大津事件(日本外交史外伝)
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大津事件
1891年(明治24年)5月11日、来日中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した暗殺未遂事件。湖南事件、大津事変ともいう。このページは大津事件が起きた背景やその後日本に与えた影響などを特集したものです。
なお、このページを作成するにあたり、一番参考にした本は『NHK歴史への招待4 露国皇太子遭難・他/山本七平他/(日本放送出版協会)』と吉村昭のニコライ遭難 (新潮文庫)』、野村義文著『大津事件―露国ニコライ皇太子の来日』、ドナルド・キーンの『明治天皇〈1〉〜(4) (新潮文庫)』。


左の写真は事件直前の皇太子の肖像写真。


事件の背景
事件が起きた1891年(明治24年)といえば明治維新から20年を経てようやく日本も近代的な工業や産業を花開かせ、また国会や憲法も2年前に成立し、日本が「近代国家」として西洋諸国にも存在が認められ始めた時期であった。
「恐ろしい国=ロシア」
日本海を隔てた隣国ロシアは17世紀初頭にロマノフ朝によって帝国となり、ピョートル大帝が近代化帝国主義を進めた結果、列強として世界に君臨する大国となった。そしてさらに東アジアや中東諸国を支配すべく虎視眈々と狙っていた。1792年、鎖国中だった日本に対しエカテリーナ女帝は日本の漂流民大黒屋光太夫らを帰国させるという名目でラックスマンを根室に、1804年にはレザノフを遣日全権大使として長崎に派遣し通商を要求した。しかし当然ながら幕府に拒否され一時断念。しかしロシアはさらにゴローウニン(1811年)やプチャーチン(1853年)らを派遣するなど強硬に日本との国交・通商を目指していた。その後ニコライ1世が皇帝に即位し、専制政治を開始するとまず軍の整備を進め、ヨーロッパにおいてはポーランドやハンガリーなども支配下に収めた。当時無敵と言われた海軍と、最強と畏れられた陸軍を持ち、何とロシアはその当時全世界の陸地のおよそ6分の1を占領する超大国であった。
日本人はこれまでのロシア人の強硬な来航事件から、日本はこの大国に占領されるのではないかと考え、国名ロシアをもじって「おそろしあ国=恐ろしい国」というイメージを抱くようになった。当時「恐露病」という言葉が流行するほどロシアを極端に恐れる人々が庶民のみならず政府・政治家らにも多数いたのである。また、1890年(事件の前年)には東京・駿河台にロシア正教の教会、コンドル設計によるニコライ堂が建設され、その威容に市民は圧倒されていた。

事件のいきさつ1(皇太子の日本訪問とは)
ロシア皇帝ニコライ1世の息子アレクサンドロビッチ・ニコライ2世(以下皇太子)は、専制君主として恐れられた父から幼い頃から帝王学を学び育ったが、生来優柔不断で実行力に欠け、いかにも頼りないお坊ちゃまであった。容姿端麗で国民からは人気があったが、帝室バレエ団のプリマドンナ・クシェンスカと恋に落ち、逢引きを重ねるなどスキャンダルも起こしていた。そんな皇太子を父は常に歯がゆく思っていた。1891年3月17日、父皇帝は皇太子に極東巡察を命じた。主な目的としてはロシアが総力を挙げて建設を進めていたシベリア横断鉄道の起工式への臨席であったが、極東各国を視察させることで弱冠24歳の皇太子に将来の帝王としての自覚を持たせ、かつロシアの国力を世界に知らしめるという二重三重の効果を期待してのことだった。一行には側近や医師、警護に当たる将校ら軍人、シベリア鉄道建設に従事する工兵1,400人らも同行。皇太子はロシアの首都ペテルブルグを王室列車で発ち、オーストリアを経て、アドリア海・トリエステ港で旗艦アゾバ号に乗って、ギリシアの第二皇子で皇太子の従兄弟にあたるジョージ(ゲオルギオス)親王を誘って、先鋭軍艦7隻とともにギリシアを出航、スエズ運河、インド、シンガポール、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、香港を回り、漢口から最後の訪問国として日本が計画された。日本では長崎に到着、およそ1ヶ月滞在し、九州、神戸・京都・琵琶湖など関西各地、東京そして青森を回る予定であった。東京では霞ヶ関の有栖川宮邸に滞在、明治天皇との面会をはじめ、宮中舞踏会などさまざまな歓迎式典が準備されていた。日本を出てからはウラジオストクに行き、シベリア鉄道の起工式に臨席することになっていた。

