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索引 | |||||||
クラシック:活躍している人は大勢いるので特に有名な人だけ。 | |||||||
ツトム・ヤマシタ(山下) 1947年京都生まれ。16歳の時、小澤征爾に見出されデビュー。その後渡米しジュリアード音楽院、次いでバークレー音楽院で学ぶ。1969年シカゴ交響楽団の演奏会に独奏者として出演し大好評を得て注目を浴びる。以後、クラシックを軸にロック、ジャズと活動を広げた世界的パーカッショニスト。1976年ごろのユニットGOではスティーブ・ウインウッドやアル・ディメオラなどロック、ジャズ界の大物と組んで活動した。演劇も一時主宰し『レッド・ブッダ』という劇団を率いていた。まだ無名のころ黒澤明の『用心棒』の映画音楽(佐藤勝作曲)を演奏していたパーカッショニストのひとりだった。映画音楽での演奏も多く手がけ、ロバート・アルトマンの『イメージズ』、デビッド・ボウイ主演の『地球に落ちてきた男』、『F1グランプリ 栄光の男たち』などを担当している。 | |||||||
冨田勲 現代音楽の作曲家。ドビュッシー『展覧会の絵』やホルスト『惑星』などを大胆にアレンジしたシンセサイザー演奏のパイオニアで、グラミ−賞も3回ノミネートされている。かつてスティービー・ワンダーが来日した時最も尊敬しているミュージシャンとして名前を挙げていた。個人的には作曲家としての作品『マイティ・ジャック』『キャプテン・ウルトラ』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』のテーマが好きだなあ。子供には難しくて歌えないテーマ曲なのが不思議だった。日本映画の映画音楽も数多く手がけ、特に内田吐夢の名作『飢餓海峡』の音楽も忘れられない。最近は『学校』シリーズ以降の山田洋次監督作『たそがれ清兵衛』(2002年)、『隠し剣 鬼の爪』(2004年)、『武士の一分』(2006年)、『母べえ』(2008年)を手がけている。 『エイリアン』も当初彼が音楽を担当する予定だった。 Isao Tomita the Earth-------- 公式サイト | |||||||
武満徹 現代音楽の作曲家。1930年東京生まれ。独学で作曲を学び、1951年、前衛芸術家のグループ「実験工房」を母体に作曲家デビュー。1965年『テクスチュアズ』でパリ国際現代作曲家会議グランプリを受賞。以後、『弦楽のためのレクイエム』『ノベンバーステップス』など優れた作品を残した。黒澤明・今村昌平・大島渚作品をはじめとする多数の優れた映画音楽を手がけた。世界で最も知られている日本人作曲家だろう。故人。 日本映画の音楽は以下。 『切腹』1962(小林正樹監督) 『砂の女』1964(勅使河原宏監督) 『怪談』1964(小林正樹監督) 『どですかでん』1970(黒澤明監督) 『愛の亡霊』1978(大島渚監督) 『乱』1985(黒澤明監督) 『利休』1989(勅使河原宏監督) 『鑓の権三』1986(篠田正浩監督) 『黒い雨』1989(今井昌平監督) など世界で評価された名作がずらり。が、意外なことにハリウッド作は 『ライジング・サン』1993(フィリップ・カウフマン監督) のみなのが残念。 Takemitsu the last TV appearance | |||||||
黛敏郎(1929-1997) 現代音楽の作曲家。1929年横浜生まれ。東京芸大で伊福部昭らに師事、卒業作品がすぐレコード化され話題を呼ぶ。1953年、團伊玖磨、芥川也寸志と「三人の会」を結成し、新しい表現・音素材の冒険に挑んだ。ハリウッド映画『天地創造』の映画音楽を担当し世界的に知られた。長寿音楽番組『題名のない音楽会』の司会は抜群に良かった。右寄りの人だったが。日本映画でも傑作多数で木下恵介の『カルメン故郷に帰る』、川島雄三『幕末太陽傳』、小津安二郎『小早川家の秋』 今村昌平作品は多数で『豚と軍艦』など、浦山桐郎『キューポラのある街』、市川崑『東京オリンピック』など。 The Bible: In the Beginning... - Theatrical Trailer | |||||||
