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事件の背景 事件が起きた1891年(明治24年)といえば明治維新から20年を経てようやく日本も近代的な工業や産業を花開かせ、また国会や憲法も2年前に成立し、日本が「近代国家」として西洋諸国にも存在が認められ始めた時期であった。 「恐ろしい国=ロシア」 日本海を隔てた隣国ロシアは17世紀初頭にロマノフ朝によって帝国となり、ピョートル大帝が近代化帝国主義を進めた結果、列強として世界に君臨する大国となった。そしてさらに東アジアや中東諸国を支配すべく虎視眈々と狙っていた。1792年、鎖国中だった日本に対しエカテリーナ女帝は日本の漂流民大黒屋光太夫らを帰国させるという名目でラックスマンを根室に、1804年にはレザノフを遣日全権大使として長崎に派遣し通商を要求した。しかし当然ながら幕府に拒否され一時断念。しかしロシアはさらにゴローウニン(1811年)やプチャーチン(1853年)らを派遣するなど強硬に日本との国交・通商を目指していた。その後ニコライ1世が皇帝に即位し、専制政治を開始するとまず軍の整備を進め、ヨーロッパにおいてはポーランドやハンガリーなども支配下に収めた。当時無敵と言われた海軍と、最強と畏れられた陸軍を持ち、何とロシアはその当時全世界の陸地のおよそ6分の1を占領する超大国であった。 日本人はこれまでのロシア人の強硬な来航事件から、日本はこの大国に占領されるのではないかと考え、国名ロシアをもじって「おそろしあ国=恐ろしい国」というイメージを抱くようになった。当時「恐露病」という言葉が流行するほどロシアを極端に恐れる人々が庶民のみならず政府・政治家らにも多数いたのである。また、1890年(事件の前年)には東京・駿河台にロシア正教の教会、コンドル設計によるニコライ堂が建設され、その威容に市民は圧倒されていた。 事件のいきさつ1(皇太子の日本訪問とは) ロシア皇帝ニコライ1世の息子アレクサンドロビッチ・ニコライ2世(以下皇太子)は、専制君主として恐れられた父から幼い頃から帝王学を学び育ったが、生来優柔不断で実行力に欠け、いかにも頼りないお坊ちゃまであった。容姿端麗で国民からは人気があったが、帝室バレエ団のプリマドンナ・クシェンスカと恋に落ち、逢引きを重ねるなどスキャンダルも起こしていた。そんな皇太子を父は常に歯がゆく思っていた。1891年3月17日、父皇帝は皇太子に極東巡察を命じた。主な目的としてはロシアが総力を挙げて建設を進めていたシベリア横断鉄道の起工式への臨席であったが、極東各国を視察させることで弱冠24歳の皇太子に将来の帝王としての自覚を持たせ、かつロシアの国力を世界に知らしめるという二重三重の効果を期待してのことだった。一行には側近や医師、警護に当たる将校ら軍人、シベリア鉄道建設に従事する工兵1,400人らも同行。皇太子はロシアの首都ペテルブルグを王室列車で発ち、オーストリアを経て、アドリア海・トリエステ港で旗艦アゾバ号に乗って、ギリシアの第二皇子で皇太子の従兄弟にあたるジョージ(ゲオルギオス)親王を誘って、先鋭軍艦7隻とともにギリシアを出航、スエズ運河、インド、シンガポール、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、香港を回り、漢口から最後の訪問国として日本が計画された。日本では長崎に到着、およそ1ヶ月滞在し、九州、神戸・京都・琵琶湖など関西各地、東京そして青森を回る予定であった。東京では霞ヶ関の有栖川宮邸に滞在、明治天皇との面会をはじめ、宮中舞踏会などさまざまな歓迎式典が準備されていた。日本を出てからはウラジオストクに行き、シベリア鉄道の起工式に臨席することになっていた。 事件のいきさつ2(日本の反応) この訪問の知らせを受けた日本ではさまざまな憶測が飛び交った。シベリア鉄道こそロシアの極東進出策であり、皇太子の訪問は日本占領のための下見であるという説がまことしやかに囁かれた。例の「恐露病」がその根底にあった。しかしともあれ、外国の元首に近いVIPが日本に正式訪問し首都以外の各地を訪問するのは史上初の事であり、国家としての正式な歓迎行事はもちろんのこと、訪問先として選ばれた各地でも、県や市をあげて失礼がないように、また皇太子を喜ばせるための様々な歓迎儀式を予定した。当然、事件や事故を未然に防ぐため警備なども厳戒態勢が敷かれた。何しろこのたった数十年前の日本では攘夷運動が盛んで生麦事件や大使館焼き払い事件が起きていたのだから。どこにその残党がいるやもしれない。また、西南戦争を生き延びて密かにロシアに渡った西郷隆盛(当時は逆賊)が皇太子とともに帰国するのではないか?というデマも飛び交った。
