小津の葬儀に出席し号泣したといわれる。その後、彼女は一切の芸能活動を辞め隠遁した。
1960年、紫綬褒章受章。1963年、映画人として初めて日本芸術院会員に選ばれる。死後、勲四等旭日小綬章受賞。墓は彼が愛した鎌倉・円覚寺にあり、いつも花が絶えないという。その墓石にはただ「無」とだけ刻まれている。

監督 小津安二郎
完本 小津安二郎の芸術 (朝日文庫)
小津安二郎 東京グルメ案内 (朝日文庫)』など関連本・研究本多数。

関連項目
受賞暦

小津と語る

レナード・シュレーダー、ポール・シュレーダー

ヴィム・ヴェンダース

東京画

ビンセント・ギャロ

ドナルド・リチー
中川信夫
(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)怪談映画の名手として知られる。神戸生まれ。キネ旬の投稿の常連者だった。マキノ映画に助監督として入社、主にマキノ正博の下についた。市川歌右衛門プロで試しに撮った映画が好評で、『東海の顔役』(1936)で映画デビュー。マキノが倒産した後、東宝京都撮影所などで活動。『伊太八縞』などを主に監督し好評を得る。以降時代劇やエノケン(榎本健一)の主演作『エノケンの森の石松』などを山本嘉次郎監督らと共に量産した。この頃は若き日の市川崑が助監督についていた。『虞美人草』(1941)を最後に契約解除になり、中国に渡って中華電影で日支戦争の記録映画などを製作。敗戦後は帰国し主に新東宝でミステリー、ファンタジー、喜劇、文芸ものなどあらゆるジャンルのプログラム・ピクチャーを手がけていた。新東宝に大蔵貢社長が就任し怪談路線を打ち出すと数本の和製ホラーを監督。中でも『東海道四谷怪談』(1959)、『地獄』(1960年)は日本映画を代表する傑作となった。その後は『「粘土のお面」より かあちゃん』(1961年)といったヒューマンドラマの佳作やテレビドラマ『プレイガール』シリーズ、九重佑三子主演の『コメットさん』、時代劇『鳴門秘帖』、『四谷怪談』以来の愛弟子天地茂を主演に配した『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』などの他、『ウルトラマンレオ』の2エピソードを手掛けるなど、多才ぶりを発揮する。1982年、永年温めていた企画『怪異談 生きてゐる小平次』をATG製作で実現し、念願のキネマ旬報ベスト10に入るなど高い評価を受けた。が、残念ながら劇場用映画ではこれが遺作となってしまった。
『東海道四谷怪談』、切れの良い編集、物語の伏線の張り方、俳優陣の名演技はもちろん、歌舞伎のケレンを大胆に取り入れた美術・衣装の美しさ、小道具・大道具の使い方など後の怪談映画のみならず、時代劇の作り方にも大きな影響を与えた。とにかく日本の幽霊はこんなに恐いものか?というほどの恐さです。最近欧米でも再評価され始めている。
参考書:『地獄でヨーイ・ハイ!―中川信夫怪奇・恐怖映画の業華
成瀬巳喜男
(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)日本映画界にあって「平凡な日常の中のドラマを表現する」という独自の美学を貫いた名匠。世界映画史上に残る「女性映画」の巨匠といわれ、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督らが深く尊敬している。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』も小津溝口健二黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えたが、このように世界で評価されるようになったのは監督の死後10年以上たってからである。東京都四谷出身。1920年に松竹鎌田に入社、1930年に『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。多くの小市民劇を作るが後にPCLに移籍、『妻よ薔薇のやうに』(1935)を監督、批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は『Kimiko』と題され、1937年にニューヨークで劇場公開された(米国で有料で上映された最初の日本映画)。
以降『鶴八鶴次郎』(1935)、『歌行燈』(1943)など長谷川一夫や山田五十鈴を主役にした「芸道もの」映画で人気を博した。戦後は、華やかな世界ではなく、裏通りで男に頼らず生きていく女のしたたかさや慎ましい苦労を描く作風で一世を風靡した。遺作『流れ雲』(1967)に出演した司葉子によれば、ある若い女優が成瀬作品にどうしても出たいと言ったところ「30歳過ぎたら来なさい」と言ったという。実際、彼の映画に登場するヒロインは戦争未亡人や子供をかかえて働くバーの女、芸者などが多い。
『めし』(1951、林芙美子原作、原節子・上原謙主演)、『浮雲』(1955、原作林芙美子、脚本水木洋子、主演高峰秀子・森雅之、助監督岡本喜八)、『流れる』(1956、原作幸田文、田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子ら主演)、『女が階段を上がる時』(1960、主演高峰秀子・森雅之・仲代達矢)といった作品が特に高く評価されている。
弟子の一人だった廣澤栄著『日本映画の時代』には『驟雨』の時の独自の映画作りが詳しく書かれている。面白いのはその人物像で、お役人のようにきっちりとした人だった。スケジュールなどもきちんと守り、よほどのことが無い限り製作期間や予算をオーバーすることがなかった。ただし演出法とかプランは自分だけで組み立てた。コンテを書き込んだ台本は絶対誰にも見せなかったといわれる。前もっての打ち合わせとリハーサルは緻密にして行い、本番の時は役者やスタッフへの注文はほとんど無く、だいたい撮影は9時―5時で終わったという。毎日決まった時間に撮影所に「出社」し、トレードマークのソフト帽と汚れよけのためのコートを着てスタジオに現れ、よけいなことを一切言わず淡々と仕事をこなしていく。その演出には「ためらいや淀みがない」とあるが、これはどんな巨匠でも出来ることではない。撮影終了は4時45分。「ここまでにしよう」という成瀬の一言で終わる。成瀬はロッカールームで帽子とコートを脱ぎ、撮影所を出て、正門前のレストランの定席に座る。店の方も心得ていていつもの熱燗を出す。その時撮影所の5時のサイレンが鳴る。そういう毎日だった。だから予定が狂う可能性があるロケが大嫌いだったらしい。凄い!
撮影中、成瀬は「OK」とは言わない。OKの時は次のカットに移る。「なんだかもそもそと動いて向こうに行ったからいいんだろうなって」と高峰秀子は回想している。高峰は成瀬を最も尊敬しており、女優の引退を決意したのは成瀬が死んだ時だったという。
参考書:『成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書36 (リュミエール叢書)』、『成瀬巳喜男 演出術―役者が語る演技の現場』、『成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する (リュミエール叢書)』、『成瀬巳喜男―日常のきらめき』、『成瀬巳喜男と映画の中の女優たち』、 『成瀬巳喜男を観る』、 『成瀬巳喜男』、 『成瀬巳喜男―透きとおるメロドラマの波光よ (映画読本)』など多数。
稲垣浩
(いながき ひろし、1905年12月30日 - 1980年5月21日)日本映画の基礎を作った名監督。東京駒込の芝居小屋の役者の子として生まれ、子役として舞台を踏んでいた。俳優として日活向島撮影所に入り、村田実監督作などに出演していたが、役者としては大成しなかった。女形の俳優から監督に転進した衣笠貞之助を頼り、『十字路』の助監督を務めるなど衣笠の下で監督修行。後に片岡千恵蔵プロに移籍し、1928年『天下太平記』で監督デビュー。『鴛鴦旅日記』(1929)では。『一心太助』『番場の忠太郎 瞼の母』(ともに1931)など後の時代劇の定番となる作品を次々と発表し、稲垣の実力が世間に認められる。稲垣&片岡千恵蔵の時代劇は「ちょんまげをつけた現代劇」と絶賛され大ヒットした。その後日活京都に移り、『大菩薩峠』(1935 大河内傳次郎主演)、『血煙高田馬場』(1937 阪東妻三郎主演)、『出世太閤記』(1938 嵐寛十郎主演)、『宮本武蔵』(1940 片岡千恵蔵主演)など当代随一の俳優陣を主演させた時代劇で一世を風靡した。
代表作となった阪東妻三郎主演の無法松の一生は戦中の1943年に製作された。それまで白塗りのメイクで歌舞伎調の型にはまった演技を捨てた阪妻のリアリティあふれる演技と名手宮川一夫のカメラワーク、伊丹万作の完璧な脚本で当時の観客の涙を誘った名作である。しかしこれは軍の検閲で「無法松が未亡人に思いを寄せる」シーンなどが引っかかりカットさせられた。その時の悔しさが忘れられず戦後稲垣は三船敏郎主演の無法松の一生をリメイクし、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。戦後は東宝で三船主演の時代劇・娯楽大作『戦国無頼』(1952 黒澤明共同脚本 三國連太郎共演)、『柳生武芸帳』(1957 鶴田浩二・大河内傳次郎共演)、日本誕生(1959 共演原節子)、オールスターの『忠臣蔵・花の巻・雪の巻』(1962年) 風林火山(1969年 中村(萬屋)錦之助、石原裕次郎共演) 待ち伏せ(1970 石原裕次郎共演)などを監督。巨匠として多くのスターを育てている。
伊丹万作とは片岡プロ時代からの親友。志半ばで病死した伊丹の代わりに『手をつなぐ子等』を監督した。
著書に『ひげとちょんまげ―生きている映画史』、『日本映画の若き日々 (中公文庫 M 153-2)』、評伝・作品論などは『我が心の稲垣浩』、『千恵プロ時代―片岡千恵蔵・伊丹万作・稲垣浩 洒脱にエンターテイメント (映画読本)』など。
マキノ正博
(まきの まさひろ 1908年2月29日 - 1993年10月29日)正唯→正博→雅弘→雅裕→雅広と改名、また脚本名義の名も多数ある(当サイトでは最も長く使われたマキノ正博を使用)。京都市出身。日本映画の父・牧野省三の長男。生涯に監督した映画は264本といわれ、日本映画史上屈指の本数と長いキャリアを誇り、多くの俳優・女優・スタッフを育てた巨匠である。父のもとで子供の頃から映画に親しみ、子役や女形で出演をしていた。弱冠18歳の時『青い眼の人形』(1926)で監督デビュー。『浪人街』シリーズ(1928)では無名の俳優を採用し、アナーキーな青春群像を表現。キネマ旬報ベストテン第1位などに輝き、続く『首の座』(1929)も第1位になり、20歳頃には早くも父を超えた実力の持ち主・芸術派の天才として注目を浴びた。しかしまもなく父の死によりマキノプロが倒産、借金を背負って日活に移籍する。3年に及ぶトーキーの研究を経て良質なトーキー映画を製作すべく1935年マキノトーキー社を設立、以降は興行的な成功を目指して娯楽映画を多く作った。特に日活と組んで日活所属のスター、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、月形龍之介、松竹・東宝の俳優長谷川一夫らを主演に配した時代劇を量産した。『國定忠治』(1937)、アラカンの当たり役『鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻』(1938)、ミュージカル時代劇の傑作鴛鴦歌合戦(1939年)、『続清水港(清水港代参夢道中)』(1940)、『男の花道』(1941)、『婦系図』(1942)などは戦中の庶民を大いに沸かせ楽しませている。戦後も創作意欲は衰えることなく、数々の名作・ヒット作を残している。黒澤明脚本の『殺陣師段平』(1950)、藤純子(現富司純子)の引退記念映画(もう復帰してますけど)関東緋桜一家(1972)をはじめ、『次郎長三国志』シリーズ、『丹下左膳』シリーズ、ヤクザ映画の嚆矢となった『日本侠客伝』シリーズ、昭和残侠伝 死んで貰います(1970)など高倉健を一躍大スターにした『昭和残侠伝』シリーズなどで気をはいた。総監修という形で出世作の『浪人街』(1990 黒木和雄監督・原田芳雄主演)を再映画化しこれが遺作となった。女優轟夕起子は妻(後離婚)で、甥に長門裕之、津川雅彦兄弟など、マキノ一族は一冊の本『日本映画興亡史 マキノ一家』になるほど芸能関係に多数。
参考書:『映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝』『映画監督マキノ正博』『マキノ雅弘―映画という祭り (新潮選書)