團伊玖磨(1924-2001) 現代音楽の作曲家。オペラ『夕鶴』など世界的評価を受けている。『ぞうさん』などの童謡でも知られる。日本の映画音楽は『大仏開眼』(衣笠貞之助監督)、『夫婦善哉』『雪国』(豊田四郎監督)、『その夜は忘れない』(吉村公三郎監督)などがある。文才にも優れ、随筆『パイプのけむり』シリーズも絶品の面白さ。また、彼が書いた小説『日向村物語』を原案にした『馬鹿が戦車でやってくる』(山田洋次監督・ハナ肇主演)では当然音楽も担当している。血盟団事件で暗殺された実業家團琢磨は祖父。 | |||||||
加古隆 作曲家・ピアニスト オリジナルアルバム『月の虹』などリリカルな曲想で大人気のアーティスト。若い頃よりクラシックとジャズに傾倒するが現代音楽の作曲家を志し東京芸術大学作曲科、同大学院を卒業。1971年フランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立音楽院で学び、メシアンらに師事した。70年代半ばから再びジャズをモチーフとしたピアノ曲を発表、ヨーロッパを中心に演奏活動を始める。80年代初めには日本に帰国し、テレビ番組の主題曲、映画音楽など活動の場を広げている。大きな帽子がトレードマーク。 Ismael Ivo & Takashi Kako, "Apocalypse" 1989 Tokyo, Dance | ベルギー映画(マリオン・ハンセル監督)のオリジナル・サントラ | ||||||
小澤征爾 1935年、満州(中国奉天)生まれ。桐朋学園で斎藤秀雄に指揮法を学び、卒業後1959年に単身渡欧。コネも何も無い状況で飛び入り参加しブザンソン国際指揮者コンクールで2位に入賞。以後欧米の指揮者コンクールで次々入賞、カラヤンに認められ直接指導を受けた。またその直後バーンスタインにも認められ、ニューヨークフィルの副指揮者になり、世界を舞台に活躍するようになった。新日本フィルの主席常任指揮者などを経て長くボストン交響楽団の音楽監督を務めた。ボストンにはこの人の功績を称えた記念ホールがある。2002年からウイーン国立歌劇場音楽監督に就任。このポストはマーラー、R.シュトラウス、ワルター、ベーム、カラヤンらが歴任している世界のクラシック音楽界の頂点、ついに日本人が昇りつめた! 師の斉藤秀雄を偲んで創設されたサイトウキネン・オーケストラの中心人物でもあるが、こちらでも歴史に残る名演が山ほどある。世界で最も知られた日本人のひとり。 息子・小澤征悦についての参考書は→国際結婚のコーナーで。 Seiji Ozawa - SAITO-KINEN K136 | 師斉藤秀雄が好んで演奏したというモーツアルトのディヴェルティメント ニ長調K.136は感動もの! | ||||||
五嶋みどり バイオリニスト。バイオリニストだった母・節の教育を受け早くから才能を開花、天才少女の名を欲しいままにした。1985年、14歳の時、タングルウッド音楽祭でバーンスタイン指揮のもとで演奏中、弦を2回も切ってしまい、そのつどコンマスからバイオリンを借りて演奏を完遂。さすがのバーンスタインも感嘆したという伝説がある。2007年、国連平和大使になった(日本人初)。かつての天才少女も今や日本を代表する音楽家となった。五月みどりと間違えないよう。異父弟の五嶋龍も世界的バイオリニスト。 Midori - Chopin 'Nocturne in C-Sharp Minor' 公式サイト | 彼女の才能を発掘したズービン・メータ指揮 | ||||||
フジ子・ヘミング 伝説のピアニスト。波乱万丈の半生がNHKで紹介されてから、日本でものすごい人気! 1932年、スウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれスウェーデン国籍(日本在住)。芸大卒後、ドイツ留学、その腕はすぐに認められた。特にショパンやリストの演奏に対する評価が高い。バーンスタインの推薦を受け単独リサイタルを開く直前急病になり、大きなチャンスを失う。その後はヨーロッパ各地でリサイタル、日本に帰国してからピアノ講師としても活躍するが、半ば存在が伝説化していた。上記のようにその数奇な人生がNHKのドキュメントで放送されてから一躍注目をあび、以後、大きなコンサートに出演。テレビドラマにもなった。 ラ・カンパネラ 公式サイト 参考書は→弟の大月ウルフは「怪優」として知られる。 | |||||||