事件のいきさつ2(日本の反応)
この訪問の知らせを受けた日本ではさまざまな憶測が飛び交った。シベリア鉄道こそロシアの極東進出策であり、皇太子の訪問は日本占領のための下見であるという説がまことしやかに囁かれた。例の「恐露病」がその根底にあった。しかしともあれ、外国の元首に近いVIPが日本に正式訪問し首都以外の各地を訪問するのは史上初の事であり、国家としての正式な歓迎行事はもちろんのこと、訪問先として選ばれた各地でも、県や市をあげて失礼がないように、また皇太子を喜ばせるための様々な歓迎儀式を予定した。当然、事件や事故を未然に防ぐため警備なども厳戒態勢が敷かれた。何しろこのたった数十年前の日本では攘夷運動が盛んで生麦事件や大使館焼き払い事件が起きていたのだから。どこにその残党がいるやもしれない。また、西南戦争を生き延びて密かにロシアに渡った西郷隆盛(当時は逆賊)が皇太子とともに帰国するのではないか?というデマも飛び交った。

以下事件のあらましなどを時系列で紹介
以下すべて1891年(明治24年) すべて敬称略
ロシア帝国政府から皇太子来日の予定が発表される。明治政府は接件委員長として皇族の有栖川宮威仁親王(イギリス留学経験があり外国通であり、ヨーロッパ歴訪の際、ロシアを訪問、皇太子と親しく接していた)、接件掛長として川上操六陸軍中将(ドイツで兵学を学んだ経験有)らを任命。訪問先として予定された府県・都市では全市民をあげての歓迎行事を予定した。
4月27日
午前9時
旗艦アゾバ号に搭乗した皇太子は他の軍艦ナヒモフ号、モノマフ号など6隻とともに長崎港に到着。日本側は有栖川宮が乗る軍艦「八重山」、「高雄」などが長崎湾に停泊し、皇礼砲で迎えた。ロシアの工兵たちからは「ウラー!」という歓声が沸き、港内に鳴り響く。
しかし、5月3日がロシア正教の復活祭に当たるためそれまで皇太子は斎戒のため公式行事を避けることになっていたため、派手な行事などは行わず、港はひっそりとしていた。
4月28日 長崎県知事官邸で有栖川宮やロシア駐日大使シェーヴィチらが集まり、皇太子の安着を祝う挨拶が交わされた。非公式だが、有栖川宮は皇太子に呼ばれたためアゾバ号に赴き、皇太子と久々の対面を果たし、午餐を共にした。有栖川宮が退艦して間もなく、今度は皇太子がお忍びで上陸したいとの申し出があり、日本側は大慌てで警備体制を敷いた。14時、変装した皇太子とジョージ親王と日本語に堪能な侍従武官の3人が上陸、彼らは人力車に乗り込み、長崎市内の鼈甲屋、骨董品店・出島の陶器店、勧工場(商品市場)などに立ち寄り、日本の珍しい商品を買い漁った。もちろん日本の私服警官が皇太子らと距離を置いてそれとなく警戒していたが、店員や市民は皇太子たちの正体には気づかなかった。17時、アゾバ号に帰艦。
4月29日長崎県知事官邸にロシア駐日大使シェーヴィチが訪問、港内に停泊のロシア艦が陸から遠すぎて資材の運搬に日露双方の係に支障があり、もっと陸に近くに移したいと皇太子自らが望んでいると告げた。その後、再び皇太子がお忍びで上陸(この時はジョージ親王は別)。漆器商、勧工場に行き、再び細々した工芸品・美術品を買い漁る。この時までに購入したのは鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼の花瓶、竹杖、吸物椀、香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など。この時ある店で、皇太子は11,2歳の少女が簪(かんざし)を眺めているのに気づき、豪華な飾りのついた簪を買ってあげている。
続いて親王が上陸。親王は写真師上野彦馬のところで長崎訪問の記念写真を撮ってもらった。その後短艇に乗って稲佐郷に向かった。ここには幕末以来来日するロシア人相手の料理店や娼館などがあり、ロシア語に達者な日本人も多くいてさながらロシアの租界のような場所になっていた。ジョージ親王は22時過ぎまでここでくつろぎ、アゾバ号に戻った。
4月30日この日も皇太子がお忍びで上陸するという連絡が入り、長崎警察署の私服警官が護衛のため波止場に向かった。皇太子は親王から話を聞いたらしく上野写真館に向かい、人力車に乗った写真を撮ってもらう。この写真は現在も残っている。続いて皇太子は稲佐郷に向かった。ここではすでに皇太子という身分は公けにしていたため、土地の者や滞在していたロシア人たちから歓迎を受けた。皇太子はロシア人墓地を訪れチャペルを礼拝、花を手向けた。次にロシア人の御用商人松森栄三郎方を訪問し、松森に刺青師をアゾバ号に寄こすよう依頼する。その夜、松森は二人の刺青師を連れて皇太子のもとに行き、見本を見せると皇太子は龍の図柄を選び、ジョージ親王と二人の仕官も同様に腕に刺青をするように希望した。仕上がりに皇太子らは大いに満足し、料金は5〜6円が相場であったが25円も渡したという。因みに巡査の初任給(月給)が8円の時代である。