マキノ雅弘・高倉健 BOX
豊田四郎
(とよた しろう、1906年1月3日 - 1977年11月13日)京都市出身。十代で上京し日活向島の田中栄三監督に師事、その後1924年に松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎の下で監督修行した。その後、東京発声(東宝系)に移り石坂洋次郎原作の『若い人』(1937)を監督して認められた。戦中に一時低迷するが、戦後は成瀬巳喜男山本嘉次郎衣笠貞之助と競作した オムニバス『四つの恋の物語』(1947)で豊田は黒澤明脚本の第一話『初恋』を監督、その後は森鴎外原作の大作『雁』(1953)で見事に復活、以後『或る女』(1954 有島武郎原作、息子の森雅之が主演)、夫婦善哉(1955 織田作之助原作)、『猫と庄造と二人のをんな』(1956 谷崎潤一郎原作)、雪国(1957 川端康成原作)、喜劇 駅前旅館(1958 井伏鱒二原作)、墨東綺譚(1960 永井荷風原作)などの文芸映画を多く監督し、高い評価を得た。どの映画も文豪たちの名作を原作にしているが、自立してハキハキした強い女性が主人公で、甲斐性がなく優柔不断な弱い男性と絡むという図式で登場人物が配されており、豊田は「女性映画の巨匠」というイメージが強い。因みに彼自身はホモセクシャルで、このことは彼が育てた池部良や森繁久弥の随筆に記されており、女優へのしごきは人一倍厳しかったと言われる。しかし彼によって華開いた女優は、杉村春子、淡島千景、山本富士子、淡路恵子、新珠三千代、岸恵子、団令子など後の大女優がずらり。また、『小島の春』(1940)はハンセン氏病のために献身的に働く女医の物語で、戦後撮った恍惚の人(1973 有吉佐和子原作)は老人性痴呆をテーマにしており、こうした難病と戦う人々を扱った文芸作品も進んで映画化したが、誤った知識や対処法を原作どおりに描いたために、後年たびたび批判の対象となった。
山口淑子主演の『白夫人の妖恋』(1956 香港ショウブラザースと合作・「白蛇伝」が原作)の製作の苦労話は助監督を務めていた廣澤栄著『日本映画の時代』に詳しい。蛇が登場する映画なのに、当の監督が大の蛇嫌いで…。
代表作はなんと言っても『夫婦善哉』で、森繁と淡島はまるでテンポのよい大阪の漫才のような絶妙な会話が展開する。大阪船場の遊び好きでお人好しの若旦那(森繁)が散々遊んだあげく勘当されて行くところが無くなり、結局、彼のために尽くしてくれた芸妓(淡島)のもとに戻る。ラスト、2人が法善寺横丁の甘味処でぜんざいを食べながら森繁が「あんじょう頼りにしまっせ」としみじみ言うシーンは、日本映画史上に残る名台詞と言われている。
俳優・北大路欣也の結婚披露宴でスピーチを終えて座った直後心臓発作で倒れ急逝した。製作現場では迫力のある人だったが、普段は慇懃な人で、道端で逢った助監督などに対しても立ち止まって帽子をとって挨拶したそうである。
亀井文夫
(かめいふみお 1908年-1987年)福島県のカソリック系の家庭に生まれ仙台で育った。白樺派に傾倒し上京して絵描きを目指し文化学院美術部に入学。マルクス・レーニン主義に基づく唯物史観に目覚める。絵を学ぶつもりでソビエトに渡るが、途中ウラジオストックの映画館で見た『上海ドキュメント』というドキュメンタリーに衝撃を受け、映画を志しレニングラード映画専門学校に留学。結核で帰国後、2年の静養を経てPCL(後に東宝)に入社。文芸部でスクリプターや各種PR映画の演出などを担当していたが、PCLが文化映画部を創設した時に演出家として転属した。”日中戦争”を記録した『支那事変』(1937)、『支那事変後方記録・上海』、『北京』(1938)は、亀井の構想の下に名カメラマン三木茂らが中国に撮影に赴いたもので、亀井は現地には行かず「戦争をエレジーとして見つめる」姿勢で日本で編集・演出を担当した。いわゆる文部省による国策映画であったが、日本兵による工作や街の破壊を描き日本記録映画史上に残る傑作と言われた。続く戦ふ兵隊(1939)では、疲弊した兵士たち、水田で厳しい労働に励む農民たち、戦火に追われて逃げる難民などを延々と描き、極めて反戦的な作為があると陸軍当局から判断され上映禁止となった(この作品はポジフィルムが1975年に発見されるまで幻の映画とされていた)。 戦争を描けないということで撮った次の『小林一茶』(1941)は一茶を題材(ダシ)に山村の農民生活の苦しさを表現。「やせ蛙 まけるな一茶 ここにあり」という句を出して、露害にやられた農民の姿を映し、ラストに「俺は俳句を作らないが米作る」と語る農家の孫を映し出した。当然、文部省はこれを認定せず、文部省「非認定」映画として全国上映するが、これが大ヒットとなる。しかし、当局にマークされていた亀井は治安維持法違反の容疑で逮捕・投獄、監督資格を剥奪され東宝を退社した。
1945年終戦後、東宝に復帰、亀井は早速天皇の戦争責任を問う『日本の悲劇』を製作。これはニュースフィルムを素材にして構成、編集した作品で、ラスト、軍服を着ていた昭和天皇が背広に移っていく様をオーバーラップで描くなどの表現があった。GHQは許可したが吉田茂首相がこれを見て激怒、フィルムはまたもや没収、上映禁止となる。『戦争と平和』を山本薩夫と共同監督。映画は未曾有のヒットをしたが、時は東宝大争議の中、「文化は暴力では破壊されない」の名言を残して東宝を去る。続く1950年代には日本にも占領軍による赤狩りの波が起こり、共産党員で活動家だった亀井は大手映画会社の作品を撮ることができず、独立系の会社で、左翼的思想に基づいた劇映画『女の一生』(1949)、『母なれば女なれば』(1952 山田五十鈴主演)、『女ひとり大地を行く』(1953)を発表。1955年には自らの映画会社日本ドキュメントフィルムを設立、以来『流血の記録砂川』『世界は恐怖する』、原水爆反対運動を撮った『生きていてよかった』『人間みな兄弟・部落差別の記録』と、一貫して、反戦、反核、反差別の立場から社会的問題作を発表。『生きていてよかった』を見て感激したケネデイ大統領は、アメリカへの招待状を送ってきたが、日本政府はビザの発給を拒否した。遺作は生物を題材に現代文明批判を説いた『生物みなトモダチ・パート2 教育篇〜トリ・ムシ・サカナの子守歌』(1987) 。日本のドキュメンタリー映画における神様のような存在で、多くの記録映画製作者に計り知れない影響を与えた。
参考書は『たたかう映画―ドキュメンタリストの昭和史 (岩波新書)』、『鳥になった人間―反骨の映画監督 亀井文夫の生涯』。亀井作品に言及した書籍は多数有り、『ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために
山中貞雄
(やまなか さだお、1909年11月8日 - 1938年9月17日)京都生まれ、商業学校時代マキノ雅弘の後輩であり、彼を頼って映画界入りした。脚本家としても名作を残す。日本映画史上屈指の天才と呼ばれる。同じ映画会社にいた黒澤明はもちろん、黒木和雄ら山中の映画を見て監督を目指した者は少なくない。大らかな人だったそうで、ほとんど役者に演技指導はせず、スタートの声で撮影が始まっても、俳優の演技を見ず、脇の子役相手に遊んでいたこともあるそうだ。とはいえ、綿密なリハーサルをしていたからできることであろう。P.C.L.映画製作所(後の東宝)で発表した代表作『人情紙風船』の封切の日に召集令状が届き従軍。中国戦線に赴き、29歳の若さで戦病死した。 
作品集:『山中貞雄作品集〈全1巻〉』、伝記・人物像・作品論などは『監督 山中貞雄』、『評伝山中貞雄―若き映画監督の肖像 (平凡社ライブラリー)』、伝記漫画『山中貞雄物語―沙堂やん (Big Superior Comics Special―日本映画監督列伝)』、甥にあたる加藤泰による『映画監督山中貞雄 (1985年)』など。現存する三作品のうち『丹下左膳余話 百萬両の壺』は2004年に『カブキマン』の江戸木純製作で『丹下左膳 百万両の壺』(監督・撮影:津田豊滋 主演豊川悦司)としてリメイクされている。
山本薩夫
(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)鹿児島県出身。甥に俳優の山本學、山本圭、山本亘がおり、自身の作品への配役も多い。早稲田大学文学部独文科在学中に左翼活動に打ち込み中退。築地小劇場で左翼劇を手伝っていた。当時はドイツ映画『嘆きの天使』のスタンバーグ監督作やソ連映画に入れあげていた。伊丹万作伊藤大輔と知己を得、彼らのつてで松竹蒲田に入社。成瀬巳喜男の下で監督修行をする。成瀬がPCL(後・東宝)に移るのに伴って移籍、東宝で監督に昇進。吉屋信子原作の女性映画『お嬢さん』(1937)でデビュー。これは助監督になってわずか4年の快挙だった。ジイド原作の『田園交響楽』(1938)あたりから本領を発揮し、『翼の凱歌』(1942)など軍の戦意高揚映画なども撮っていた。戦後になって日本共産党に入党、東宝争議で組合の活動家として知られた。亀井文夫とともに『戦争と平和』(1947)を監督、太平洋戦争を"総括"し、一躍左翼系監督として名を上げる。しかし、組合側の首謀者として会社と対立し解雇されてしまい、以後は独立プロで作品を発表していく。権威主義に立ち向かう反骨精神をもって骨太な社会告発映画を次々と発表した。代表作に軍隊の非人間性を描き、木村功の名演が光る『真空地帯』(1952)、社会派作家徳永直原作の『太陽のない街』(1954)、貧しい農村に力強く生きる女たちを描く『荷車の歌』(1959)、市川雷蔵を主役に据え、忍者を題材に組織の不条理や封建制度の矛盾を衝いた『忍びの者』 (1962)、続く『続・忍びの者』(1963)、鉄道の利権をめぐる男たちの野望を描く『傷だらけの山河』(1964)、医学界の利権と権威主義を告発し大きな話題を呼んだ『白い巨塔』(1966 田宮二郎の代表作となった)などを経て、日本映画界の金字塔となった戦争叙事詩『戦争と人間』(五味川純平原作 第一部1970〜第三部1973)、以降はさまざまな業界や政治を操る人たちの野望と抗争、取り巻く人々の愛憎劇を織り混ぜた作品を連発する。『華麗なる一族』(1974)では鉄鋼業界を、『金環蝕』(1975)ではダム建設の巨額な利権に群がる政財界の男たちを、『不毛地帯』(1976)ではロッキード事件をモデルに軍事産業を描いた。続く『皇帝のいない八月』(1978)では自衛隊において革命を試みる青年たちを、『あゝ野麦峠』(1979)は過酷な条件の下でけなげに働く女工たちの哀愁を描いた。山本薩夫が偉大なのは、どの作品にも社会主義的思想を通しながら、それを娯楽的要素の中に盛り込み、虐げられ苦しむ庶民の視点からダイナミックに描いた点である。師匠成瀬ゆずりの繊細な人間描写にも定評があり、俳優陣からも多く尊敬を集めた。時代劇や戦争映画など、映画のジャンルは問わずそれができた日本映画界においても稀有な演出家であった。作風から「赤いデミル(パラマウントの名監督)」と呼ばれた。
自叙伝に『私の映画人生 (1984年)』、作品論に『山本薩夫演出の周辺』がある。
黒澤明については特集ページをご覧ください。受賞記録はこちら。 
本多猪四郎
(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)『ゴジラ』『モスラ』他東宝特撮の数々の名作を撮ったことで知られる。山形出身。小3の時一家で東京に移住。新設されたばかりの日大芸術学部映画学科を卒業後1933年にPCL(東宝の前身)に入社。山本嘉次郎成瀬巳喜男の助監督につく。黒澤谷口千吉とは助監督仲間で親友だった。山本監督の『エノケンのちゃっきり金太』、山中貞雄監督の『人情紙風船』に応援として参加した。
しかし、戦争中は何度も召集され9年間も中国戦線に従軍するなどしたため、監督昇進は遅れてしまった。アイルランドの孤島での暮らしを描いたロバート・フラハティ監督のドキュメンタリー映画の傑作『アラン』(1934)に心酔した本多はこの作品に強い影響を受けた『青い真珠』(1951)で監督デビューした。この作品は伊勢志摩の海女を主人公に、海での暮らしや恋を描いたもので、美しい水中撮影が当時大きな話題になった。続いて鹿児島の火山灰地で起こる地盤沈下と戦う人たちを描く『南国の肌』(1951)を撮った。いずれも現地に住み込んで、土地の人々と実際に交流しつつ脚本を練ったもので、これらの経験が後の数々の怪獣映画でリアルな場面設定に役立った。他の怪獣映画の演出家との違いは、やはりこれらドキュメンタリータッチの作品で培ったリアリティ描写と、彼の作品に必ずと言ってよいほど登場する「自己犠牲」の精神と、巨大な敵や運命に打ちひしがれて絶望感ただよう人物。これらが絶妙に作品に奥深さを与えている。これは中国での過酷な戦争体験も強く影響されているといわれている。因みに『ゴジラ』が最初に上陸する「大戸島には、かつて海神に生贄を捧げたという伝説がある」という設定だが、伊勢志摩でロケされている。
1953年、特撮監督円谷英二とのコンビで、大河内傳次郎、三船敏郎三國連太郎ら主演で山本五十六の激動の半生(真珠湾攻撃から死まで)を描いた戦争大作太平洋の鷲を監督、以後、円谷との名コンビで怪獣映画やSF映画の一時代を築いた。『ゴジラ』以外では『モスラ』(1961)、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』地球防衛軍(1957)、美女と液体人間(1958)、ガス人間第1号(1960)、マタンゴ(1963)、怪獣大戦争(1965)、緯度0大作戦(1969)などがあり、世界でも良く知られている。
晩年は黒澤明監督の『影武者』(1981)以降監督補佐という形で参加した。本多を尊敬している大林宣彦監督の『漂流教室』、『異人たちとの夏』に特別出演している。
自伝に『本多猪四郎―「ゴジラ」とわが映画人生』、作品紹介・全集に『本多猪四郎全仕事』、『グッドモーニング、ゴジラ―監督 本多猪四郎と撮影所の時代』など。
公式サイト
吉村公三郎
(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)滋賀県生まれ。新聞記者だった父とともに幼い頃に東京に移住(父は後の広島市長)。1929年親戚の伝で松竹蒲田に入社し、島津保次郎らに師事。従軍などを経て1934年、高峰秀子が主役のナンセンス短編喜劇『ぬき足さし足・非常時商売』で監督デビューしたが失敗に終わり、しばらく同じ島津門下生の五所平之助豊田四郎成瀬巳喜男の助監督を務める。同門の木下恵介脚本の『五人の兄妹』を手堅くまとめた後、島津が東宝に移籍したため師の企画が回ってきた。彼が引き継いで作った『暖流』(1939)は大胆なカット割で格調高く仕上がり、大ヒット。一躍注目を浴びる。戦後は終生の同志となる新藤兼人と出会い、最高傑作といわれる『安城家の舞踏会』(1947)を発表、監督としての地位を固める。その後吉村は『偽れる盛装』、新藤は『愛妻物語』を企画したが松竹が難色を示したため常連俳優だった殿山泰司を誘って独立プロの近代映画協会を設立した。1951年に『偽れる盛装』で毎日映画コンクール監督賞を受賞している。なお、この年には松竹大船撮影所に見学に来ていた岸恵子をスカウトした。以後、1952年には監督した『源氏物語』がカンヌ国際映画祭に出品され、杉山公平が撮影賞を受賞している。
著書は多数で自叙伝『キネマの時代―監督修業物語』、『映画のいのち―私の戦後史』、『映像の演出』、京都についてのエッセイをまとめた『京の路地裏 (岩波現代文庫)』など多数がある。伝記などは『映画のいのち―伝記・吉村公三郎』など。
安城家の舞踏会
家城巳代治
(いえき みよじ、明治44年(1911年)9月10日 ? 昭和51年(1976年)2月22日)脚本家としても活躍。東京都出身。東京帝国大学文学部美学科を卒業後1940年、松竹大船に入社。五所平之助と渋谷実監督に師事した。戦時中出征した渋谷の代わりに『激流』(1944)を監督。炭鉱で働く石炭政策を描いた国策映画だった。戦後家城はそれを恥じて組合運動に関わるようになる。美空ひばりの本格的映画デビュー作となった『悲しき口笛』(1949)が大ヒット、一躍注目の監督となる。この映画は単なるアイドル映画ではなく内容もすばらしく、出演した津島恵子は「この映画で初めて演技をしているという手ごたえを感じた」と後に述べている。だが、組合活動が占領軍の逆鱗に触れ、レッドバージに会い、しばらく干されてしまう。フリーとして苦労して撮った『雲ながるる果てに』(1953)は特攻隊員として死んで行った青年たちを描き、右翼からも左翼からも絶賛されたという名作になった。森崎東はこの映画を見て映画監督を志したという。 三國連太郎主演の『異母兄弟』(1957)、『裸の太陽』(1958)、『みんなわが子』(1963)など、親子愛、家族愛、師弟愛などを地味だが真摯な姿勢で堅実に描きヒューマニズムあふれる作品に仕上げた。 生涯に23本の監督作しかないが、いずれも高い評価を得ている。また、活躍の場をテレビに求め、日本テレビドラマ史上に残る名作『渥美清の泣いてたまるか』などの演出でならした。『異母兄弟』はチェコスロバキア映画祭でグランプリ、『裸の太陽』はベルリン国際映画祭青少年向映画賞を受賞した。
未亡人による評伝は『エンドマークはつけないで―映画監督の夫と共に』がある。
異母兄弟
今井正
(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)東京都渋谷に住職の子として生まれる。旧制芝中学校時代よりマルクス主義と映画に傾倒し、1935年、東京帝国大学に進むが検挙数回に及び結局中退。当時「前科者」が入れるのは映画会社くらいだったからという理由でJ・Oスタジオ(現・東宝)に入社する。1939年『沼津兵学校』で監督デビュー。戦中は、日本の武装警官が朝鮮の抗日ゲリラを撃退する『望楼の決死隊』(1943)という数々の戦意高揚映画を製作する。後年今井は「私の犯した最も大きな誤りで深く反省している」と述べている。戦後は 戦後の民主主義を高らかに謳った青春映画『青い山脈』(1949)、 戦争で引き裂かれる男女の純愛を描く『また逢う日まで』(1950)の2本が高い評価を得て大ヒット。今井は黒澤と並ぶ東宝のエース監督として将来を期待された。しかし、『また逢う日まで』を撮った直後に東宝争議が始まり、共産党員だった今井自身は追放されなかったが、朋友亀井文夫や山本薩夫がクビになったので自ら東宝を辞め、私財を投げ打って独立プロを設立した。信じられない話だが仕事がなくてしばらくは廃品回収をして生計を立てたという。 しかし以後の映画は会社の方針に縛られることなく彼の自由な表現で撮ることができ、どれもが高い評価と興行収入をあげる結果となった。
以後は 『どっこい生きてる』(1951)、 『山びこ学校』(1952)、 『ひめゆりの塔』(1953)、 『にごりえ』(1953)、 『ここに泉あり』(1955)、 『真昼の暗黒』(1956 カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭世界の進歩に最も貢献した映画賞受賞)、 『米』(1957)、 『純愛物語』(1957)ベルリン映画祭監督賞受賞、 『夜の鼓』(1958) 『キクとイサム』(1959) 『武士道残酷物語』(1963) 『橋のない川・第一部』モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞受賞、 『戦争と青春』モントリオール世界映画祭エキュメニカル賞受賞、 などを発表。国際的な賞も多数受賞している。特に最盛期に撮った『また逢う日まで』『にごりえ』『真昼の暗黒』『米』『キクとイサム』の5本がキネマ旬報ベストワンとなり、今井は「ベストワン男」と呼ばれた。因みに『青い山脈』は2位、『どっこい生きてる』は5位、『ひめゆりの塔』は7位、『ここに泉あり』は5位、『夜の鼓』は6位と、この時代の日本映画は今井の独壇場といえる活躍だった。
厳しい演技指導は有名で、何度もやり直しをさせられた有馬稲子は自殺したくなったというし、実際交代させられた女優もいる。『真昼の暗黒』は八海事件を元に冤罪をテーマにしたもので、まだ裁判継続中の事件のため最高裁から中止を求めて圧力がかけられたが屈せず映画化を進めた。今井監督の真の偉大さはこのように会社や権力など誰にも阿ることをせず信念を持って映画製作に取り組んだこと。
作品論・監督論は『今井正の映画人生』、『今井正「全仕事」―スクリーンのある人生』。
谷口千吉
(たにぐち せんきち、1912年2月19日 - 2007年10月29日)妻は女優の八千草薫。東京生まれ。赤坂迎賓館の設計者のひとり谷口直貞の息子。早稲田大学在学中より千田是也らのプロレタリア演劇に関わり演出家を目指していた。卒業後助監督としてPCL(東宝の前身)に入社する。ともに山本嘉次郎監督の助監督についていた黒澤明本多猪四郎は親友である。1947年、『銀嶺の果て』で監督デビュー。これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、現在まで高い評価を受けている。『ゴジラ』で有名な作曲家伊福部昭の最初の映画音楽でもある。三島由紀夫の『潮騒』(1954 久保明・青山京子主演)は当初木下恵介が監督する予定だったが、三島の「谷口がいい」の一言で彼が手がけることになったという逸話がある。
新藤兼人
(しんどう かねと、1912年4月22日 - )脚本家としても活躍する現在日本の最長老のひとりで文化勲章受章者である。日本のインディペンデント映画の先駆者である。広島生まれで広島県名誉県民。生涯を「原爆問題」に捧げ、真剣に取り組んだ作品をいくつも発表している。山中貞雄の映画『盤獄の一生』に感銘を受け、映画監督を目指し京都へ。新興キネマで最初美術を担当するが、溝口健二の仕事に圧倒され師事、シナリオ修行をする。その後松竹大船に移り、多くの脚本を手がけるが、吉村公三郎監督と出会い、『安城家の舞踏会』が高い評価を受け、まず脚本家として地位を築く。1950年松竹を退社し、吉村、俳優殿山泰司らと独立プロ近代映画協会を設立、病死した糟糠の妻を描いた『愛妻物語』(1951)で監督デビュー。この時妻を演じた女優乙羽信子が生涯の伴侶となる。また、脚本を手がけた吉村の『偽れる盛装』が大ヒットし、吉村=新藤コンビは映画界の黄金のコンビとして知られた。最初に核兵器問題を取り上げた『原爆の子』を1952年に発表、この作品は世界で公開され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリ、エディンバラ国際映画祭脚本賞・名誉賞、英国アカデミー賞国連平和賞などを受賞。続くビキニの被爆問題を描いた『第五福竜丸』(1959)ともども世界に衝撃を与えた。また1960年には一切台詞がなく、ほとんど殿山・乙羽しか出ていない『裸の島』はモスクワ国際映画祭グランプリなど国際的に高い評価を得た。国際的賞を受けた作品の詳細はこちら。この他連続拳銃発砲事件の犯人永山則夫死刑囚を題材にした『裸の十九才』(1971 モスクワ映画祭金メダル賞)、「老い」をテーマとした『午後の遺言状』など社会問題、人間の根源にある欲望や死などを描く作品は定評がある。また脚本家として木下恵介成瀬巳喜男家城巳代治川島雄三今井正三隅研次鈴木清順市川崑らの作品を支えた。
著書は多数。シナリオ作成・映画演出のテキストとして『シナリオ人生 (岩波新書)』、『シナリオの構成』、『』、『映画つくりの実際 (1979年)』など。映画監督・俳優の評伝に『ある映画監督―溝口健二と日本映画 (1976年)』、『小説 田中絹代』、『女の一生―杉村春子の生涯』、『三文役者の死―正伝殿山泰司 (岩波現代文庫)』、『追放者たち―映画のレッドパージ』など。老人問題などは『うわっ、八十歳』、『現代姥捨考』、『午後の遺言状』、『新藤兼人の大老人』、『いのちのレッスン (seisouノンフィクション)』など。作品論などは『新藤兼人―人としなりお』がある。
新藤兼人アンソロジー(1)