江藤俊哉 東京都出身。バイオリニスト。カーネギーホールでデビューという当時は信じられないほどの栄誉で世界に登場した。 幼少期は鈴木鎮一にに手ほどきを受け、スズキメソードの英才教育第一号といわれ、12歳で音楽コンクールに優勝、天才と呼ばれた。東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業後、1948年に渡米、カーティス音楽院でバイオリニスト、エフレム・ジンバリストさんに師事し、1926年にカーネギーホールでデビュー・リサイタルを開催。卒業後は同音楽院の教授に就任した。 国際的に活躍したが、1961年に帰国。以後は演奏家としての活動のほか桐朋学園大などで教育者として後進の育成に尽力。千住真理子や諏訪内晶子ら多くのバイオリニストを育てた。また、エリザベート王妃国際音楽コンクールなどの審査員を歴任。日本芸術院会員になり、その後、江藤俊哉ヴァイオリンコンクールが創設され、桐朋学園大の学長を務めた。 妻アンジェラ・ヌドもバイオリニストで優れた教育者としても知られている。参考書は→国際結婚のコーナーで。 | 江藤俊哉の芸術 | ||||||
海野義雄 江藤と並び日本を代表するバイオリニスト。1936年東京生まれ。偽鑑定書事件の後桧舞台にあまり出ていないのが残念。23歳でNHK交響楽団のコンサートマスター、1967年、ウィーン楽友協会大ホールでソリストとしてデビューして以来世界で活躍。 | |||||||
佐渡裕 フランスのラムルーの指揮者。京都生まれ。母親は美空ひばりの発声の先生でもあった。京都市立芸術大学音楽科ではフルートを専攻。タングルウッド音楽祭で小沢征爾に見いだされ、レナード・バーンスタインに紹介され、バーンスタインの最後の弟子となった。日本のCMや、クラシック専門チャンネル、クラシカジャパンへの出演でおなじみ。2008年4月よりテレビ朝日『題名のない音楽会』の司会者に決定! 公式サイト | |||||||
辻久子 バイオリニスト。1925年大阪生まれ。バイオリニストの父親吉之助の英才教育を受け天才少女として早くから注目を浴びていた。ダビド・オイストラフに認められ師事。その後ソ連に招かれ、東欧諸国で演奏旅行をし、国際的な名声を得た。1973年、大阪のデパートが売りに出したストラディバリウスを自宅を売って3,500万円で買った話はあまりにも有名。 | 同行二人、弦の旅 | ||||||
朝比奈隆 世界最長老の指揮者だった。90過ぎてベートーベン交響曲ツイクルスをやった人は、この先現れないだろう。「アサヒナのブルックナー」は世界的なブランドだった。故人。 | |||||||
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梯剛之(かけはしたけし) 2000年 第14回ショパン国際ピアノコンクール・ワルシャワ市長賞を受賞した全盲のピアニスト。 公式サイト | |||||||
斉藤秀雄 小澤征爾、山本直純、岩城宏之、秋山和慶、堤剛ら多くの音楽家を育てた音楽家・教育家。サイトウキネン・オーケストラは彼の名を冠している。故人。 | 斉藤秀雄の芸術 | ||||||
千住真理子 バイオリニスト。江藤俊哉に師事し、小学生の頃から数々のコンクールに入賞する天才少女だった。1979年 第26回パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞した。日本画家の千住博と作曲家の千住明は実兄にあたる。 公式サイト | |||||||