5月1日〜3日歓迎式典のための準備が長崎全市民を挙げて準備される。長崎県警による警備も万全に整った。
5月3日夕方、県警に芸舞妓5人が稲佐郷のロシア将校休憩所に招かれたという連絡が入る。皇太子と親王がこの夜、稲佐郷に向かうことが判明。警備のため私服警官が密かに送られる。午後9時過ぎ、皇太子ら10人ほどのロシア人たちが休息所に入り、宴会が始まった。ここにはウラジオストクで9年も暮らしロシア語が堪能なお栄という女性がおり、皇太子を「懇ろに接待」した。午前0時、皇太子らは料亭ボルガの2階寝室に。彼らがアゾバ号に戻ったのは翌日午前4時ごろであった。
5月4日午前10時ころ、皇太子が正式に長崎を訪問。大雨の中、有栖川宮、接件掛川上中将、中野長崎県知事をはじめ長崎在住の議員、各国の領事ら要人が並んで迎えた。かがり火と花火は雨のため中止となったが長崎市民による様々な歓迎式典が行われた。夕方、皇太子はアゾバ号に帰艦。
5月5日午前11時、再び皇太子は長崎に上陸。ロシア領事館でくつろぐ。午後3時頃皇太子は大勢の要人や市民の見送る中長崎を出航、鹿児島に向かう。長崎から神戸や京都にも行く予定だったのに何故わざわざ遠回りして鹿児島に行くのか、様々な憶測が飛び交った。そのひとつが「いきさつ2」でも挙げた「西郷隆盛生存・帰国説」である。もしかしたらロシアは西郷を故郷の鹿児島に送り届けるのではないか?と真面目に考えた者がいたのだった。しかし実際はロシア皇帝に招かれたシーボルトから日本の実情を聞いていて、彼から日本で最も西洋文明を吸収しようと務めていたのが薩摩藩であることを教わった。そのため皇太子は鹿児島に興味を持っていたのだった。
5月6日山県有朋が総理を辞任。松方正義、首相兼蔵相に任命され、第一次松方内閣を組閣
5月8日午前8時頃、アゾバ号が鹿児島港に到着。有栖川宮は一足早く上陸し、山内県知事、島津忠義公爵とともに皇太子と親王を迎えた。市内の沿道には長崎と同様に要人や市民が並んで歓迎した。鹿児島ではまだ江戸時代のしきたりや習慣が残っていたが、島津公らの考えでそうした旧きよき日本を見せようと考えた。島津家では丁髷を結い鎧兜を着用した170人のサムライが迎えた。また旧薩摩藩弓術指南役の老人が弓矢を披露するなどして皇太子らを大いに楽しませた。また島津家代々の鎧兜・刀・絵画・古薩摩の皿などの逸品が皇太子に献上された。夕方、皇太子はアゾバ号に戻り、18時ごろには鹿児島を出港した。
5月9日アゾバ号は長崎沖を北上し、玄界灘を経て午前8時頃関門海峡から瀬戸内海に入る。下関・門司両岸には歓迎の市民が並び、花火が上げられた。
正午ちかく、アゾバ号が神戸に到着。ここでも有栖川宮が先導になって兵庫県知事・神戸市長らとともに出迎えた。宮内庁御用邸で休憩の後、皇室がニコライ皇太子ら歓迎のために特別に作った人力車が用意され、一行はこの人力車で神社など神戸の名所を巡った。沿道には衆議院議員、県会議員ら要人や市民が並んで歓迎した。楠木正成を祭った湊川神社で皇太子は日本刀を献上された。夕方、神戸停車場からお召し列車で京都に向かう。18時20分京都七条停車場に到着。山階宮・久邇宮親王、京都府知事らが出迎え、多くの市民の歓迎と、天皇警護に準ずる大規模な警備体制の中、人力車に乗った皇太子一行は宿泊先の京都・河原町の常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に向かった。ホテルの部屋は新築されたばかりの洋室と、旧館の和室が用意されたが、皇太子は和室を選んでここを寝室にした。夕食の時、季節外れの五山送り火が行われ、山に浮かび上がる「大」の字に皇太子は大感激した。21時半、皇太子・親王と有栖川宮らはお忍びで祇園へ。芸妓や舞妓と宴会。その席で皇太子は舞妓に刺青を見せるなどして2時まで楽しむ。
5月10日朝から知事らの案内で人力車で京都市工業物産会に向かう。象牙などの工芸品約1万円を購入。その後大宮御所で蹴鞠、小笠原流の射術、加茂儀式の競馬十番などを見学。午後は西陣織の工場、西本願寺、東本願寺を見物。知恩院や清水寺も見学の予定だったが夕刻になってしまったため中止してホテルに戻った。この夜も皇太子、ジョージ親王らはお忍びで円山へ。芸妓らと午前2時ごろまで過ごす。
5月11日8時半、一行は琵琶湖遊覧のため人力車で滋賀県大津市へ(約6キロの距離)。三井寺見学、琵琶湖で汽船保安丸に乗って湖上遊覧、その後滋賀県庁での昼食をすました。