木下恵介
(きのした けいすけ、1912年12月5日 - 1998年12月30日)脚本家としても活躍。実弟に作曲家の木下忠司、実妹に脚本家の楠田芳子がいる。1930年松竹蒲田入社。島津保次郎らに師事。 
中村登
(なかむらのぼる、1913年8月4日 - 1981年5月20日)東京都出身。『古都』『智恵子抄』で二度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。 
市川崑
(いちかわ こん、1915年11月20日 - 2008年2月13日)
東宝京都スタジオでアニメーターをつとめ、1945年人形劇『娘道成寺』でデビュー。東宝東京撮影所から、東宝争議のなかで新東宝撮影所に転じ、のちにまた東宝に復帰した。この時期は『プーサン』(1953)や『億万長者』(1954)などの異色風刺喜劇や、大胆な映像処理の『盗まれた恋』(1951)などの実験的な作品、『三百六十五夜』(1948)のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。
1955年には日活に移籍。『ビルマの竪琴』(1956)で一躍名監督の仲間入りを果たし、さらに大映に移籍。文芸映画を中心に、『日本橋』(1956)、『炎上』(1958)、『鍵』(1959)、『野火』(1959)、『ぼんち』(1960)、『黒い十人の女』(1961)、『破戒』(1962)、『私は二歳』(1962)、『雪之丞変化』(1963)など名作を毎年のように発表して地位を確立した。とりわけ1960年の『おとうと』岸恵子主演)は、大正時代を舞台にした姉弟の愛を、宮川一夫のカメラ、“銀残し”という特殊な手法で美しく表現、キネマ旬報ベスト1に輝いた。 黒澤明から引き継ぎ斬新な手法を試みた記録映画『東京オリンピック』(1965)では「記録か芸術か」論争を巻き起こしたが、2千万人の観客動員、当時の興収23億は邦画の歴代最高を記録した。
その黒澤、木下恵介小林正樹とは四騎の会を立ち上げ、日本映画界に新しい風を起こそうと試みた。(後に4人が書いた『どら平太』(2000 役所広司主演)を監督)
70年代には角川春樹のメディアミックス商法と組んで、『犬神家の一族』(1976)など横溝正史原作の映画を石坂浩二主演で次々と発表し、いずれも大ヒットを記録した。
以後は日本映画屈指の巨匠として大作映画『細雪』(1983)、『鹿鳴館』(1986)、『忠臣蔵 四十七人の刺客』(1994)、『八つ墓村』(1996)などオールスターを配した作品を手がけている。また、テレビでも手腕を発揮し、中村敦夫主演の『木枯し紋次郎』シリーズ(1972)やCMの演出なども行った。
国際的な賞を受賞した『ビルマの竪琴』『鍵』『東京オリンピック』の他、2000年のベルリン国際映画祭特別功労賞、文化功労者など数々の名誉ある賞を受賞。
寝ている時以外は煙草を放さないヘビースモーカー。2008年2月13日肺炎のため死去。92歳。自身のリメイク作『犬神家の一族』(2006)が遺作になった。多くの市川作品で脚本を手がけている和田夏十は亡妻(正確には市川監督との共同ペンネーム)。
好奇心とチャレンジ精神が旺盛で失敗を恐れない、何でもやってみるという姿勢には本当に頭が下がる。フィルモグラフィでも分かるとおり、やっていないジャンルが無い!『火の鳥』(1978)ではアニメと実写の合成までやっている。これほどオールマイティな人はさすがに稀有。そのかわり、駄作も無いわけではないが。編集の達人として知られていて、細かいカットバックはトレードマークのひとつ。大ヒットした『子猫物語』(1986)では協力監督としてクレジットされているが、ほとんど彼の再編集によって「映画」になった。僕の先輩がCM製作で市川監督と仕事した時に聞いた話だが、撮影が終わり、編集作業に入った時、監督から急に「こういうフーテージ(映像の一部分)が欲しい」と言われ、苦労して探してきた。出来上がったCMではそのフーテージは1秒くらいしか使われていなかったが、その高い編集効果にスタッフ皆が驚愕し大感動したそうである。
光と嘘、真実と影―市川崑監督作品を語る』各界の関係者が語る市川監督の分析本。
小林正樹
(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)北海道小樽市に会社員の息子として生まれる。大女優田中絹代の従弟に当たる。早稲田大学文学部哲学科で会津八一に東洋美術を学ぶ。1941年、松竹大船受験の際田中絹代に紹介を依頼するが「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、結局田中の縁者であることを隠し通して試験に臨んだ。入社はできたもののすぐに満州に出征。宮古島で終戦を迎え捕虜生活を経て1946年に復帰した。この時の経験は「戦争の真の犠牲者は、無辜の受難よりも加害者にならざるを得なかった者により大きい」と後に述べたように小林に大きな影響を与え、戦争を描く上で重要な主題となった。松竹では木下恵介の助監督につく。『からみ合い』(1962年)英国アカデミー賞国連平和賞  
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加藤泰
(かとう たい、1916年8月24日 - 1985年6月17日)中学を中退。叔父山中貞雄を頼って1937年東宝撮影所に入社。八木保太郎に師事し、理研映画、満州映画協会を八木とともに転々とし、中国大陸などで戦争記録映画などを作る。帰国後1947年に大映京都に移籍した。大映では主に伊藤大輔についた。「客員」監督としてやって来た黒澤明監督の『羅生門』では助監督につくが、大喧嘩をしたことは有名。それでも加藤の作った予告編は今なお傑作の呼び名が高い。ノーメイク・ローアングルという画期的なスタイルで撮った時代劇で一世を風靡。また後には任侠映画の監督として活躍。代表作に『沓掛時次郎 遊侠一匹』、『明治侠客伝 三代目襲名』、『緋牡丹博徒』シリーズなどがある。 
川島雄三
(かわしま ゆうぞう、1918年2月4日 - 1963年6月11日)青森県下北郡田名部町(現在のむつ市。恐山がある)生まれ。ユニオシの明治大学映画研究部の大先輩である(もちろん時代が全然違うので面識はないが)。当時の映研の部長は後に横浜市長・社会党委員長になる飛鳥田一雄で、川島は飛鳥田に大きな影響を受けている。本人の言ではこの当時映画監督で影響を受けたのは伊丹万作山中貞雄小津安二郎。映研では第一線で働く映画監督やスターを招いて座談会をよくしていた。島津保次郎や渋谷実、吉村公三郎監督が招かれた時、川島部員は監督に執拗に食い下がりいろいろ毒づいて監督らを閉口させた。大学卒業後、松竹大船監督部に合格(およそ2000人の応募者中合格者8人の中のひとり)。この時、川島は飛鳥田に入社すべきか相談している。飛鳥田は華奢な川島が務まるまいと反対したという。しかし川島は入所し、助監督としてついた監督は島津保次郎、渋谷実、吉村公三郎だった。小津安二郎、木下恵介、大庭秀雄、野村浩将の『愛染かつら』などの助監督を経て、1944年織田作之助原作の『還って来た男』で監督デビュー。その後は松竹→日活→東京映画(東宝系)→大映出向と映画会社を転々としながら、いわゆるプログラム・ピクチャーを量産しつつ珍作・怪作の中にキラリと光る傑作も作った。文芸物、スラップスティック、人情喜劇、ブラックユーモア、悲劇、メロドラマ、風俗や倒錯した性を描くものなど、あらゆるジャンルを手がけ、「日本軽佻派」「乱調の美学」「積極的逃避」等が川島を評するキーワードになっているが、どの作品にもアイロニーと独特の陰翳が含まれており、それがカルト的な人気を呼んだ。小沢昭一の言を借りれば「およそ何が嫌いってパターンというものが嫌い」。「型にはまらない人間の複雑さや怪奇さ矛盾さを描きたかった人だ」という。作品には他者があまり描写しない"便所"がよく登場するし、「用意、スタート』の合図の代わりに笛を吹くなどエキセントリックな演出ぶりも伝説になっている。撮影中の映画のあまりの内容のひどさに助監督についていた愛弟子の今村昌平が「なぜこんな映画を作るんですか?」との問いに「生活ノタメデス」と答えたのも有名な話。
脇役のキャラ設定も独特で本筋とは無縁なのに凝ったものも多い。井上靖原作の『あした来る人』では三國連太郎は魚(カジカ)オタクだし、時代劇『幕末太陽伝』の番頭はハーフ(岡田真澄)だし、極めつけはまともな人が一人も出て来ない『貸間あり』で、猫を殺して佃煮にしてしまう益田喜頓など、原作者井伏鱒二は試写でこれを見て「どぎつく、きたない」と酷評したほど。井伏文学が大好きだった川島は「汚さの中の悲しみを描きたかったのが理解されず辛かった、この作品の後酒の量が増えた」などと述べている。また一方、『夜の流れ』(1960)は何と名匠成瀬巳喜男との共同演出作品であるが、いかにも成瀬の得意なしっとりとした場面が実は川島演出だという。日活では本人が一番好きだという『洲崎パラダイス 赤信号』、と世間でいう最高傑作『幕末太陽傳』などの傑作を残し、大映では若尾文子を主役に据えた『女は二度生まれる』『雁の寺』『しとやかな獣』の三作品は特に評価が高い 。
今村昌平浦山桐郎、藤本義一(当時脚本家)、野村芳太郎、柳沢類寿、俳優三橋達也、小沢昭一、加藤武、桂小金治、山茶花究、フランキー堺らを育てた。筋萎縮性側索硬化症という難病に冒され背骨が曲がり右手右足が動かず、苦しみながらの監督人生だったが、自宅で次回作『寛政太陽傳』用の江戸の風俗資料を広げたまま眠るように死んでいた。45歳。この映画で主人公写楽を演じるはずだったフランキー堺は、後に自ら『写楽』(1995 篠田正浩監督)を製作・出演し、永年の念願を果たした。川島は誰にも真似ができない独自な作風と人間性を持ち誰からも愛された稀な監督であった。「あゆみの箱」は森繁久彌ら所縁の人間が川島のような難病で苦しむ人たちのために作ったボランティア活動である。川島の口癖でもあった「サヨナラだけが人生だ」は故郷青森の記念碑に刻まれている(文字は森繁)。日活のサイト
参考書:今村昌平の『サヨナラだけが人生だ―映画監督川島雄三の一生』は川島本人が自作についてや生い立ちなどを語る章や、『幕末太陽傳』のシナリオ、関係者による寄稿が多数で最も役立つ本。藤本義一の『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』、柳沢類寿の『柳よ笑わせておくれ』など。作品集は『花に嵐の映画もあるぞ』、作品論・作品紹介・監督論他は『川島雄三 乱調の美学』など。また、桂小金治の自伝・エッセイ『江戸っ子の教訓』には川島に関する思い出が綴られている。
↑黒澤も絶賛した作品。落語話をいくつか再構成した脚本がまず秀逸。役者陣の演技は言うに及ばず、編集を含めたテンポ・歯切れの良さは日本映画随一。この作品後川島は日活を去るが、その時「これからは石原裕次郎の時代になる」という予言を残している!僕が学生時代映画館で見た時、上映後観客から拍手が沸き起こった。そんなのは初めてだった。
野村芳太郎
(のむら よしたろう、1919年4月23日 - 2005年4月8日)京都府出身。父は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた野村芳亭。松竹の社宅で育った芳太郎は慶應義塾大学文学部卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。一時出征するが戦後の1946年に復員後、川島雄三黒澤明らの助監督を務め、1952年に『鳩』で監督デビューした。松本清張原作・橋本忍脚本作品で名を上げた。後に松本と組んで霧プロを設立。参考書として→清張映画にかけた男たち [ 西村雄一郎 ]がある。 
田中徳三
(たなか とくぞう、1920年9月15日 - 2007年12月20日)大阪市船場出身。関西学院大学文学部卒、1948年大映入社。伊藤大輔溝口健二らに師事し、助監督を勤めた後に、1958年の『化け猫御用だ』で監督デビュー。勝新太郎主演の『悪名』シリーズ、『兵隊やくざ』シリーズなどの人気作のメガホンを取る。続・悪名 
続・悪名
三隅研次
(みすみ けんじ、1921年3月2日 - 1975年9月24日)京都市生まれ。幼い頃からの映画マニアで伊藤大輔の『忠治旅日記』や阪東妻三郎の映画に夢中になっていた。1941年日活京都に入社。応召されシベリア抑留を経て戦後大映京都に復帰した。『婦系図』がリアルな人物描写と大映が誇る美術・撮影の美しさで評判を得る。大映の最盛期を支えた『座頭市』『眠狂四郎』シリーズ、『キル・ビル』にも影響を与えた『子連れ狼』シリーズなどを手がけている。 
鈴木清順
(すずき せいじゅん、1923年5月24日 - )俳優としても活躍。日本橋の老舗の呉服屋の長男として生まれ、元NHKアナウンサーの鈴木健二は弟である。旧制弘前高校在籍時に学徒出陣で出征。東南アジア戦線を経験。戦後復員して鎌倉アカデミア映画科に学び松竹に1946年に松竹に入社した。1954年に日活に移籍し、小林旭、高橋英樹、宍戸錠、渡哲也、松原智恵子らを主演に迎えた作品を多く手がけた映画全盛期を支えた看板監督だった。1968年 『殺しの烙印』が当時の日活の上層部(堀久作社長)から訳がわからんとの理由で解雇された。この時鈴木を支持する学生や映画人、ジャーナリストらが「鈴木清順共闘会議」を結成し、日活と裁判で争うことになった。『殺しの烙印』は現在でもカルト映画としても人気があり、世界的に評価も高い。しかし鈴木はしばらく本編からは干され、CMやテレビ、ラジオドラマの演出、著作の出版などで活躍した。藤田敏八を主役にした『ツィゴイネルワイゼン』松田優作主演の『陽炎座』沢田研二主演の『夢二』などでは幽遠な映像美を見せた。その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれる。『ツィゴイネルワイゼン』で、ベルリン国際映画祭審査員特別賞受賞。 最新作はチャン・ツィイーをヒロインにした『オペレッタ狸御殿』。 「脚本くずし」で知られ、ピンとこないところがあれば、その場で全取替えも辞さないのは日活時代からで、現場のスタッフ・キャストを泣かせたという。僕は『けんかえれじい』の軽妙洒脱な感じや『東京流れ者』の真っ白なキャバレーのセットでの銃撃戦、『キル・ビル』にも影響を与えた、『関東無宿』の、障子が倒れると血のような夕焼けが現れるヤクザの出入りシーンなど伝説のシュールな映像が大好きです。