前橋汀子 日本を代表する国際的バイオリニスト。レオポルド・ストコフスキーの指揮により、ニューヨーク・カーネギーホールで演奏会デビュー。 所属事務所梶本による公式プロフィール | |||||||
尾高忠明 指揮者。1987年BBCウェールズ交響楽団首席指揮者に就任、1996年より桂冠指揮者となる。エリザベス女王より大英勲章(CBE)を受章。エルガ−の演奏には定評がある。尾高賞で知られる指揮者、尾高尚忠の息子。 | |||||||
堤剛 チェリスト。1942年東京生まれ。1957年、中学生の時音楽コンクールで1位・特賞を得、高校時代にはNHK交響楽団の海外演奏旅行に同行するほどの実力だった。インディアナ大に留学、ヤーノシュージュタルケルに師事し、1963年カザルス国際コンクールで第1位入賞以来世界で活躍する。 | |||||||
黒沼ユリ子 バイオリニスト。プラハ音楽芸術アカデミーに在学中の1960年、プラハ現代音楽コンクールで第1位。1962年、栄誉賞つきディプロマを得て首席で卒業。以来ドボルザークなどチェコの作曲家の演奏で世界的名声を得る。メキシコ在住。 | 黒沼ユリ子の世界 | ||||||
秋山和慶 指揮者。トロント交響楽団の副指揮者を皮切りに、アメリカ交響楽団音楽監督、バンクーバー交響楽団音楽監督(現在桂冠指揮者)、シュラキュース交響楽団音楽監督(現在名誉指揮者)を歴任。世界のトップレベルの楽団の多くを指揮している。 | 斉藤秀雄 メモリアル・コンサー | ||||||
岩城宏之 指揮者。1932年東京生まれ。斉藤秀雄門下生。1962年チェコ国立放送交響楽団を指揮してヨーロッパのオーケストラにデビュー。以来、国内(NHK交響楽団の常任指揮者)はもとより、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとする国外の主要オーケストラを常時客演指揮し、国際的な演奏活動を行っている。メルボルン交響楽団の桂冠指揮者。1994年メルボルンに岩城の名を冠した「イワキ・オーディトリアム」がオープン。2006年死去。 Stravinsky - The rite of spring | |||||||
潮田益子 バイオリニスト。1966年チャイコフスキー・コンクール第2位以来、世界中 で活躍を続けている。 ロンドン・フィル、ロンドン交響楽団、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ニューヨーク・フィル、シカゴ交響楽団、ボストン交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団等世界の一流オーケストラと共演している。サイトウキネン・オーケストラの一人としても活躍。 | |||||||
諏訪内晶子 バイオリニスト。チャイコフスキーコンクールで当時最年少で優勝した。美人だ。 バイオリニスト − 諏訪内晶子 公式サイト | |||||||
中村紘子 ピアニスト。ショパンの演奏では世界的な名声を持つ。斉藤秀雄が創設した「子供のための音楽教室」の第一期生で、天才少女と呼ばれたが妬みや師弟関係のしがらみに息苦しくなり、18歳でニューヨークへ。ジュリアード音楽学校でロジーナ・レビンに師事。20歳でショパンコンクールに4位入選し一躍名を知られるようになった。インドシナ難民支援・地雷撲滅運動などの活動も有名。作家庄司薫の妻でエッセイがこれまた絶品の面白さで、国内外のピアノコンクールの審査員の内幕を綴った『チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 (中公文庫)』は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。 W.Schuchter and Hiroko Nakamura play Chopin Piano Concerto. | |||||||
内田光子 ピアニスト。中村紘子と同じく「子供のための音楽教室」出身で、若い頃より世界のコンクール荒しとして名をはせる。現在はイギリスに在住しイギリス中心に活躍する。モーツァルトの演奏が有名。 Mozart Piano Concerto No. 9, 2nd Mvt, Part 2 Mitsuko Uchida | モーツァルト生誕250年記念ライヴ! | ||||||