午後1時30分
一行は宿泊先の常磐ホテルに戻るため四十両の人力車の列を連ねて滋賀県庁を出発。沿道には皇太子を一目見ようと市民が押し寄せ、この日のために召集された滋賀県警の警官168人が十間ごとに並び、行列の進行につれて移動していた。
一行がまもなく京町通りの津田岩次郎宅前にさしかかったところで、沿道警備に当たっていた警官の1人津田三蔵が、自分の前を皇太子の人力車が通過するのを敬礼で見送った後やにわに持っていたサーベルを抜いて、皇太子に背後から斬りつけた。刃先は帽子を裂き、皇太子は右のこめかみから前に傷を負った。悲鳴をあげて逃げる皇太子に犯人・津田はさらに一太刀を浴びせる。人力車を飛び降りて西の方に逃げた皇太子を追いかけるが、ジョージ親王も人力車を降りてその日に土産物として買い持っていた竹杖で津田に応戦。ひるむ犯人を人力車を押していた車夫・向畑次三郎が足に組み付いて引き倒し、さらに親王の車夫・北賀市市太郎が津田の落としたサーベルで津田の背中を斬りつけた。そこに周りの警官が集まりようやく犯人を取り押さえることができた。
皇太子は数メートル先の永井長助呉服店に逃げ込み、床机に座って手当てを受けた。傷は頭部右こめかみに2ヶ所。ひとつは前から後ろにかけて長さ9センチ、深さは骨に達していた。もうひとつはその下で長さ7センチ深さ骨膜に達するほどの重傷であったが、命には別状はなく、手当てを受けながら、介護で付き添う有栖川宮に向かって「今日はからずも1人の狂人のために微傷を負いましたが決して貴国を悪くは思っていません。京都で2、3日治療すれば全治するでしょう。早く東京に出て天皇陛下にお目にかかりたい」などと語ったという。

午後2時30分
接待に当たっていた滋賀県知事・沖守固が松方正義総理らに「露国皇太子殿下、只今当地御立チノ途中、大津町ニ於テ、路傍配置ノ巡査一名抜剣、皇太子殿下ノ御額ヘ切付ケタリ」云々の第一報を電文で送る。
沿道にいた人々は事件発生と同時に「ロシアと戦争になる!」と叫んで家に逃げ帰り、戸を閉め切って震えていた。そんな騒動の中、皇太子は一度滋賀県庁に戻りしばらく静養をした後、一行とともに列車で京都の宿舎である常磐ホテルに戻った。
5月11日
夕方〜夜
事件はたちまちに中央に伝えられた。明治天皇には午後2時半ごろ土方宮内大臣から事件を知らされた。天皇は直ちに皇太子に遺憾の電報を打ち、さらにロシア皇帝にも親電で事件を報告した。そして皇族の代表として北白川宮親王を京都に向かわせた。また宮内省の侍医局長・池田謙斎、海軍軍医総監・高木兼寛の2医師も伴わせた。その直後、天皇のもとに政府の重鎮が集合、御前会議が開かれ、重い空気の中、対ロシア政策が検討された。ひとまずは天皇より軫念(しんねん)の詔勅が下り、深夜の臨時列車で青木周蔵外務大臣、西郷従道内務大臣が京都へ出発することになった。箱根塔ノ沢温泉で静養中だった伊藤博文(前・総理、宮中顧問官)の元には岩倉具視・松方正義総理から電報が届けられ、伊藤はただちに上京、深夜の3時頃、天皇の御寝所で「事件の解決に努力せよ」との命を受けた(伊藤博文日記)。
午後10時すぎ、皇太子はロシアの侍従軍医長スミールノフの治療を受け、軽い食事をとって就寝。容態は逐次宮内大臣に電報で報告された。また、政府は事件の重大さを鑑み、新聞原稿の検閲を行うことになった。
5月12日
午前6時38分〜
明治天皇、自ら新橋駅午前6時半発の臨時列車で京都に向かう。神戸港に停泊中のロシア軍艦に静養中の皇太子を見舞うためである。天皇の予定にない出御は異例中の異例。