新藤兼人の脚本は完璧。間違いなく高橋英樹の最高傑作でもある。
岡本喜八
(おかもと きはち、1924年2月17日 - 2005年2月19日)鳥取県米子市出身。明治大学専門部商科卒業後、1943年に東宝に入社し助監督となる。この時六大学から36人受けて合格したのは3人だけだったという。しかし戦局の悪化に伴い招集され、松戸の陸軍工兵学校に入隊、豊橋陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争に対する大きな憤りを抱く。ジョン・フォード監督の西部劇の傑作『駅馬車』を見て映画界を目指したという岡本は「兵隊のとき夜兵舎のベッドで『駅馬車』のカット割りばかり考えていた」という。復員後、マキノ雅弘谷口千吉成瀬巳喜男らに師事して修行を積み、1958年、『結婚のすべて』で初メガホンを取る。日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた『独立愚連隊』(1959年)で、一躍若手監督の有望格として注目を浴ぶ。「喜八タッチ」と称されるこれまでの日本映画には見られなかった軽快なカット割りとキレのよいアクションで映画ファンを魅了する。また一方、戦中・戦後を描く重厚な作品も作った。『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)、『侍』(1965年)、『日本のいちばん長い日』(1967年)、『肉弾』(1968年)など、常に斬新な手法で幅広い分野の作品を監督。特に『江分利満氏の優雅な生活』や『肉弾』は、岡本と同年代の戦中派の心境を独特のシニカルな視点とコミカルな要素を交えて描いた作品として現在まで高い評価を得ており、監督自身も好きな作品として挙げている。また、『殺人狂時代』(1967年)はカルトムービーとしてマニアの間で今なお評判を呼んでいる。東宝退社後の1970年代後半からは、自身のプロダクションである喜八プロや三船敏郎の三船プロ、ATG、大映などと組んで『ダイナマイトどんどん』『ブルークリスマス』(1978年)、『近頃なぜかチャールストン』(1981年)、『ジャズ大名』(1986年)などを手がけた。『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)では日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞。侍が登場する西部劇という『EAST MEETS WEST』(1995年)など、晩年はSF、時代劇、コメディなど異色の娯楽作を発表した。
「喜八一家」とも言われる、少し癖のある実力派俳優佐藤允、草野大悟、寺田農、天本英世、岸田森、中谷一郎らを重用し育てた。東宝を退社してからはみね子夫人が製作者として支えていた。
増村保造
(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1986年11月23日)山梨県甲府市出身。幼児から映画マニアで伊藤大輔の『薩摩飛脚』がお気に入りだった。東京帝国大学法学部では三島由紀夫の先輩。学生時代は戦争の真っ只中、稲垣浩の『無法松の一生』と黒澤の『姿三四郎』を繰り返し見ていたという。戦後大映に入社するも東大文学部に再入学する手続きをしていたため卒業まで大学と撮影所を行き来していた。その後イタリア・ローマの映画実験センターに留学、世界の映画を研究し55年に大映に助監督として正式に復帰した。溝口健二市川崑らに師事、57年『くちづけ』で監督デビュー。日本映画ばなれした作風で注目を浴び、大島渚ら松竹ヌーベルバーグの若手監督らを大いに刺激した。以後『暖流』『氷壁』『妻は告白する』『清作の愛』『卍』『大地の子守唄』『曽根崎心中』など女性を主人公にした凄まじい情念を描く作品が得意な作家。若尾文子ら多くの女優を育てた。一方、『巨人と玩具』『黒の試走車』などの社会風刺劇におけるユーモアやサスペンス映画のシャープさも持ち合わせ、後にシリーズ化される『兵隊やくざ』『陸軍中野学校』の礎を築いている。晩年は山口百恵の「赤いシリーズ」など大映テレビシリーズの演出で活躍した。イタリアに渡ってオールイタリア人キャストで撮った『エデンの園』という映画もある。
松山善三
(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - )脚本家としても活躍する。神戸生まれ横浜育ち。岩手の医科大を中退。雑誌社でアルバイトをしているときに、斎藤良輔門下の脚本家と知り合い、映画に興味を持つ。1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社、中村登吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表する。それが、木下恵介に認められ、1950年の『婚約指輪』で木下監督につき、次の『カルメン故郷へ帰る』からは、シナリオに携わった。この「木下学校」の兄弟子に小林正樹や川頭義郎がいる。1954年『荒城の月』(川口松太郎原作)で脚本家デビュー以後、成瀬巳喜男川島雄三、渋谷実監督らの作品の多数の脚本を手がける。特に小林正樹の『人間の條件』シリーズは高く評価されている。監督としてはヒューマニズムと叙情性があふれる作風に定評があり、『名もなく貧しく美しく』(1961)、『戦場にながれる歌』(1965)、『ふたりのイーダ』(1976)、『虹の橋』(1993) などがある。た岸恵子主演の『忘れえぬ慕情』(1956年)、『人間の証明』の脚本も手がけている。妻は女優の高峰秀子。
今村昌平
(いまむら しょうへい、1926年9月15日 - 2006年5月30日)脚本家としても活躍。東京出身。父親は開業医。早稲田大学第一文学部卒業。松竹に入社するが、日活が映画製作を開始することになり、師匠川島雄三について日活に移籍した。僕は『ええじゃないか』のエキストラをやった。長男・天願大介も映画監督になった。日本映画界屈指の世界でよく知られる映画監督である。 
羽田澄子
(はだ・すみこ 1926年-) ドキュメンタリー映画監督。 1926年、旧満州(中国東北部)大連生まれ。自由学園高等科卒業後、恩師である羽仁説子の紹介で、1950年に岩波映画の設立とともに入社。羽仁進監督の助監督についた後、1957年『村の婦人学級』で監督デビューして以来、90本を超すドキュメンタリーを手がける。岐阜の樹齢1300年に及ぶ桜を4年かけて撮った『薄墨の桜』(1976年)、フリーになってからの『早池峰の賦』(はやちねのふ・芸術選奨文部大臣賞 1982年)などが代表作。この作品は岩手県の山奥の村に伝わる神楽の記録映画であるが、見ているうちにどんどん映像の中に引き込まれていくような錯覚(トリップ?)に陥った記憶がある。
その他作品に『痴呆性老人の世界』(1986年)、『歌舞伎役者片岡仁左衛門』(1993年)がある。『歌舞伎役者片岡仁左衛門』は全6部、10時間以上に及ぶ力作で、試写会ではさすがの最長老の評論家も具合が悪くなり担ぎ出されたそうだ。
勅使河原宏
(てしがはら ひろし、1927年1月28日 - 2001年4月14日)華道三大流派のひとつ草月流三代目家元、映画監督、舞台美術家。草月流の家元の息子として生まれ、華道はもちろん、茶道、陶器、書・美術、能・歌舞伎など日本の伝統芸能・文化に深い造詣があり、東京芸術大学では油彩画を専攻、西洋美術にも精通した総合芸術家であった。在学中、岡本太郎や安部公房らによる前衛芸術グループ「世紀」に参加、特に安部公房作品の映画化『おとし穴』『他人の顔』『燃えつきた地図』で注目を浴びている。その中の『砂の女』(1964年)はカンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞、米アカデミー賞監督賞・外国語映画賞ノミネートとなった。この他、『利休』(1989年)モントリオール映画祭最優秀芸術貢献賞、ベルリン映画祭フォーラム連盟賞受賞。スペインの彫刻家・建築家のドキュメント『アントニー・ガウディー』(1984)など題材は幅広い。僕が尊敬する人のひとりである。東京・赤坂に草月会館という草月流の総本山のビルがあるが、そこのレストラン「薔薇」で2〜3回おみかけしたことがある。因みに假屋崎省吾は華道での弟子の一人。
勅使河原宏の世界 DVDコレクション
神代辰巳
(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)佐賀県出身。徴兵逃れのために九州帝国大学付属医学専門部に入学するも中退、上京して作家を目指して早稲田大学文学部を卒業。松竹の助監督を経て日活へ移籍。蔵原惟繕、斉藤武市らの助監督を経て、主人公の母娘がストリッパーという『かぶりつき人生』でデビューしたが日活の衰退期とその内容もあってか、一般作としては興業失敗となり、しばらく干されてしまう。しかしまもなく日活はロマンポルノ路線を敷き、それからは実力を発揮。「にっかつ」のエース監督として『一条さゆり・濡れた欲情』(1972年)、『恋人たちは濡れた』(1973年)、『四畳半襖の裏張り』(1973年) など数々の名作を残す。特に、絵沢萌子は、彼の作品の常連女優であった。また宮下順子、萩原健一、桃井かおり奥田瑛二らを育て、多くの脇役俳優たちからも親しまれた。愛称「くまさん」。長谷川和彦が脚本を書いた『青春の蹉跌』(1974)、『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』(1980)、『嗚呼!おんなたち猥歌』(1981)、など一般映画の傑作も多数。最晩年の『棒の哀しみ』(1994)はブルーリボン賞などの映画賞を受賞した。主人公奥田瑛二が刺された腹を自分で縫うシーンは圧巻。