樫本大進 バイオリニスト。父の仕事の関係で1979年ロンドンに生まれ、その後ニューヨークで暮らすなど生まれながらの国際人。3歳からバイオリンを始め、幼い頃からメニューインのコンクールなどで入賞、「天才少年」として名を馳せていた。特にロン=ティボー国際音楽コンクールでは史上最年少で優勝し、世界にその名を轟かせた。ソリストとして世界の巨匠たちと共演。NHKの大河ドラマ『利家とまつ』のテーマ曲でも演奏している。2009年、超名門ベルリン・フィルのコンサートマスターに内定。これは小澤に次ぐ快挙だろう。 Daishin Kashimoto: Bach Gavotte en Rondeau | |||||||
アンネット・一恵・ストゥルナート(Annet Kazue Strnadt)アルト歌手。ウィーン国立歌劇団の最年長団員(準団員)。兵庫県西宮生まれ。准看護婦をしながら独学で歌を習得、上京して合唱団に入り舞台やテレビ等に出演した。60年代末、31歳でウィーン行きを決意、ロッテ・バブシカに師事するなど修行を重ね、1971年 ウィーン国立歌劇場(オペラ座)団員歌手に合格。同劇場創設以来初めての東洋人歌手となる。以来、カラヤン、バーンスタイン、演出家オットー・シェンクらと親交を深め、ザルツブルグなどヨーロッパ各地の舞台で活躍した。2005年、NHK『ラジオ深夜便』でその波乱の、知られざる来歴を語り話題となり、2006年には新潮社から自伝『ウィーンわが夢の町』を刊行。現在は毎年帰国し、日本人に合った発声法などを後進の指導に当たっている。長い髪と派手な帽子がトレードマークで特異なキャラで最近若い人に人気である。
公式サイト | |||||||
宮城道雄 1894年-1956年 筝曲演奏家・作曲家。神戸生まれ。当時の神戸は外国人居留地だったため幼少時より西洋音楽に親しんでいた。しかし7歳で病気のため失明、8歳で琴の二代目中島検校に師事。その後音楽の才能が一気に芽生え14歳で処女作『水の変態』を作曲。1917年上京し尺八と琴の合奏による新日本音楽を唱え、邦楽会の革新を図った。また新楽器十七弦、八十弦を創作した。代表曲に『春の海』『越天楽変奏曲』があるが、何といっても有名なのは1929年に発表された『春の海』で、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと共演され、世界的な評価を得ることになった。1932年には日、米、仏でレコードが発売され世界的にもよく知られている。1953年、フランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として出場、第1位となる。日本の演奏家としても昭和30年ごろ最も欧米で知られた存在だった。だが、東海道線刈谷駅付近で夜行列車「銀河」から誤って転落し死去した。東京・神楽坂の住居跡に記念館がある。 初音ミクの歌う「春の海」全曲 | 名随筆家としても知られ、内田百閧笳ム芙美子らとの交流も有名。『春の海―宮城道雄随筆集』は名著。 | ||||||
原智恵子 1915年-2001年 ピアニスト。日本人として初めてパリの国立音楽院ピアノ科に入学。ラザール・レビイに師事。ヨーロッパで華々しいデビューを飾り、以後欧米を中心に演奏活動を続け名声を高めた。1959年チェリストのガスパール・サバトと結婚、2人での演奏活動も評判を呼んだ。 | 参考書として『原智恵子 伝説のピアニスト (ベスト新書)』などがある。 | ||||||
三浦環 1884年-1946年 声楽家。東京生まれ。東京音楽学校を卒業し同校の教授、帝国劇場歌劇部のプリマ・ドンナとして活躍した。1914年渡英。後ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場でプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を演じ、絶賛を浴びる。以後『三浦の蝶々夫人』は世界的な大ヒットとなり、彼女の定番となり、通算二千回主演の記録を樹立した。 歌劇「蝶々夫人」から ある晴れた日に 三浦環大正6年の録音だそうだ。 | |||||||