午前10時すぎホテルに到着した北白川宮、有栖川宮が皇太子を見舞う。皇太子は「天皇の好意に感謝している」と伝え、「常と変わらぬ状態である」とにこやかに答えた。その後池田・高木両医師が皇太子の診察を願うが、侍医スミールノフから静養が第一であり面会を好まないと拒否される。
他に小松宮などの皇族、華族代表、元老、衆議院議員総代、全国の各県知事、東京市などの代表が慰問のため続々と神戸へ向かった。
新聞などでこの事件が一般市民にも伝えられ、見舞いの手紙、電報が大量に発せられた。寺や神社、教会などでは御負傷病魔退散の祈祷、長い祈りが捧げられた。東京市内の学習院などは2日間の休学、東京米商会所、株式会所なども哀悼の意を表して休業、銀行は戦争勃発を恐れて貸し出しを停止。また芝居小屋・新富座、相撲など諸興行物も休業、遊郭、茶屋・料理屋・芸妓なども鳴物を謹慎した。山形県金山町では犯人津田三蔵と同じ「津田」姓と「三蔵」名を付けることを禁じた。
松方正義首相らは会合し、犯人津田三蔵を死刑にする方針をまとめる。

明治天皇を載せた特別列車は午後9時15分に京都停車場に到着。当時の東海道線は単線だったので上りの汽車とすれ違いさせるのが大変であった。それでもほとんど停車することなく通常より3時間早く着いた。天皇はロシア公使シェーヴィチにすぐにホテルに見舞う旨を伝えるが、「皇太子が天皇陛下のお見舞いを受けるとなれば正装してお迎えせねばならず、夜間のご静養中の身として誠に辛く、医官も心配です。どうかご慰問は明日に御延期いただきたく存じます」云々と告げ、天皇は予定を変えて京都離宮に向かった。
5月13日京都に到着した明治天皇、早速皇太子を見舞い朝食をともにする。天皇は深く遺憾の意を表し、ロシア本国の皇帝・皇太后陛下に同情の意を表した。また、犯人の早急な処罰を約束し、皇太子が回復後は東京へ来てもらいたいなどと告げると皇太子は「陛下をはじめ日本国民皆に感謝している」との言葉を述べた。しかし午後になって皇太子は、本国の母・皇太后の命令でアゾバ号に引き返して静養することが決定。神戸港に停泊の旗艦に戻るため、列車で神戸へ。明治天皇は伊藤博文を公使シェーヴィチのもとに遣わし、皇太子を何とか日本に留まるように説得させたが、公使は涙ながらに「殿下は東京に行きたがっているが、皇太后陛下の命には逆らえず、せめて天皇に神戸まで送ってもらえないだろうか」と懇願した。明治天皇はそれに応えることにした。京都駅では手をとってお召し列車に乗せ、タバコに火をつけるなど丁重にもてなした。厳戒態勢の警備の下、神戸まで同行。アゾバ号に乗り込むまで見送った。
5月15日ロシア皇帝ニコライ1世、皇后より、明治天皇・皇后宛に謝電が来る。御前会議で犯人津田三蔵に対し極刑処罰論が大勢を占めた。全国からの見舞い状が兵庫県庁に1万枚以上殺到し、翻訳作業にてんてんこ舞い。
5月16日皇太子、皇帝の命令で一切の予定を中止し帰国が決定。明治天皇は最後のお別れに神戸御用邸での午餐に招待するが、健康上の問題と、警備への不安からロシア側がこれを辞退、代わりに皇太子はアゾバ号に天皇を招く。天皇は親王らを連れて午後二時まで皇太子と友好に過ごした。公使シェーヴィチは「天皇があれほど高声に談笑するのを聞くのは初めて」と後に語っている。
一方、犯人津田を取り押さえた二人の車夫がロシア軍艦に招かれ、ロシア側の希望で法被股引姿で皇太子の前に立ち、聖アンナ勲章を賜った。そして2,500円(現在の五百万円相当)の一時金と毎年1,000円という終身年金を下賜された。また彼らは日本政府からも勲八等・白色桐葉章を賜り年金36円を賜った。二人の車夫は国民的英雄に奉られ、日本中から記念品の贈呈や歓迎の招待を受けることとなった。
5月18日
午後7時
京都府庁前で東京の住み込み女中・畠山勇子(27歳)、帯で足を縛り、剃刀で喉と胸を切り裂いて自殺した。ロシア・日本両政府に宛てた遺書には「日本国人の思ふ事小女(わたくし)に同じ故に、日本帝国へ此心をあらはす為此度に至り候間御察し被下度候」とあり、自分の死を持って贖罪することを願っての行為だった。
5月19日皇太子一行の乗るロシア艦隊が神戸港を出港、ウラジオストックへ去る。大審院長児島惟謙、犯人津田に対して謀殺未遂罪の適用を首相・法相に意見書として提出。
5月27日大津地裁で大審院公判が開かれ、津田三蔵に無期徒刑の判決が下る。
5月28日政府当局による新聞原稿に対する検閲を解除。
5月29日青木周蔵外務大臣、引責辞任。この頃事件で延期させられていた各地の行事・式典・祭りなどが再開される。
9月29日北海道釧路集治監に送られていた津田三蔵、肺炎で死去。