犯人津田三蔵について 津田は1855年三重県・伊賀上野で津藩士の子として生まれた。1877年、西南戦争に政府軍として従軍し大きな功をあげて勲七等が授与されている。その後滋賀県の巡査、陸軍軍曹となる(ただし事件後は巡査を免職と同時に勲章も剥奪)。犯行当時37歳。凶行の理由を「露国皇太子は”大逆無礼”の人物であり、しかもわが日本を横領しようという野心を持っている。生かして返すことはできない」と思い、日本刀の切れ味を試したなどと語った。「西郷隆盛が生きていてロシアに隠れていて、皇太子訪日と同時に日本に帰ってくる」という噂を真に受けて、西南戦争での武勲も取り消されるのではないかと恐れて凶行に及んだという説もあった。しかし津田には精神病歴もあり計画的な犯行ではなく、突発的なものであったため、極端な「恐露病」による脅迫観念によってノイローゼ状態になって行ったものとみなされている。 逮捕後は取り押さえられた時に車夫に斬りつけられた背中と後頭部の傷はなかなか癒えず苦しんだ。 5月の裁判後、無期懲役となった津田は北海道の釧路集治監に送られた。本人は獄中で「朝廷や社会に対し恐れ多い罪を犯してしまった」とひどく反省し、また日露関係の悪化を懸念して不安の色が濃く、常に自殺を望んでいた。しかし、彼は日露の国交に絡んだ重要人物とされたため、手厚く看病され、食事も当時高価だった鶏卵や牛乳が与えられた。また、暴漢が命を狙っているという噂もあったため看守が厳重に監視した。他の囚人とは別の好待遇ではあったが、彼の精神の不安定が続き、同年9月上旬から悪寒・発熱が始まり、すぐに喀血・呼吸困難などが発症、それが続くようになり、9月26日には危篤状態、そのまま急性肺炎で獄中死した。この死についても後年謀略説なども囁かれた(死に至る詳細は吉村昭『ニコライ遭難』に詳しい)。墓は故郷の三重県伊賀市大超寺にある。幼児の墓のように極めて小さい墓石とのことである。 司法権の独立 5月12日、松方正義首相、山田顕義法相、伊藤博文貴族院議員議長、西郷従道内務大臣ら内閣は、ロシア政府への謝意を明らかにするため「皇室に対する罪(刑法第百十六條・天皇三后皇太子に危害を加えた者は死刑))」を適用するという、大日本帝国憲法を無視した超法規的措置として犯人津田三蔵を死刑に処す方針を固めた。しかしこれに対して大審院長児島惟謙ら裁判所側は、憲法で保障されるべきとして司法権の独立を主張。すなわち「刑法二百九十二條及び刑法第百十二條」の適用により、犯人は「謀殺未遂罪」に当たり、無期徒刑相当であるとして対立した。松方も児島も5月6日に現職に就いたばかりであった。「日本と外国の皇族を法律上一緒に出来ない、法律の尊重こそが近代国家として国際社会に伍していく途だ」と主張する児島、「法律にとらわれることは国家を危うくする」と迫る山田との論争は続いた。日本国内の大半はロシアを畏れて「津田死刑にすべし」という意見だった。何しろ憲法はこのわずか半年前の1890年(明治23年)11月29日に施行されたばかりなのである。日本の国情に合うように苦労して研究を重ね、ようやく発布した憲法を無視していいのか? しかし、当時まだ憲法を正しく理解していた者すらほとんどいなかったという時代であった。 5月27日、大津地方裁判所で津田三蔵の公判が開始された。内閣は西郷内相、山田法相も出張させ、圧力をかけた。検察側検事総長三好退蔵は当然内閣の意を受けて死刑の論告を行った。裁判長は大審院部長判事堤正己。…結果、津田には法律どおり「無期徒刑」の判決が下る。