藤原義江 1884年-1946年 声楽家。通称「われらのテナー」。下関の貿易商社の最高幹部でスコットランド人の父リードと琵琶芸者の母の間に生まれた。父母の愛に恵まれない幼少期を過ごし職業を転々とするが後上京。浅草で新国劇や歌劇に出演。ハーフの容貌と声量を活かしたダイナミックな演技と歌声で浅草のトップスターとなった。1920年イタリアに留学。その後英仏で学んだ。1926年7月帰国、世界のビクター赤盤日本初の専属歌手として大評判となった。1934年には、ヨーロッパの本格的なオペラに匹敵する実力者を集めた藤原歌劇団を創設、日本オペラ界の開拓と振興に尽くし1947年には芸術員賞を受賞した。また海外からもレジオン・ドヌール勲章、コンメンダトーレ勲章などを受賞した。多くの女性と浮名を流した人物としても有名で、なかでも藤原あきは藤原と恋に落ち、前夫と離婚し子を日本に残して藤原を追ってイタリア・ミラノに渡り結婚し「世紀の恋」と騒がれた。その後あきは藤原と離婚するがそのまま藤原あきの名でタレントとしてNHK『私の秘密』のレギュラーとして活躍。衆議院議員にも当選しタレント議員の走りになった。 愛国行進曲(1943) 藤原義江 | 波乱万丈の生涯は古川薫の直木賞受賞作『漂泊者のアリア (文春文庫)』や、 ドキュメント などに詳しい。 歌曲集は 我等のテナー〜全集 参考書は→ | ||||||
岡村喬生 声楽家。1931年生まれ。1959年来日したイタリアオペラ公演に唯一の日本人歌手として抜擢され、それが縁でイタリアに留学。ヴィオッティ国際コンクール金賞、トゥールーズ国際コンクール1位と次々に入賞し華々しいデビューを飾った。早稲田大学出身で、当時、音大などの通常の音楽教育を受けずにクラシックのトップクラスに上がった珍しい例として話題になった。テレビのバラエティ番組の司会なども務め、オペラの演出も手がける。『ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ (新潮文庫)』などのエッセイやオペラの解説本などの著作も多数。 | |||||||
ジャズ、フュージョン系の皆さん | |||||||
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日野皓正 トランペッター。1942年東京生まれ。1964年、白木秀雄クインテットの一員としてのベルリン・ジャズ・フェスティバルに参加、一躍世界で注目を浴びる。1989年、ジャズの名門レーベル“ブルー・ノート”と日本人初の契約アーティストとなり、第1弾アルバム『ブルーストラック』はアメリカでも大好評を博した。 TERUMASA HINO "STARDUST" | |||||||
渡辺貞夫 サックス奏者。1933年栃木生まれ。1951年、秋吉敏子のコージーカルテットに加わり注目を浴びる。その後バークレーに留学、帰国後カルテットを結成、1966年に名盤『ジャズ&ボサ』を発表、ベストセラーになって今日の地位を築いた。ニューポートやモンタレー・ジャズ・フェスティバルは常連。デイヴ・グルーシンが参加した『カリフォルニア・シャワー』は大ヒットした。 渡辺が渡米した1962年の日米間の航空運賃は約500ドル(1ドルが360円の時代なので日本円で18万円)。当時大卒の平均月給が15,000円なので年収に相当する高額だ。だが、渡辺は渡米してまもなくアルバイトとしてステージで演奏することになるのだが、その時のギャラは週給125ドル(45,000円)だったそうで、つまり彼は日本のサラリーマンが3ヶ月かけて貰う金額をたった1週間で稼ぎ、わずか1ヶ月で工学の渡航費用をペイしていたことになる。 日本ジャズ界の大御所揃い踏み :Now's The Time | |||||||