犯人津田三蔵について
津田は1855年三重県・伊賀上野で津藩士の子として生まれた。1877年、西南戦争に政府軍として従軍し大きな功をあげて勲七等が授与されている。その後滋賀県の巡査、陸軍軍曹となる(ただし事件後は巡査を免職と同時に勲章も剥奪)。犯行当時37歳。凶行の理由を「露国皇太子は”大逆無礼”の人物であり、しかもわが日本を横領しようという野心を持っている。生かして返すことはできない」と思い、日本刀の切れ味を試したなどと語った。「西郷隆盛が生きていてロシアに隠れていて、皇太子訪日と同時に日本に帰ってくる」という噂を真に受けて、西南戦争での武勲も取り消されるのではないかと恐れて凶行に及んだという説もあった。しかし津田には精神病歴もあり計画的な犯行ではなく、突発的なものであったため、極端な「恐露病」による脅迫観念によってノイローゼ状態になって行ったものとみなされている。
逮捕後は取り押さえられた時に車夫に斬りつけられた背中と後頭部の傷はなかなか癒えず苦しんだ。
5月の裁判後、無期懲役となった津田は北海道の釧路集治監に送られた。本人は獄中で「朝廷や社会に対し恐れ多い罪を犯してしまった」とひどく反省し、また日露関係の悪化を懸念して不安の色が濃く、常に自殺を望んでいた。しかし、彼は日露の国交に絡んだ重要人物とされたため、手厚く看病され、食事も当時高価だった鶏卵や牛乳が与えられた。また、暴漢が命を狙っているという噂もあったため看守が厳重に監視した。他の囚人とは別の好待遇ではあったが、彼の精神の不安定が続き、同年9月上旬から悪寒・発熱が始まり、すぐに喀血・呼吸困難などが発症、それが続くようになり、9月26日には危篤状態、そのまま急性肺炎で獄中死した。この死についても後年謀略説なども囁かれた(死に至る詳細は吉村昭『ニコライ遭難』に詳しい)。墓は故郷の三重県伊賀市大超寺にある。幼児の墓のように極めて小さい墓石とのことである。

司法権の独立
5月12日、松方正義首相、山田顕義法相、伊藤博文貴族院議員議長、西郷従道内務大臣ら内閣は、ロシア政府への謝意を明らかにするため「皇室に対する罪(刑法第百十六條・天皇三后皇太子に危害を加えた者は死刑))」を適用するという、大日本帝国憲法を無視した超法規的措置として犯人津田三蔵を死刑に処す方針を固めた。しかしこれに対して大審院長児島惟謙ら裁判所側は、憲法で保障されるべきとして司法権の独立を主張。すなわち「刑法二百九十二條及び刑法第百十二條」の適用により、犯人は「謀殺未遂罪」に当たり、無期徒刑相当であるとして対立した。松方も児島も5月6日に現職に就いたばかりであった。「日本と外国の皇族を法律上一緒に出来ない、法律の尊重こそが近代国家として国際社会に伍していく途だ」と主張する児島、「法律にとらわれることは国家を危うくする」と迫る山田との論争は続いた。日本国内の大半はロシアを畏れて「津田死刑にすべし」という意見だった。何しろ憲法はこのわずか半年前の1890年(明治23年)11月29日に施行されたばかりなのである。日本の国情に合うように苦労して研究を重ね、ようやく発布した憲法を無視していいのか?
しかし、当時まだ憲法を正しく理解していた者すらほとんどいなかったという時代であった。
5月27日、大津地方裁判所で津田三蔵の公判が開始された。内閣は西郷内相、山田法相も出張させ、圧力をかけた。検察側検事総長三好退蔵は当然内閣の意を受けて死刑の論告を行った。裁判長は大審院部長判事堤正己。…結果、津田には法律どおり「無期徒刑」の判決が下る。これは「司法権の独立」を守った歴史的な事件として後世に残ることとなった。しかし、実は「大審院」で行われた裁判自体が「違憲」であった。大審院とは今の最高裁に相当する。つまり、津田には最初から上訴権が与えられず、いきなり最高裁で処罰されたのであった。