↑中上健次原作。にっかつロマンポルノ史上の最高作だと思う。
蔵原惟繕
(くらはら これよし、1927年5月31日 - 2002年12月28日)文学評論家・蔵原惟人は叔父、映画監督・蔵原惟二は実弟。日本大学芸術学部映画学科在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む。1952年、大学卒業と同時に松竹京都撮影所に入社し、助監督を務める。1954年には日活製作再開に合わせて移籍、滝沢英輔監督に師事した。『俺は待ってるぜ』(1957)で監督デビュー、『爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ』(1959)、『銀座の恋の物語』(1962) など石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子ら大スターを擁した日活の全盛時代を支えた。が、次第に自分の表現を自由に出し、「枠からはみ出した作品」を撮り出し、三島由紀夫原作の文芸大作『愛の渇き』(1967)などの意欲作を発表するが、興行的には失敗し、会社からは干される状態になる。1967年フリーとなって、石原プロの作品などに関わる。この頃から実力を発揮し始め、『キタキツネ物語』(1978)、『青春の門』(1981)、南極物語(1983)、ジョゼ・ジョヴァンニ原案、高倉健主演の『海へ See You』(1988)、三船敏郎マコパット・モリタ主演の『ストロベリーロード』(1991)など話題作・大作を撮った。特に『南極物語』は長く日本の歴代興行記録1位であった。

