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| 参考資料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日・欧の背景 15世紀以来、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、ポルトガル、スペイン、イギリス、イタリアなど列強諸国はアフリカ、南北アメリカ、アジアに次々と進出。各地を植民地化していった。また同じ頃にルターやカルヴァンの指導で起こった宗教改革によって、"旧勢力"のカトリックはプロテスタントなどの新教側に圧迫されたため、布教の新天地をこれら非ヨーロッパ諸国に求めていた。1549年、イエズス会のザビエルが来日、日本での布教を始めて以来、キリスト教は急速に日本に広まった。山口の大内義隆をはじめ、豊後の大友宗麟(義鎮)、肥前の有馬晴信、高山右近、小西行長ら有力大名が次々と入信。彼らはキリシタン大名と呼ばれ、キリスト教を厚く庇護した。ザビエルの後を継いだビレラ、ルイス・フロイスらは将軍足利義輝や織田信長から布教の許可を貰い安土に南蛮寺を建てるなど本格的な布教に乗り出した。1579年にはイエズス会の宣教師・バリニャーノが来日。大友宗麟の茶席に呼ばれたバリニャーノは、宗麟が難解な「禅」を理解する知識人であり、キリスト教の神学論をも解釈したのを知って、これまで彼の見てきた他のどこの国の民族よりも日本人が優れた民族であることを悟る。そして先任のカブラルが日本人を侮蔑し差別的な扱いをしているのを批判、彼と代わって本格的な布教を開始。1580年には宣教師教育機関であるセミナリオ、コレジオ、ノビシャドなどを設立、西洋人には日本語を、日本人には外国語と神学を学習させ、優秀な人材の育成に務めた。 まもなく、バリニャーノはこれらの成果をローマ教皇や本国の王に示したいと考え、日本の大名または貴族を直接ヨーロッパに遣わすことを思いつく。彼は大友、大内、有馬の3大名に諮るが、その結果、彼らの名代を選んで使節としてヨーロッパに送ることを決定した。 使節に選ばれた4人とは バリニャーノは長崎・島原半島に設立したキリスト教の学校・セミナリオの第一期生22人の中から4人を選んだ。セミナリオでは毎日7時間近く神学やラテン語を講義していたが、その中でも成績が優秀でいずれも13歳から14歳の少年で、キリシタン大名と密接な関係のある者であった。 正使・伊東マンショ:日向の領主・伊東氏の一族に生まれた。しかし8歳の時薩摩・島津氏との戦いに破れ落城、父を失い孤児となり、遠縁だった大友宗麟の領地に逃れ、そこで宣教師に出逢い、洗礼を受けた。 正使・千々石ミゲル:生まれてすぐに千々石の領主だった父が戦死。母と共に従兄のキリシタン大名・有馬氏のもとで育つ。 副使・中浦ジュリアン:小佐々水軍の一族に生まれるが、父が戦死し大村氏のもとで育つ。 副使・原マルチノ:キリシタン大名大村氏の家来・原中務の子で大村の地で育つ。 以上のように4人はすべてキリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の縁者であり、実に4人のうち3人が戦で父を失っているという境遇の者たちだった。 使節団の目的 バリニャーノの手紙によると「使節派遣の目的のひとつはキリスト教の栄光と偉大さを日本人に分からせること。そして少年たちに進んだ西洋世界を見せることで日本での布教活動をよりスムーズにさせるためである」としている。13、4歳の少年を選んだのは、「若い少年たちは好奇心が強く、より吸収が早い。何年にも及ぶであろう過酷な旅にも耐えられ、帰国後はより長く布教活動が続けられるだろう」という理由からである。 渡欧から帰国までの出来事などを時系列で紹介(日付は西暦)
関係者 バリニャーノ「日本史に登場する外国人」をご参照ください 大友宗麟「外国に渡った日本人」をご参照ください 有馬晴信「外国に渡った日本人」をご参照ください 大村純忠「外国に渡った日本人」をご参照ください フェリペ2世(1527〜1598) スペイン国王でポルトガルも併合し両国王となる。イングランド女王やフランス国王の娘と結婚し、全ヨーロッパのみならず、世界の制海権を握りアフリカ・インド・アジア・南米に広大な植民地を有する専制君主であった。「フィリピン」の国名は彼の名に因む。また、熱心なカトリック信者でありバチカンを支援していた。 グレゴリウス13世(ローマ教皇)(1502〜1585) 在位は1572〜1585)16世紀の反宗教改革運動と教会の内部改革を行った。1582年、従来のユリウス暦を改め新しい暦「グレゴリオ暦」を採用(これは現在まで世界各国で採用されている西暦である)。日本の4少年と接見した時は83歳という高齢であった。 ジョルジェ・ロヨラ(?〜1589) 日本人の修道士だが日本名は不明。使節の少年たちとほぼ同年代で教育係としてヨーロッパに同行した。リスボンで印刷技術を学ぶ。使節に伴って帰国の途中、マカオで秀吉のバテレン追放令を知り足止めを食らう。1589年9月、そのマカオで客死した。 | 大友宗麟 (人物叢書) 少年が歴史を開いた―伊東マンショ・その時代と生涯 (みやざき文庫 51) 千々石ミゲルの墓石発見―天正遣欧使節 (長崎文献社の歴史叢書) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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