二人の車夫のその後
多額の金と勲八等を得た二人は世間の羨望と妬みの対象となった。その金の使い道については新聞も「余計な世話なれども」と断りをいれながらも取り沙汰した。実際は二人とも京都府知事、石川県知事の管理監督下に置かれ金の使い途など取り締まりを受けた。
向畑治三郎は前科者だったため特に厳しく1ヶ月の生活費は25円、残りは府庁で適当な利殖を斡旋するなど細かな制約を受けた。それでも向畑は博打と女などに明け暮れ金を使い果たした。70歳を過ぎて少女暴行事件を起こして逮捕され勲位も剥奪されるなど、晩年はさびしいものであった。1928年74歳で死去。
独身だった北賀市市太郎の元には妻になりたいという女性が殺到。彼はすぐに車夫をやめ、故郷の石川県大聖寺(現在加賀市)に帰り、ロシアからもらった褒賞金で田畑を買い、9年後には地元選出の郡会議員に当選、しばらくは裕福な生活ぶりだったが、日露戦争が始まると世間から「露探(ロシアのスパイの意)」と呼ばれ白い眼で見られた。堪りかねた北賀市は「そんなに露探というなら俺を兵隊にとってくれ、そうでないことを戦場で証明してやるから」と叫んだといわれる。1914年54歳で死去。

烈女・畠山勇子
畠山は千葉県鴨川市に生まれ、17歳で結婚するも6年後に離別され、生活のために東京日本橋の魚屋で住み込み女中をしていた。日頃から政治小説や政治新聞を好んで読むという当時の女性としては異質で、実際変人扱いをされることも多かったらしい。とにかく大津事件発生とともに新聞を読み漁り国家の一大事としきりに嘆いたが、周りは「またいつもの癖が始まった」と無視された。しかし皇太子が帰国することを知ると奉公先に暇を取って伯父の元に相談に行き「このままロシアに帰しては申し訳ない」などと訴えたが、その伯父にも「一介の平民女性が何の役に立とうか」と相手にされなかった。思い詰めた畠山は5月18日に汽車で京都に向かい、人力車で本願寺、三十三間堂、清水寺、知恩院などを見学した後、午後7時過ぎ京都府庁前に来て遺書・嘆願書を府庁に投げ入れ、剃刀で胸や喉を切り裂き自殺を図った。すぐに病院に運ばれたが出血多量で死亡。この一件も日本国中の人々を驚嘆させ、「房州の烈女」と称され、特に国家主義者が喧伝して盛大な追悼式が行われた。小泉八雲は彼女の行為に感動して『勇子、追想記』という一文を、モラエスは故郷ポルトガル・リスボンの雑誌『セルローズ』に『ハタケヤマ・ユーコ』という記事を載せて絶賛している。墓は京都下京区の末慶寺にある。

皇太子のその後
大津事件の4年後、1895年に父皇帝がインフルエンザで急死。このわずか一週間後に、南ドイツのアリックス王女(アレクサンドラ・フョードロヴナ。イギリスのビクトリア女王の孫)と結婚。一年の服喪を終えて即位したのは1896年の春で彼(以下ニコライ)が27歳の時であった。戴冠式には日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山県有朋が出席している。皇帝となった彼は父の真似をして専制政治を推し進めた。しかし彼の生来の内気で優柔不断な性格では、周りの人々の言動によって右往左往するハメに陥ることが多かったようだ。従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にそそのかされて極東進出を目指し、1895年の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国の秩序維持」を名目に、日本が得た遼東半島を清に返還させ、1898年には旅順・大連を租借、さらに1900年の北清事変にも派兵して、満州を占領、ついに日本と対立する結果を招いた。同じ頃ロシア国内では経済危機が起こり街には失業者があふれる事態となっており、ニコライは重用したウイッテ首相らの制止も聞かず、日本との戦争を起こすことで国内の不満をそらそうとした。こうして1904年ついに日露戦争に突入。しかし、日本を小国と侮ったためか陸に海に敗戦を重ね、これに苦しんだ国民が革命運動を起こしそれに対して皇帝の軍隊が出動して虐殺するという事件も引き起こした(血の日曜日)。結局アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲立ちで日ロはポーツマスで講和を結んだが、数々の失政ですでに国民は皇帝を見捨てていた。さらに大きな革命運動が各地で巻き起こり、1905年にはついにニコライは折れて国会開設を国民に約束するというロシア第一次革命を招く事態となった。