↑テレビ放映時、視聴率の最高44.7%を記録。
南極物語は興収59億円を記録。この2作を越えたのが『千と千尋の神隠し』
舛田利雄
(ますだ としお、1927年10月5日 - )兵庫県神戸市出身。大阪外国語大学(現・阪大外国語学部)ロシア語学科卒業。新東宝に入社して中川信夫、井上梅次に師事。後に井上梅次とともに日活に移り、助監督を経て1957年監督に昇進。石原裕次郎主演作品や小林旭主演作品を主に、日活アクション映画全盛期に活躍する。いわゆる無国籍映画の基本を作った監督の一人であった。日活退社後は、黒澤明から深作欣二と共に監督の座を引き継いだ日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』をはじめ、『人間革命』、『ノストラダムスの大予言 Catastrophe-1999』、アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト』『二百三高地』等大作映画を任される機会が多くなる。
羽仁進
(はにすすむ、1928年10月10日−)マルクス主義の歴史家の羽仁五郎と、婦人運動家の羽仁説子の間に生まれる。祖母の羽仁もと子が創立した自由学園を1947年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年、岩波映画製作所の設立に加わる。最初は岩波写真文庫の編集などに携わっていたが、1952年に厚生省(現・厚生労働省)がスポンサーとなった『生活と水』で監督デビューする。『絵を描く子供たち』など、記録映画で培った手法は劇映画でも活かされ、プロの俳優は使わず、非行経験のある少年を集めてその経験を即興的に取り入れて撮った『不良少年』(1961)は黒澤の『用心棒』を抑えてキネマ旬報ベストテン1位に選ばれた。その後独立し、アフリカ奥地でロケした1965年の『ブワナ・トシの歌』(主演・渥美清)、寺山修司・脚本の『初恋・地獄編』(1968)などは海外でも高い評価を得た。1970年代半ば以降は、再びドキュメンタリーに戻り、アフリカ、オーストラリアなどに海外ロケを30年続け、主に野生動物を撮りつづけた。教育問題にも取り組み、講演や執筆、テレビのバラエティ番組の出演など幅広く活動をしている。
女優の左幸子は元妻(1959年結婚、1977年離婚。その後羽仁は左の妹と再婚)。女優、タレント、エッセイストの羽仁未央(1964年 - )は、左幸子との間の娘。
土本典昭
(つちもと・のりあき 1928年12月11日-)岐阜県土岐市生まれ。1946年早稲田専門部法科(3年制)入学。日本共産党に入党(〜1957年)、1950年全日本学生自治総連合(全学連)中執の副委員長となり、学生運動に参加、投獄されるなど激しい活動家であった。羽仁進の映画に触発され、1956年岩波製作所と契約、映画の仕事に入る。国鉄PR映画として企画された『ある機関助士』で監督デビュー、高い評価をうける。61年、東陽一小川紳介、鈴木達夫らと映画研究グループ「青の会」を結成。 キューバの国立映画芸術協会と合作した黒木和雄監督作『キューバの恋人』(1969)では製作に当たった。 『水俣 患者さんとその世界』(1971)、『不知火海』(1975)など水俣病問題を題材にしたドキュメンタリーシリーズは世界に大きな衝撃を与えている。
公式サイト
斎藤耕一
(さいとう こういち、1929年2月3日−)東京八王子生まれ。立教大学中退後、東京写真工芸大学(現・東京工芸大学)に入学する。卒業後、1949年、大泉映画(現・東映東京撮影所)にスチルカメラマンとして入社し、今井正の『ひめゆりの塔』で「キネマ旬報スチールコンテスト」で一位入賞する。1954年、日活に引き抜かれ、中平康、今村昌平市川崑など多くの作品のスチルを担当する。石原裕次郎とも親しかった。中平康の『月曜日のユカ』などの脚本も手がける。1967年私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立、同年『囁きのジョー』で監督デビューする。即興演出とボサノバの大胆な使用などで和製クロード・ルルーシュと呼ばれた。以後、『小さなスナック』など松竹の「歌謡映画」などを撮っていたが、1972年、岸惠子と萩原健一主演の『約束』で評価を高め、同年、四国遍歴の旅に出た十六歳の少女を描いた『旅の重さ』、キネマ旬報ベストワンにかがやいた『津軽じょんがら節』(1973)と次々と秀作を発表した。カメラマン出身だけに、レンズの特性を活かしたリリカルな映像・演出が素晴らしい。『津軽じょんがら節』での望遠レンズの使い方には参りました。
五社英雄
(ごしゃ ひでお、1929年2月26日 - 1992年8月30日)脚本家、TVプロデューサーとしても活躍。東京都出身。明治大学商学部卒業。ニッポン放送を経て、フジテレビへ。時代劇を中心に多くの傑作ドラマを手がけ、フジの看板ディレクターになる。時代劇『三匹の侍』丹波哲郎、平幹二郎、長門勇主演)ではテレビで初めて人を斬る音を加え、大きな衝撃を与えた。『人斬り』『雲霧仁左衛門』などフジと松竹や勝プロとの合作映画も手がけた。独立しようとした時、鹿内信隆社長が必死に慰留した話は有名。だが、本人は1980年に銃の不法所持で捕まりフジをクビになった。フリーになってからは劇場映画の監督として数々の傑作を残した。『鬼龍院花子の生涯』(1982)、『陽暉楼』(1983)、『極道の妻たち』(1986)、『吉原炎上』(1987)など、歴史の中で男に翻弄されながらも情念を持って生き抜く女性を力強く描いた作品で高い評価を得た。夏目雅子、名取裕子、かたせ梨乃、樋口可南子ら女優育ての名人としても知られる。樋口可南子主演の『陽炎』(1991)は天童荒太(本名名義)原作である。丹波哲郎の親友であり、自伝『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』にはその交流が描かれている。
浦山桐郎
(うらやまきりお、1930年5月14日−1985年10月20日)生涯監督したのはわずか9本という寡作で知られたが、そのうち5本がキネマ旬報ベストテンに入るという、日本映画を代表する名監督。女優吉永小百合、和泉雅子、大竹しのぶ、藤真利子らを育て尊敬を集め続けたが、酒色への耽溺も有名でその毀誉褒貶と人物像は映画評論家田山力哉による伝記『小説 浦山桐郎―夏草の道』、ドキュメンタリー作家原一男による『映画に憑かれて 浦山桐郎―インタビュードキュメンタリー』に詳しく描かれている。兵庫県相生市生まれ。名古屋大学文学部仏文学科を卒業。松竹の助監督応募に募集し落第。この時、大島渚は合格し、山田洋次はおちる。その時の試験官だった鈴木清順に誘われ、日活の入社試験を山田と共に受け、山田は合格するが松竹に補欠合格し松竹に行ったため、浦山は補欠合格となり1954年に助監督として入社したという因縁があった。川島雄三今村昌平らの監督について修行。1962年、吉永小百合主演の『キューポラのある街』(早船ちよ原作)で監督デビュー。鋳物の町川口に暮らす貧しい若者の生き方を描いたこの作品は大好評となり、日本映画監督協会新人賞、キネマ旬報ベストテン第2位など高い評価を受けた。
1963年には『非行少女』(和泉雅子主演)を撮り、モスクワ国際映画祭金賞を受賞。その後はじっくりと作品に取り組む姿勢をとり、飛び降りシーンなど、シュールな演出を試みた『私が棄てた女』(1969 遠藤周作原作)、日活を離れフリーとなってからは、大竹しのぶのデビュー作となった『青春の門』、『青春の門・自立篇』、テレビドラマ『飢餓海峡』などを演出する。また、アニメーション『龍の子太郎』、灰谷健次郎原作の『太陽の子 てだのふあ』と子ども向けの作品にも精力を注ぐ。1983年には古巣にっかつのロマンポルノ、木村理恵主演の『暗室』を発表して話題を呼ぶ。妥協をしない芸術家肌で、確信をもって取り組むテーマを選ぶ姿勢は評価されたが、さすがに時間がかかり、寡作となる原因となった。『夢千代日記』(吉永小百合主演)を完成させた1985年、急性心不全により死去。脚本家・石堂淑朗は葬儀委員長・今村昌平から、生前の浦山の女性遍歴の豊かさから、「今日、どんな女が来るかわからないから、しっかり見張れ」と命じられたという。 『青春の門』『青春の門 自立篇』は必要以上に貧困や差別を描いたり様々なアプローチが見られた。清純派で通して来た吉永小百合が初めて大胆な演技を見せるなど意欲的に取り組んだ作品だったが、原作者五木寛之が不満を漏らしたといわれ以後浦山でののシリーズ化がなされなかった。
当時僕が担当した、知られざるVシネマ『ふれんず・らぶ』(芦川よしみ主演)という傑作もある。

↑女優吉永小百合の出世作である。
熊井啓
(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)昭和を代表する社会派の映画監督。長野県生まれ。新制の信州大学文理学部卒学。関川秀雄監督の誘いで独立プロの助監督を経て1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。1964年、帝銀事件を描いた『帝銀事件・死刑囚』で監督デビュー。1968年には、三船敏郎の三船プロダクションと石原裕次郎の石原プロモーションが共同制作した超大作『黒部の太陽』を監督。製作は五社協定が支障となり難航し、熊井自身も1969年に日活を退社するが、興行的には大ヒットとなる。1970年からはフリーになり、『忍ぶ川』(1972年)、1974年には田中絹代が元「からゆきさん」を演じてベルリン国際映画祭主演女優賞を受賞した『サンダカン八番娼館 望郷』など重厚なドラマを作り上げた。取り上げるテーマは幅広く、GHQの謀略もの『日本列島』(1965)をはじめ、僧鑑真の渡来を描く『天平の甍』(1980・井上靖原作)、仲代達矢主演で戦後の怪事件を取り上げた『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981)、戦中米兵に対して行われた生体解剖事件を描いた『海と毒薬』(1986・遠藤周作原作)でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)を受賞した。利休の死の謎を探る『千利休 本覺坊遺文』(1989・井上靖原作)ヴェネチア映画祭監督賞、シカゴ映画祭銀賞、カニバリズムを扱った『ひかりごけ』(1992年)、「松本サリン事件」を題材にした『日本の黒い夏 冤罪』(2001)ベルリン国際映画祭国際功労賞など、問題作、社会に衝撃を与えた作品が多数で国際的に高く評価されている。(受賞記録はこちら)。遺作は黒澤明監督が撮る予定だったものを引き継いだ『海は見ていた』(2002)。
熊井啓は『忍ぶ川』の時、完成試写に黒澤を招き、隣に座って見てもらった。「監督試験の答案を偉大な試験官に見てもらっているようで針の筵の上に座っているようだった」という。映画中加藤剛と井川比佐志(兄弟役)が別れるシーンは黒澤と黒澤の自殺した兄の別れからいただいたもので途中で気づいて愕然としたが停めるわけにも行かず。だが、見終わった黒澤は「おめでとうよかったね」と握手してくれた。その時の手のぬくもりは一生忘れないという。


熊井啓という人間の魅力を親交厚かった西村雄一郎が描ききった名著
ぶれない男 熊井啓
深作欣二
(ふかさく きんじ、1930年7月3日-2003年1月12日)茨城県水戸市出身。妻は女優の中原早苗。映画監督の深作健太は実子。仲間からの愛称は「サクさん」。1953年、東映に入社。 1961年、『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』千葉真一主演)で監督デビュー。『誇り高き挑戦』(鶴田浩二主演)で注目される。以後、『ジャコ萬と鉄』(黒澤明脚本)、『軍旗はためく下に』などの秀作を発表。 1973年から始まった『仁義なき戦い』(脚本笠原和夫、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり「実録やくざ映画」の第一人者の地位を不動のものとする。その後もテレビドラマ『傷だらけの天使』、映画『柳生一族の陰謀』ビートたけし出演の『バトル・ロワイアル』などジャンルを選ばない創作意欲はまったく脱帽もので、発表する作品の多くが話題作となっている。 アクション映画の監督と見られがちであるが、小松左京原作の『復活の日』、檀一雄原作の『火宅の人』、宮本輝原作『道頓堀川』(1982)、つかこうへいの戯曲『蒲田行進曲』(1982)を映像化するなど、取り上げるテーマは幅広い。菅原文太、千葉真一真田広之らを一流の俳優にし、また、ピラニア軍団と呼ばれた東映の大部屋俳優の室田日出男、川谷拓三、志賀勝ら新しい才能を発掘したことでも大きな功績があった。黒澤明から引き継いだ『トラ!トラ!トラ!(1970・舛田利雄と共同)、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』『宇宙からのメッセージ』は米国でも公開された。
また晩年の『バトル・ロワイアル』はフランスやイギリスなど海外でも注目をひき、特に香港では興行成績1位を記録、ジョン・ウーやタランティーノ『キル・ビル』にも影響を与えた。
仁義なき戦い

↑とにかくこれを見なければ始まらない。出てくる役者たちは脇役のひとりひとりまでベストアクトだし、手持ちカメラのぶれまくり構わずの斬新な映像など、この映画以前の東映やくざ映画との違いは歴然!
黒木和雄
(くろき かずお, 1930年11月10日 - 2006年4月12日 )宮崎県えびの市生まれ。少年時代を満州で過ごす。同志社大学卒業後、岩波映画製作所に入社、土本典昭らに師事。フリーになってからは、1966年、初の劇映画『とべない沈黙』を発表、注目を浴びる。土本典昭の製作で『キューバの恋人』(1969)などを監督。70年代はATGを中心に作品を発表。『竜馬暗殺』(1974)は幕末という舞台を借りた青春群像映画であり、続いて作られた『祭りの準備』(1975)は脚本家中島丈博の半自伝的物語で郷里と人間のしがらみの中で苦悩する青年を描いた。その後テレビシリーズなどを手がけ、劇場用映画を撮る機会が少なくなっていたが、80年代後半以降『TOMORROW 明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』を続けて監督、戦争レクイエム三部作と呼ばれ高く評価された。
敬愛していた山中貞雄監督の伝記映画を企画していたが果たすことなく2006年死去。同年8月12日に公開を控えていた『紙屋悦子の青春』が遺作となった。『原子力戦争 Lost Love』(1978)、『浪人街』(1990) など原田芳雄と組んだ作品が多い。
祭りの準備

↑デビューしたての竹下恵子のヌードが目当てで観に行ったが、そんなことはどうでもいいくらい感動した。
篠田正浩
(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - )岐阜県岐阜市出身。早稲田大学第一文学部卒業。早稲田大学時代に箱根駅伝に出場し、「花の2区」を走った経験を持つ。松竹に入社、助監督修行をする。この時篠田のアロハシャツに麦わら帽といういでたちと得意の足を活かして走り回る姿は撮影所でも目立つ存在だった。ちなみに同期に後に作家となった高橋治、一年後輩は大島渚、山田洋次。60年代には彼らと松竹ヌーベルバーグの一員として活躍することになる。岩間鶴夫・原研吉・中村登らに師事した後、1960年、平尾昌章、小坂一也主演のロカビリー映画『恋の片道切符』で監督デビュー。『暗殺』(1964・司馬遼太郎原作)、『乾いた花』(1964・石原慎太郎原作、美しさと哀しみと(1965・川端康成原作)などの文芸大作を経て、松竹を退社、フリーとなってから独立プロ表現社を立ち上げ、妻の女優の岩下志麻と共に大胆な実験的な試みをした意欲作『心中天網島』(1969年)を発表。一躍日本の花形監督となる。
『沈黙 SILENCE』(1971・遠藤周作原作)、『卑弥呼』(1974)、『桜の森の満開の下』(1975年)、『はなれ瞽女おりん』(1977年)など岩下志麻を主人公にすえ、斬新な映像表現で問題作・話題作を作るが、近年になって『瀬戸内少年野球団』(1984年)、『少年時代』(1990年)などわりと叙情的な作風に移りつつあった。また、『鑓の権三』(1986年)はベルリン映画祭銀熊賞を受賞するなど国際的にも高く評価されている。2003年監督作品『スパイ・ゾルゲ』をもって監督業を引退したと公言しているのだが。