これは「司法権の独立」を守った歴史的な事件として後世に残ることとなった。しかし、実は「大審院」で行われた裁判自体が「違憲」であった。大審院とは今の最高裁に相当する。つまり、津田には最初から上訴権が与えられず、いきなり最高裁で処罰されたのであった。 二人の車夫のその後 多額の金と勲八等を得た二人は世間の羨望と妬みの対象となった。その金の使い道については新聞も「余計な世話なれども」と断りをいれながらも取り沙汰した。実際は二人とも京都府知事、石川県知事の管理監督下に置かれ金の使い途など取り締まりを受けた。 向畑治三郎は前科者だったため特に厳しく1ヶ月の生活費は25円、残りは府庁で適当な利殖を斡旋するなど細かな制約を受けた。それでも向畑は博打と女などに明け暮れ金を使い果たした。70歳を過ぎて少女暴行事件を起こして逮捕され勲位も剥奪されるなど、晩年はさびしいものであった。1928年74歳で死去。 独身だった北賀市市太郎の元には妻になりたいという女性が殺到。彼はすぐに車夫をやめ、故郷の石川県大聖寺(現在加賀市)に帰り、ロシアからもらった褒賞金で田畑を買い、9年後には地元選出の郡会議員に当選、しばらくは裕福な生活ぶりだったが、日露戦争が始まると世間から「露探(ロシアのスパイの意)」と呼ばれ白い眼で見られた。堪りかねた北賀市は「そんなに露探というなら俺を兵隊にとってくれ、そうでないことを戦場で証明してやるから」と叫んだといわれる。1914年54歳で死去。 烈女・畠山勇子 畠山は千葉県鴨川市に生まれ、17歳で結婚するも6年後に離別され、生活のために東京日本橋の魚屋で住み込み女中をしていた。日頃から政治小説や政治新聞を好んで読むという当時の女性としては異質で、実際変人扱いをされることも多かったらしい。とにかく大津事件発生とともに新聞を読み漁り国家の一大事としきりに嘆いたが、周りは「またいつもの癖が始まった」と無視された。しかし皇太子が帰国することを知ると奉公先に暇を取って伯父の元に相談に行き「このままロシアに帰しては申し訳ない」などと訴えたが、その伯父にも「一介の平民女性が何の役に立とうか」と相手にされなかった。思い詰めた畠山は5月18日に汽車で京都に向かい、人力車で本願寺、三十三間堂、清水寺、知恩院などを見学した後、午後7時過ぎ京都府庁前に来て遺書・嘆願書を府庁に投げ入れ、剃刀で胸や喉を切り裂き自殺を図った。すぐに病院に運ばれたが出血多量で死亡。この一件も日本国中の人々を驚嘆させ、「房州の烈女」と称され、特に国家主義者が喧伝して盛大な追悼式が行われた。小泉八雲は彼女の行為に感動して『勇子、追想記』という一文を、モラエスは故郷ポルトガル・リスボンの雑誌『セルローズ』に『ハタケヤマ・ユーコ』という記事を載せて絶賛している。墓は京都下京区の末慶寺にある。 皇太子のその後 大津事件の4年後、1895年に父皇帝がインフルエンザで急死。このわずか一週間後に、南ドイツのアリックス王女(アレクサンドラ・フョードロヴナ。イギリスのビクトリア女王の孫)と結婚。一年の服喪を終えて即位したのは1896年の春で彼(以下ニコライ)が27歳の時であった。戴冠式には日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山県有朋が出席している。皇帝となった彼は父の真似をして専制政治を推し進めた。しかし彼の生来の内気で優柔不断な性格では、周りの人々の言動によって右往左往するハメに陥ることが多かったようだ。従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にそそのかされて極東進出を目指し、1895年の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国の秩序維持」を名目に、日本が得た遼東半島を清に返還させ、1898年には旅順・大連を租借、さらに1900年の北清事変にも派兵して、満州を占領、ついに日本と対立する結果を招いた。同じ頃ロシア国内では経済危機が起こり街には失業者があふれる事態となっており、ニコライは重用したウイッテ首相らの制止も聞かず、日本との戦争を起こすことで国内の不満をそらそうとした。