MALTA マルタ サックス奏者。芸大からバークレーに留学、本場アメリカのビッグバンドでライオネル・ハンプトン楽団のコンサートマスターに就任。ソロ転身後はフュージョン系のアルバムで人気。 Yoko Minamino - すなおになれたら・・・ | スパークリング | ||||||
渡辺香津美 ギタリスト。ジャズからクラシック、ロックまで万能のバカテクの持ち主で10代でプロデビューした天才。YMOのサポートギタリストでもあった。スパイス・オブ・ライフというユニットではキング・クリムゾンやイエスのドラマーとして知られるビル・ブラッフォードが参加。東京の暁星高校というお坊ちゃま&名門男子高出身で、すぐ上の先輩にエド山口・モト冬樹兄弟、グッチ裕三がいたというのが笑わせる。 僕が知っている彼の伝説はこういう話。渡辺は高校時代にベンチャーズに憧れ、ギターを始めた。やがてジャズに傾倒しみるみる上達すると、当然学業がおろそかになる。何しろ人も羨む名門校である。将来を心配した親が、近くの有名なギタリストのところに連れて行き、ギターを辞めるよう説得してもらおうとした。「プロの世界は厳しい。あきらめろ」と。しかし、渡辺のギターを聴いたそのギタリストはビックリ仰天。逆に「この子はギタリストになるべきだ!」と親を必死に説得し、その場で弟子にしたという。その才能を見出した師匠こそジャズギターの名手中牟礼貞則である。 Kazumi Watanabe/Bill Brufford(the Spice of Life)Taken from the Spice of Life concert | 圧巻! | ||||||
山下洋輔 ピアニスト。60年代からアバンギャルドな奏法で世界をあっと言わせている。1988年山下洋輔ニューヨーク・トリオを結成。国内のみならず世界各国で演奏活動を展開。世界中のジャズ・ファンから圧倒的な支持を受ける。タモリや赤塚不二夫・筒井康隆との仕事?が面白かったものだ。 山下洋輔 vs 池辺晋一郎 ピアノ・セッション | |||||||
PE'Z 和楽器を使った異色ジャズバンド。「サムライジャズ」として中南米など世界33カ国でCDが発売されている。 公式サイトはhttp://www.worldapart.co.jp/pez/ | |||||||
小曽根真 ジャズピアニスト。バークリーのジャズ作・編曲科を1983年首席で卒業、同年カーネギー・ホールでソロ・ピアノ・リサイタルを開く。この時の観客クインシー・ジョーンズに見出されてCBSと日本人初のレコード専属契約を結び、アルバム『OZONE』にて全世界デビュー。ゲイリー・バートン(バイブ奏者)とのコラボが有名でアルバム『ヴァーチュオーシ』が第45回目のグラミー賞The Best Classical Crossover Albumn部門にノミネートされた。 公式サイトはhttp://www.makotoozone.com/ Gary Burton & Makoto Ozone - K20 | |||||||
その他 レコード・CDのジャケットデザイナー、カメラマンなど | |||||||
長岡秀星 1936年生まれ。イラストレーター。武蔵美術大学中退。学生時代より本名秀三名でエアーブラシを使った精密画で学習図鑑やメカ構造図、未来予想図などの仕事を多くこなしていた。1970に渡米、秀星と改名。ハリウッドでレコードジャケットや映画のポスターのイラストの他、自動車の広告・図解など多数手がけている。ジェファーソン・スターシップのプラチナアルバム『スピットファイア』のジャケットイラスト、エレクトリック・ライト・オーケストラ『アウト・オブ・ザ・ブルー』、カーペンターズ『ナウ・アンド・ゼン Now & Then』、アース・ウインド&ファイア『太陽神』『黙示録』、ディープ・パープル『When We Rock, We Rock & When We Roll, We Roll』の他、シャーデー、喜多郎など多数。1982年、星雲賞アート部門受賞。 ともぞう様より以下情報いただきました。ありがとうございました! はじめまして。 地元を大事にする彼はきっといい人ですね!