↑ハイキーの白黒画面に歌舞伎の様式が描かれる。黒子が登場するなどシュールであるが日本映画でなければ不可能な表現である。
森谷司郎
(もりたに しろう、1931年9月28日 - 1984年12月2日)東京都出身。早稲田大学卒業後、1953年に東宝撮影所に入る。成瀬巳喜男監督などの助監督を務めた後、1960年、黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』にチーフ助監督として就き、以降、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』と、連続して黒澤作品のチーフ助監督を務めた。1966年、『ゼロ・ファイター 大空戦』で監督に昇進。以後、『赤頭巾ちゃん気をつけて』三島由紀夫『潮騒』などの青春映画を経て、『日本沈没』『八甲田山』などの大作映画を監督、いずれも大ヒットした。その後も引き続き「遭難」もの『聖職の碑』『漂流』、5・15事件を描く『動乱』、青函トンネル工事を描く『海峡』、吉田茂首相を描く政治ドラマ『小説吉田学校』など大作を手がけた。しかし、53歳の若さで病に倒れ世を去った。
山田洋次
(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )大阪府豊中市出身。満鉄の技師だった父の都合で、満州に生まれる。終戦後引き揚げ、山口で暮らす。東京大学法学部を卒業、松竹に助監督として採用される(浦山桐郎の項参考)。脚本家としても活躍。川島雄三野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、伝統的な松竹の人情劇を継承する『下町の太陽』(1963)、俳優・ハナ肇を開眼させた『馬鹿まるだし』(1964)と『馬鹿が戦車でやって来る』(1964)、『吹けば飛ぶよな男だが』(1968)などの佳作を経て、1969年、『男はつらいよ』シリーズを発表。同シリーズは驚異的なヒットとなり、全48作は国民的映画とまで呼ばれ、一躍日本映画史上屈指の作家として巨匠の仲間入りを果たす。主演の渥美清の死去でシリーズが打ち切られると一気に松竹の経営が悪化したことでこのシリーズの凄さが改めて感じられる。
『寅さん』以外ではシリアスな家族問題や、社会問題を痛烈に批判したヒューマンドラマを得意とし『家族』(1970)、『故郷』 (1972) 、高倉健主演『幸福の黄色いハンカチ』(1977 ハリウッドリメイク予定)、『遥かなる山の呼び声』 (1980)、『息子』(1991)、また後にシリーズ化された『学校』(1993)、『釣りバカ日誌』(1988)、国際的にも高く評価された時代劇3部作『たそがれ清兵衛』(2002 真田広之・宮沢りえ主演)、『隠し剣 鬼の爪』(2004 永瀬正敏主演)、『武士の一分』(2006 木村拓哉主演)、黒澤明のスクリプター野上照代の原作『母べえ』(2007)など、創作意欲は衰えることなく、また、作品のどれもが大ヒットを続けている。
中国などでは、日本映画界の第一人者としてよく知られている。脚本、ストーリー作りの達人でもあり、自作のほとんどを手がける他、師・野村監督の『あの橋の畔で 三部作』『ゼロの焦点』『砂の器』『暖流』など数々の名作を残している。
一時は松竹の重役でもあった。2004年に文化功労者。現在いわさきちひろ美術館理事、立命館大学映像学部客員教授。

↑『寅さん』と時代劇三部作しか知らない人はこの映画を見るべし。小津作品と並ぶ松竹の代表作。
藤田敏八
(ふじた としや、1932年1月16日 - 1997年8月29日)脚本家、俳優としても活躍。東京大学文学部仏文科に進む。在学中に演劇に熱中し、俳優座養成所に入所。1955年、大学卒業とともに日活に入社。助監督として舛田利雄蔵原惟繕らにつく。同時に脚本の執筆を始め、三島由紀夫の原作、蔵原惟繕監督作品『愛の渇き』(1967年)では脚本を担当。この作品で日本シナリオ作家協会シナリオ賞を受賞した。同時期に監督に昇進し、『非行少年 陽の出の叫び』(1967年)で監督デビュー。この作品では日本映画監督協会新人賞を受賞した。1968年にはドキュメンタリー『にっぽん零年』(公開は2002年)製作に参加する。その後、『非行少年』シリーズ、『野良猫ロック』シリーズに続いて、代表作のひとつである『八月の濡れた砂』(1971年)を発表。しかし、この直後、日活はロマンポルノ路線に転換することになる。桃井かおり主演の『赤い鳥逃げた?』(1973年)、梶芽衣子主演の『修羅雪姫』(1973年)、秋吉久美子主演3部作(『赤ちょうちん』、『妹』、『「バージンブルース』、いずれも1974年)といった一般映画や、沢田研二主演の『炎の肖像』(1974年)、山口百恵主演の『天使を誘惑』(1979年)といったアイドル作品を撮り続けた。『もっとしなやかに もっとしたたかに』(1979年)といった佳作を撮る一方で、日活の一般映画『帰らざる日々』(1978年)では山路ふみ子映画賞を受賞している。
俳優としては鈴木清順監督作品『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)における演技が高く評価され、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した。その後も浅野温子主演の『スローなブギにしてくれ』(1981年)、大谷直子、石田えり主演によるロマンポルノ作品『ダブルベッド』(1983年)などのメガホンを取るが、しだいに俳優としての活動に重心を移し、監督作品は1988年の『リボルバー』が最後となった。
八月の濡れた砂

↑日本が誇る青春映画の傑作。


『キル・ビル』のモチーフのひとつである。
大島渚
(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)夫人は女優の小山明子。岡山県玉野市生まれ、5歳の時岡山大学の教授だった父が死去し、母の実家のある京都市に移住。京都大学法学部卒業後、松竹の助監督試験に合格、入社後は主に大庭秀雄監督についた。『愛と希望の街』で監督デビュー。第2作の『青春残酷物語』(1960)で注目を集め、『日本の夜と霧』(1960)などで松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれた。しかし、この『日本の夜と霧』の上映をめぐって松竹と衝突し61年に退社。妻の小山や渡辺文雄、田村孟、小松方正、戸浦六宏らと共に映画制作会社「創造社」を創設、以後ATGなどと『飼育』(1961)、『日本春歌考』(1967)、『絞死刑』(1968)、『少年』(1969)、『儀式』(1971)など国家とマイノリティたちを描く作品群を続けて発表、ベネチアやカンヌにも招待され好評を得る。だが一躍国際的な名声を得たのは『愛のコリーダ』(1976)である。日本初のハードコアであり、女が愛するあまり男性を殺し局部を切り取るという衝撃の実話に基づいたストーリーは世界に大きなセンセーションを呼び、イギリス映画批評家賞外国語映画賞、シカゴ映画祭審査員特別賞。その後も『戦場のメリークリスマス』(1983 デビッド・ボウイ、トム・コンティ坂本龍一ビートたけし主演)カンヌ映画祭コンペティション、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞主演男優賞、英国アカデミー賞作曲賞。『マックス、モナムール』(1987 シャーロット・ランプリング主演)なども世界で話題を呼んだ。社会評論やテレビのコメンテーターとしても活躍する論客であった。脳出血で倒れたが『御法度』(1999)で復帰。しかし現在なお闘病中。

↑繊細で残酷な作品。僕にとっては大島の最高傑作。わずか1,000万円の予算で作られたがキネ旬ベストテン3位。

四方田犬彦著
大島渚と日本
大島の作品論にはタイトルに「日本」が必然。
2013年1月、80歳で肺炎のため死去。
佐藤純彌
(さとう じゅんや、1932年11月6日 - )脚本家としても活躍。東京大学文学部卒後1956年に東映へ入社し、東京撮影所のスタッフとしてキャリアを積む。1961年に『宇宙快速船』で特撮作品に助監督として参加。1963年に『陸軍残虐物語』(主演:三國連太郎)で監督デビュー。1968年に東映を退社後は、ヤクザ映画を中心に『実録安藤組』シリーズなどの作品を発表。幻の黒澤明の『トラ!トラ!トラ!』では助監督についている。1973年ごろから高倉健と組んだ『ゴルゴ13』、『新幹線大爆破』、『野性の証明』、『君よ噴怒の河を渉れ』『人間の証明』松田優作主演)、『敦煌』、『未完の対局』『北京原人 Who are you?』など中国に関連した映画、『空海』、『おろしや国酔夢譚』、『男たちの大和/YAMATO』等の大作を監督。『キイハンター』『Gメン'75』といった人気テレビシーズも手がけ(エンディング曲の作詞も)、アニメ『魔法使いサリー』では佐藤純弥名義で脚本を担当。アクション映画、伝記映画、歴史劇、戦争もの、SFなどオールマイティな監督で、70歳を過ぎた現在でも第一線で活躍している。深作欣二は東映時代の先輩で長く親交があった。

↑海外でも人気は高く、『スピード』のモチーフになったともいわれている。
吉田喜重
(よしだ よししげ/きじゅう、1933年2月16日 - )福井県福井市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。1955年松竹大船撮影所に入社。大庭秀雄、木下恵介等の助監督を経て1960年に『ろくでなし』で監督デビュー。大島渚今村昌平篠田正浩らと共に松竹ヌーベルバーグの一員として活躍する。数本を手がけるが、ヌーベルバーグの衰退とともに一時また助監督にもどってしまった。そこを救ったのが女優岡田茉莉子で、彼女は自ら企画した作品で吉田を監督に指名、『秋津温泉』(1962)という大傑作が生まれ、続く『嵐を呼ぶ十八人』(1963)で吉田は完全に復活を遂げた。1964年に岡田と結婚。その新婚旅行中に、監督6作目の『日本脱出』('64)のラストシーンを松竹に無断でカットされたことに抗議し退社。1966年に独立プロ現代映画社を設立する。妻岡田茉莉子を主役に据えATGで公開された『情炎』(1967)、『さらば夏の光』(1968)、『戒厳令』(1973)、『告白的女優論』 (1971) 、『エロス+虐殺』(1970)、『煉獄エロイカ』(1970)、三國連太郎主演『人間の約束』(1986)、松田優作主演の『嵐が丘』(1988)、などいずれも美と情念・エロス・革命・死をテーマとした知的で緻密な構成を配した作品で日本映画界に大きな影響を残した。また、美術に関しても深い知識を持ち、テレビドキュメンタリーなども多く手がけ高く評価されている。松竹の大先輩である小津監督への傾倒も良く知られ、ドキュメンタリー『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』や芸術選奨文部大臣賞を受賞した著書『小津安二郎の反映画』などがある。因みに妻岡田茉莉子は小津の『秋刀魚の味』に出演、岡田の父は小津映画の常連俳優だった岡田時彦である。2003年にフランス政府より芸術文芸勲章オフィシエ賞を贈られた。『女優 岡田茉莉子
伊丹十三
(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)京都市生まれ。俳優(詳細はこちら)、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家である。料理通であり博学の才人として知られる。女優の宮本信子は妻。父は伊丹万作。俳優の池内万作は息子。作家の大江健三郎は松山東高校時代の同級生で、妹の夫(義弟)。高校卒後は上京し、新東宝編集部を経て図案家として車内吊りポスターのデザインなどをしていた。当時明朝体を書かせたら日本一という噂があった。その後舞台芸術学院で演技を学び、1960年に26歳の時大映に入社。大映社長永田雅一から「伊丹一三」という芸名をもらい『嫌い嫌い嫌い』(1960年、大映)でデビュー。 市川崑の『黒い十人の女』(1961)などに出演したがまもなく大映を辞め、ハリウッド映画などに出演した。1969年に「十三」と改名し、貴重なバイプレイヤーとして映画・テレビで活躍。森田芳光監督『家族ゲーム』(松田優作主演)、市川崑監督の『細雪』(岸恵子主演、ともに1983)などは高い評価を得た。また、エッセイシストとして著した『ヨーロッパ退屈日記』や『女たちよ!』などはロングセラーとなった。妻・宮本信子の父親の葬式で喪主となった実体験をもとに、わずか一週間でシナリオを書き上げたという『お葬式』(1984年)で監督デビュー。この映画が評判を呼び、以後伊丹は映画監督を中心の活動となり、ヒット作を連発する人気監督となった。この映画の公開時のインタビューでは「今までの生活のあらゆることが映画監督になるための準備だった」ような発言をしている。伊丹映画の多くは実体験や社会問題を含んだものだが、いずれも精細な調査と時代を見つめる審美眼のような才能の賜物であろう。またどんな深刻な題材でも洒脱な作風で娯楽作として一流のものに仕立てたテクニックは、父譲りか。ラーメン作りと食通を題材にした『タンポポ』(1985 山崎努、役所広司渡辺謙出演)は海外でも公開され、評判を呼んだ。
1992年の『ミンボーの女』の公開直後に暴力団に襲撃され大怪我を負った。また右翼系の活動家から脅迫などもあり、大きな問題となった。1997年12月20日、写真誌「フラッシュ」で不倫疑惑が報じられ、「死をもって潔白を証明する」とのワープロ打ちの遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。『マルタイの女』(1997)を公開した後で次回作(医療廃棄物問題を題材にしていた)を準備していたため、全く前兆もなくあまりに突然の死に他殺説など様々な憶測が流れた。
その他監督作に、 『マルサの女』(1987)、 『マルサの女2』(1988)、 『あげまん』(1990)、 『ミンボーの女』(1992)、 『大病人』(1993 三國連太郎主演)、 『静かな生活』(1995 大江健三郎原作)、 『スーパーの女』(1996)がある。すべての作品に妻宮本信子が主演または助演している。
伊丹十三の映画』、こちら『伊丹十三の本』には元デザイナーだった彼の貴重なイラストやスケッチや、さまざまな愛用品・遺品などが収録されていて、彼の博識とセンスが偲ばれる。父伊丹万作の所縁の地愛媛県松山市に伊丹十三記念館が建てられた。