ニコライはこうした失政の慰謝を家庭に求めた。アリックス皇后を溺愛し、オルガ、タチアナ、マリイ、アナスタシアの四王女を儲け、1904年の日露戦争の最中に夫婦念願の男子アレクシスを生んだ。しかしその皇太子は当時、不治の病だった血友病を発症、7歳で重態に陥ったが、皇后が側近の勧めで招いた僧ラスプーチンに祈祷を依頼したところケロリと快癒、これ以来皇帝夫妻はラスプーチンをすっかり信じ込みこの氏素性も不明な怪僧に入れあげ、怪僧は数年で貴族や富豪にももてはやされる寵児となり、ついには官僚の任免や利権の分配、軍事問題まで介入し、増長することになった。そんな最中に1914年6月フランツ・フェルディナントが暗殺されたサラエボ事件によって第一次世界大戦が勃発。ニコライは従兄で親しかったヴィルヘルム2世と交渉するが決裂しついに参戦した。しかしこれもドイツに大敗をして撤退、1916年12月にはラスプーチンが暗殺されると国民はますます皇帝と帝国に失望した。1917年3月ついに国民の怒りが爆発、首都で労働者を中心にしたデモが始まるとこれに兵士たちも参加、革命家ケレンスキーの指導の下、これが一気に革命運動に発展した。ニコライは当初は気にもとめず前線に向かうもののこの事態の急変に首都に引き返すもすでに収拾がつかない状態であった。ケレンスキー率いる国会は臨時政府を樹立、3月15日ニコライはついに退位し、ここに300年続いたロマノフ朝による帝政が廃止され市民による政府が成立した(三月革命)。

ニコライは皇后と5人の子らとともにシベリアに流された。ケレンスキーはニコライを見舞い、ロンドンへの亡命を密かに工作していたが、同年、ケレンスキー政権がレーニン率いるボリシェビキに打倒され、世界初の社会主義国家(ソビエト連邦)が成立すると、ニコライ一家はウラル地方へ移され、イパチェフ館に監禁された。ここでしばらくは厳しい監視下ではあるが一家は安穏と暮らし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がベルリンへの亡命を申し出るなどしたが、国内の革命指導者同志の内戦が拡大すると一家の亡命は困難となり、1918年7月、白軍(反政府軍)の攻勢に、皇帝が奪回されることを懼れたソビエト政府がまだ幼いアレクシスを含む一家を処刑、遺体はイパチェフ館近くの森に捨てられたという。この虐殺についてははっきりとしたことが公表されず、後に「一家は密かに脱出した」「末娘のアナスタシアだけ生き延びた」だの伝説が生まれ、「私がアナスタシアよ」と名乗る女性が現れるなど混乱を呼んだ。
しかしソ連崩壊後の近年になって一家のものと思われる遺骨が見つかり、またロシア最高裁判所によって「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下されるなど、ニコライの悲劇と伝説はまだ続いており、今なお話題は尽きない。

日本と対立して三国干渉や日露戦争を引き起こした皇帝であり、その原因には若き日の「大津事件の恨み」があったという向きもあるが、事件当時の言動から察するに私恨ではなく、自国を守らねばならない「皇帝」としての立場ゆえ、どうしても避けられない政策であったのだろう。そもそも彼には祖父や父のような「強い皇帝」としての素質はなかったようだ。必死に父のような「皇帝」を目指して行動するものの、周りの人々や時代の波に翻弄されて苦しみながら右往左往する姿が少し悲しい。

僕はこの大津事件を高校の時日本史で習ったが、事件そのものより、立憲君主国となった日本が初めて「司法権の独立を守った」ことが重要だとして教わったような気がする。後でいろいろ調べたら、明治の時代には学校や会社が休みになるほどの大事件だったのが分かり、当時の日本のアタフタした様子が非常に面白いと思った。しかし、僕はしばらくの間、この事件の主役として登場するニコライ皇太子と、その彼が後にロシア皇帝となり「日露戦争」を引き起こした人物と同じであることがなかなか結びつかなかった。しかも、あの悪名高い怪僧ラスプーチンと関わったのもこのニコライだし、ロシア革命によって家族ともども悲惨な最期を迎えたこともよく知っている。また革命数年後に娘アナスタシアと名乗る女性が登場した物語も、映画『追想』、テレビのミニシリーズ『アナスタシア 光・ゆらめいて』(実はこのビデオの日本配給には僕が少し関わっている)、アニメ『アナスタシア』などで何度も目にしているのだが、どうもこれらが同じ人物と理解し難かった。
つまり、大津事件で殺されかけた皇太子=日露戦争時の敵・皇帝=ラスプーチンの雇い主=ロシア革命で一家ともども処刑された皇帝=アナスタシアの父という関係だ。これだけ毀誉褒貶・塞翁が馬的な人生を送った人物は世界史上でも珍しいのではないだろうか?だから歴史は面白い。

最新刊は→ 湖の南――大津事件異聞 (岩波現代文庫)

加納格著『ニコライ二世とその治世―戦争・革命・破局 (ユーラシア・ブックレット)

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日本史(外交史概略)U 中世へ
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