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ハービー山口 ロンドンを活動拠点とし、多くのミュージシャンの肖像を撮っているカメラマン。『London』(流行通信社)という写真集にはロバート・プラントやボーイ・ジョージ、ロバート・フリップらの写真が含まれている。一時ツトム・ヤマシタの劇団で役者をしていたそうだ。 | London―After the dream | ||||||
浅沼ワタル 1971年に渡英、1983年までロンドンに住み、ブリティッシュロックの大物ミュージシャンを撮り続けたカメラマン。もともとはモータースポーツなどを手がけていたが、ビートルズの公式カメラマンでこの道のボスみたいな存在だったデゾ・ホフマンをたまたま紹介され、以来多くのミュージシャンたちと親交を結びつつステージだけでなくプライベートな写真を撮った。特にスティングとはポリスのデビュー時代からの友人で家族ぐるみの付き合いがある。キース・ムーンの生前最後の写真も彼による。最も有名なのはエリック・クラプトンの傑作アルバム『スローハンド』のジャケット写真。これはスタジオ撮影ではなく、英国ニューカッスルでのライブで撮ったものだそうだ。これには後日談がある。浅沼の息子がスティングの屋敷に遊びに行った時、偶然クラプトンも遊びに来ていて初めて出会った。帰る時にクラプトンが車で送ってくれた(それにしてもうらやましい)。車の中の雑談でクラプトン「君のお父さんはカメラマン?知らないなあ」、息子「そんなはずはないんだけど…」、クラプトンは不思議がるので「『スローハンド』のジャケット写真を撮った男だよ」と話すとクラプトンは仰天していたそうだ。 | |||||||
鋤田正義 デビッド・ボウイの『英雄夢語り』のジャケット写真を手がけたカメラマン。映画・CMのカメラマンとしても有名。『餓鬼魂』などの映画監督としても活躍。他にT.REX、映画『ミシマ MISHIMA:A Life in Four Chapters』(ポール・シュレーダー監督)、『ミステリー・トレイン』(ジム・ジャームッシュ監督)のスチール、日本のアーティストでは沢田研二、土屋昌巳、サディスティック・ミカ・バンドなどがある。 で、鋤田正義さんについてTK様より情報いただきました。 有名カメラマンの鋤田正義さんですが『餓鬼魂(がきだま)』というビデオ映画の「監督」をつとめています。ご存じでしょうか? 原作・夢枕獏、脚本・大和屋竺、音楽・井上鑑と、豪華スタッフでしたが、作品は…。 以上、ガイシュツでしたらすいません。失礼しました。 ありがとうございました。これなぜか僕ビデオ持ってます。特撮部分は今見るとチャチで見ていられませんが、画面の陰影の付け方などはさすがカメラマンだけあってかなり上質な「ホラー」ですよ! | 気―デビッド・ボウイ写真集 | ||||||
横尾忠則 1936年生まれ。日本を代表する画家、イラストレーター。 サンタナの代表作『アミーゴ』、ライヴ盤『ロータスの伝説』のジャケットデザインなど世界的に有名。三島由紀夫、大島渚や、寺山修司、唐十郎ら劇団のポスターなどの仕事も後世に大きな影響を与えている。81年に画家宣言。 公式サイト | |||||||
空山基 1947生まれ。画家、イラストレーター。広告代理店旭通信社(現ADK)制作部を経て72年に独立。1978年にエアーブラシを使用しスーパーリアリスティック技法でメタリックな女性型ロボットや金属をモチーフとした作品を発表。80年ごろからその独自なエロティシズムは世界的に評価されている。99年にはソニーの犬型ロボットAIBOのコンセプトデザインを手がけた。2001年、エアロスミスのアルバム『ジャスト・プッシュ・プレイ(JUST PUSH PLAY)』のジャケットに『Sexy Robot #22』が使用された。 | ロボットというか… | ||||||
貞本義行 1962年、山口県徳山市(現・周南市)出身。アニメーション制作会社ガイナックス所属。アニメ『王立宇宙軍〜オネアミスの翼〜』『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』などのキャラクターデザインや原画を手がけた。漫画家やイラストレーターとしても活躍。たまたま来日したエリック・クラプトンが書店で貞本の本を気に入り、『ピルグリム』のジャケットデザインを依頼した。 | |||||||
ポップス、歌謡曲、ロック系アーティストはパート1へ | |||||||
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