↑映画監督の息子でありながら意外なことに映画監督になったのは51歳の時である。
降旗康男
(ふるはた やすお、1934年8月19日 - )長野県松本市生まれ。東京大学文学部フランス文学科卒(1957年)。東映入社。1978年東映を退社し、フリーに。 
駅 STATION

↑高倉健が素晴らしいのは当たり前だが、いしだあゆみの演技も忘れられない。
東陽一
(ひがし よういち、1934年11月14日 - )脚本家としても活躍。和歌山県海草郡出身。早稲田大学文学部卒。岩波映画製作所を経て1962年フリーとなり東プロや前田勝弘らと共に幻燈社を創設、自主製作『やさしいにっぽん人』(1971)、『日本妖怪伝 サトリ』(1973)などの佳作で注目を浴びた。1978年、『サード』(脚色寺山修司、永島敏行主演)が映画賞を独占、売れっ子となった。80年代は『もう頬づえはつかない』(1979 桃井かおり主演)、『四季・奈津子』(1980年、五木寛之のベストセラーを映画化した脚本なしの映像化を試みた。烏丸せつこ主演)、『ラブレター』(1981 にっかつロマンポルノ史上最高の興収を挙げた。高橋恵子主演) 『マノン』(1981 プレヴォーの小説を日本に映画化。烏丸せつこ主演) 『ザ・レイプ』(1982 田中裕子主演)、『ジェラシー・ゲーム』(1982 大信田礼子主演)、『セカンド・ラブ』(1983 大原麗子主演)、『湾岸道路』(1984 樋口可南子主演)、『化身』(1986 黒木瞳主演)など女性を主人公にした映画を多く手がけた。ここ数年は『橋のない川』(1992)、『絵の中のぼくの村』 (1996 ベルリン国際映画祭にて銀熊賞受賞)などの社会問題を孕んだテーマのヒューマンドラマを続々と発表し、存在感を見せ付けている。
サード
小川紳介
(おがわ しんすけ、1935年6月25日 - 1992年2月7日)は、世界的に知られる日本を代表するドキュメンタリー映画監督である。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者。國學院大學政経学部卒。60年に岩波映画製作所と助監督契約を結び、61年、東陽一土本典昭らと映画研究グループ「青の会」を結成。66年、小川プロダクションを設立。スタッフを率い、三里塚の農民と生活を共にしながら成田空港の建設に反対する農民運動(三里塚闘争)を記録した『三里塚』シリーズ七作を作成する。その後、小川プロダクションのスタッフと共に山形県上山市に移住し農業を営みながら、82年『ニッポン国古屋敷村』、86年『1000年刻みの日時計 牧野村物語』を発表。ベルリン映画祭国際批評家連盟賞を受賞する。西ドイツ映画『HARE TO KE ハレとケ』はこの小川らの確固たる信念と活動に感動した女性監督ウルヴァーの記録映画である。日本の農業問題、過疎問題、地方自治の問題、地方文化・伝統の継承を鋭い観点でえぐった秀作である。
「読本」ニッポン国古屋敷村 (1984年)
これほど優秀なドキュメンタリーがビデオソフトとして多くの人が見られないことはもはや日本文化の損失といえる。
高畑勲
(たかはた いさお、1935年10月29日 - )三重県伊勢市出身。宮崎駿とともにスタジオジブリを支える。映画監督、プロデューサー、翻訳家。東京大学文学部仏文科卒業。日本のアニメーションを黎明期から支えてきた演出家で、『アルプスの少女ハイジ』『火垂るの墓』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』『じゃりン子チエ』などの演出で知られる。別名義にテレビ版『じゃりン子チエ』の演出時に使った武元哲(たけもとてつ)がある。紫綬褒章受賞。 

↑僕が辛すぎて観られない映画のひとつ。これを見て泣かない人はもはや鬼か悪魔だろう。
寺山修司
(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷主宰。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。言葉の錬金術師の異名をとり、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。その一方で、映画・演劇なども幅広く手掛けた。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。特に詳しいのはジャズ、ボクシング、競馬で、評論家としても活躍。
参考書→寺山修司名言集 [ 寺山修司 ]、 ’70s寺山修司 / 寺山修司 【単行本】 
田園に死す
若松孝二
(わかまつ こうじ、1936年4月1日 -2012年10月17日) 企画、製作、脚本家としても活躍する。「性と暴力」の作家と言われるが、無秩序・非論理・無自覚・衝動的な狂気や暴力はほとんど描かれていないところにこの監督の特長がある。宮城県生まれ。上級生とのトラブルで高校を中退、家出同然で上京し、様々な職業を転々とした後ヤクザの下で働き、抗争に巻き込まれて逮捕・投獄されるという体験を持つ。23歳で出所、ロケ現場で交通整理をするなどしてテレビ製作やピンク映画の創世記の現場に関わるようになった。企画や制作者として数本に関わった後、1963年に『甘い罠』で映画監督としてデビュー。『不倫のつぐない』(1964)などで野外の激しい暴行場面や性描写が話題を呼び、当時の若者から圧倒的な支持を受け、ピンク映画を立て続けに発表。60年代は年に10本以上の作品に関わる売れっ子ぶりで異例の集客力をみせた。後に若松プロダクションを設立、ピンク映画の傑作『犯された白衣』(1967)、『ゆけゆけ二度目の処女』 (1969)、『狂走情死考』(1969)など自由な作品作りと、山本晋也、高橋伴明ら後進の育成を努めつつ、鈴木清順門下の脚本家・大和屋竺や、後に左翼活動家になった足立正生らとの交流を得て、作品はより思想的・観念的なものへ進化していく。自ら赤軍に体験入隊して撮ったドキュメント『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』(1971)など左翼運動家たちをモチーフやテーマにしたものは現在に至るまで若松のライフワークとも言える。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)は第58回ベルリン映画祭最優秀アジア監督賞、国際芸術映画評論連盟賞を受賞、2010年の『キャタピラー』は主演女優寺島しのぶにベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)をもたらした。プロデューサーとしては、大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(1967)、足立正生監督『女学生ゲリラ』(1969)、大島渚監督『愛のコリーダ』(1976)、山下耕作監督『戒厳令の夜』(1980)、神代辰巳監督『赤い帽子の女』(1982)等があり、世界でも高く評価されている。
その他代表作は内田裕也主演『水のないプール』(1982)、『エロティックな関係』(1992 宮沢りえビートたけし共演) 、『キスより簡単』(1989)、『われに撃つ用意あり READY TO SHOOT』(1990)、『寝盗られ宗介』(1992)、『シンガポール・スリング』(1993)、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004) などがある。親友でもある原田芳雄を主演にした作品が多い。70歳過ぎても創作意欲は衰えることなく、三島事件を題材にした『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)、『海燕ホテル・ブルー』(2012)と立て続けに製作したが、2012年、交通事故に遭い急死した。再び寺島しのぶと組んだ『千年の愉楽』(2012)の2013年の公開前でさぞかし心残りだったろう。
著書に『若松孝二・俺は手を汚す (1982年)』、『時効なし。』、研究本に『若松孝二 反権力の肖像』など。『17歳の風景 少年は何を見たのか』の製作過程を撮った『67歳の風景 若松孝二は何を見たのか』(2005)というドキュメンタリー映画もある。
実相寺昭雄
(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督、演出家、脚本家、小説家。東京藝術大学名誉教授だった。テレビシリーズ『怪奇大作戦』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などでシュールでエキセントリックな映像を実現した。一方で左翼的思想とエロスと日本の伝統美を追求した劇映画『無常』『曼荼羅』『哥』などでもセンセーションを呼んだ。荒俣宏原作『帝都物語』は大ヒットした。参考書は→実相寺昭雄研究読本ウルトラマン誕生 ちくま文庫 / 実相寺昭雄 【文庫】
大林宣彦
(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日-)は、日本の映画監督。本人は「映画作家」と称している。広島県尾道市土堂出身。幼少の時から家庭用幻灯機に親しみ6歳の時にフィルムに手書きで作ったアニメが処女作という、映像の申し子のような人。地元の高校卒業時には16ミリカメラを入手、成城大学文芸学部でも8ミリ映画を次々撮り、16ミリで撮った『喰べた人』がベルギー国際実験映画祭特別賞を受賞した。大学は中退したがそのまま実験映画やCM製作の仕事を手がけるようになった。8ミリ映画から映画撮影所を経ずに監督となり自主製作映画の先駆者として、外タレを起用したCMのCMディレクターとして、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。1967年コマ撮りを多用した実験的な作品『いつか見たドラキュラ』でカルト的な人気を得、ホラーHOUSE(1977)で劇場映画デビュー。転校生(1982)時をかける少女(1983)、さびしんぼう(1985)尾道三部作で人気を決定付け、廃市(1984)、異人たちとの夏(1986)、『青春デンデケデケデケ(1992)などは映画評論家からも高い評価を得た。また新・尾道三部作『ふたり』(1991年)、『あした』(1995年)、『あの、夏の日』(1999年)など熱狂的なファンの支持がある。売れっ子監督で様々な作品を多数作るが、出来不出来の差も激しい。漫画を原作にした作品や、ねらわれた学園(1981)、『漂流教室』(1987)、『水の旅人 -侍KIDS-』(1993)など実験的な様々な試みをした映像作品も多数である。有望な新人監督のプロデュースや俳優として、またテレビのコメンテーターとしても活躍。原田知世、富田靖子、小林聡美、石田ひかり、薬師丸ひろ子ら若手女優の味を引き出す監督としても定評がある。『ぼくの青春映画物語―穏やかな一日を創造するために (集英社新書)』他、若者に向けたメッセージ、青春論、教育論の著書多数。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。
その他参考書は→大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本 [ 大林宣彦 ]
小林聡美が胸を見せるいわゆる"お宝シーン"があるのだが、"男"と錯覚している観客にとっては色気も何も無い、大爆笑シーンになっている。
澤井信一郎
(さわい しんいちろう、1938年8月16日 - )静岡県浜松市出身。1961年、東京外国語大学ドイツ科卒業。同年、東映入社。 入社後は、マキノ雅裕に師事。鈴木則文らにつき助監督の経験を20年余り積む、その間に脚本・助監督を務めた『トラック野郎』が東映の看板シリーズとして5年間君臨した。現在失われつつある撮影所で培われた映画表現手法と集団作業としての現場主義に基づく的確なプロの仕事ぶりに定評ある名匠。
宮ア駿
(みやざき はやお、1941年1月5日 - )は、東京都出身のアニメーション作家・映画監督・漫画家。学習院大学政治経済学部卒。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は二馬力で、主に宮アの著作権関連の管理を行っており、自身は代表取締役社長である。
参考資料は以下
宮崎駿の雑想ノート増補改訂版 [ 宮崎駿 ]折り返し点 [ 宮崎駿 ]宮崎駿、異界への好奇心 / 岸正尚 【単行本】宮崎駿アニメはすごい! [ ジブリ研究会 ]
小泉堯史
(こいずみ たかし、1944年11月6日 - )は、茨城県水戸市出身。東京写真短期大学(現・東京工芸大学)写真技術科、早稲田大学卒業。早大卒業後の1970年、黒澤明に師事し、28年間にわたって助手を務める。黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化し(2000年公開)、監督デビューする。この作品でベネチア国際映画祭の緑の獅子賞、日本アカデミー賞で作品賞をはじめとする8部門で受賞。さらに2002年の『阿弥陀堂だより』でも日本アカデミー賞を2部門受賞するなど、現在最も注目される映画監督の一人である。
その他の作品『八月の狂詩曲』(1991年 助監督) 『まあだだよ』(1993年 助監督)、『博士の愛した数式』(2006年)、フレッド・マックイーン出演の『明日への遺言』(2008年)など。
参考資料:
「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
映画データベース - allcinema
AERA MOVIE ニッポンの映画監督 (AERA Mook AERA MOVIE)
日本映画史100年 (集英社新書)
現代日本映画の監督たち
日本映画人名事典 監督篇
日本映画史100年 (集英社新書)
日本映画史ー増補版〈1〉1896‐1940
日本映画の巨匠たち〈1〉
日本映画人改名・別称事典
日本映画・テレビ監督全集
日本の映画人―日本映画の創造者たち
松竹大船映画―小津安二郎、木下恵介、山田太一、山田洋次が描く“家族”
日活ロマンポルノ全史―名作・名優・名監督たち
日活1954‐1971―映像を創造する侍たち
東宝監督群像―砧の青春
カツドウヤ繁昌記―大映京都撮影所
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