こうして1904年ついに日露戦争に突入。しかし、日本を小国と侮ったためか陸に海に敗戦を重ね、これに苦しんだ国民が革命運動を起こしそれに対して皇帝の軍隊が出動して虐殺するという事件も引き起こした(血の日曜日)。結局アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲立ちで日ロはポーツマスで講和を結んだが、数々の失政ですでに国民は皇帝を見捨てていた。さらに大きな革命運動が各地で巻き起こり、1905年にはついにニコライは折れて国会開設を国民に約束するというロシア第一次革命を招く事態となった。 ニコライはこうした失政の慰謝を家庭に求めた。アリックス皇后を溺愛し、オルガ、タチアナ、マリイ、アナスタシアの四王女を儲け、1904年の日露戦争の最中に夫婦念願の男子アレクシスを生んだ。しかしその皇太子は当時、不治の病だった血友病を発症、7歳で重態に陥ったが、皇后が側近の勧めで招いた僧ラスプーチンに祈祷を依頼したところケロリと快癒、これ以来皇帝夫妻はラスプーチンをすっかり信じ込みこの氏素性も不明な怪僧に入れあげ、怪僧は数年で貴族や富豪にももてはやされる寵児となり、ついには官僚の任免や利権の分配、軍事問題まで介入し、増長することになった。そんな最中に1914年6月フランツ・フェルディナントが暗殺されたサラエボ事件によって第一次世界大戦が勃発。ニコライは従兄で親しかったヴィルヘルム2世と交渉するが決裂しついに参戦した。しかしこれもドイツに大敗をして撤退、1916年12月にはラスプーチンが暗殺されると国民はますます皇帝と帝国に失望した。1917年3月ついに国民の怒りが爆発、首都で労働者を中心にしたデモが始まるとこれに兵士たちも参加、革命家ケレンスキーの指導の下、これが一気に革命運動に発展した。ニコライは当初は気にもとめず前線に向かうもののこの事態の急変に首都に引き返すもすでに収拾がつかない状態であった。ケレンスキー率いる国会は臨時政府を樹立、3月15日ニコライはついに退位し、ここに300年続いたロマノフ朝による帝政が廃止され市民による政府が成立した(三月革命)。 ニコライは皇后と5人の子らとともにシベリアに流された。ケレンスキーはニコライを見舞い、ロンドンへの亡命を密かに工作していたが、同年、ケレンスキー政権がレーニン率いるボリシェビキに打倒され、世界初の社会主義国家(ソビエト連邦)が成立すると、ニコライ一家はウラル地方へ移され、イパチェフ館に監禁された。ここでしばらくは厳しい監視下ではあるが一家は安穏と暮らし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がベルリンへの亡命を申し出るなどしたが、国内の革命指導者同志の内戦が拡大すると一家の亡命は困難となり、1918年7月、白軍(反政府軍)の攻勢に、皇帝が奪回されることを懼れたソビエト政府がまだ幼いアレクシスを含む一家を処刑、遺体はイパチェフ館近くの森に捨てられたという。この虐殺についてははっきりとしたことが公表されず、後に「一家は密かに脱出した」「末娘のアナスタシアだけ生き延びた」だの伝説が生まれ、「私がアナスタシアよ」と名乗る女性が現れるなど混乱を呼んだ。 しかしソ連崩壊後の近年になって一家のものと思われる遺骨が見つかり、またロシア最高裁判所によって「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下されるなど、ニコライの悲劇と伝説はまだ続いており、今なお話題は尽きない。 日本と対立して三国干渉や日露戦争を引き起こした皇帝であり、その原因には若き日の「大津事件の恨み」があったという向きもあるが、事件当時の言動から察するに私恨ではなく、自国を守らねばならない「皇帝」としての立場ゆえ、どうしても避けられない政策であったのだろう。そもそも彼には祖父や父のような「強い皇帝」としての素質はなかったようだ。必死に父のような「皇帝」を目指して行動するものの、周りの人々や時代の波に翻弄されて苦しみながら右往左往する姿が少し悲しい。 僕はこの大津事件を高校の時日本史で習ったが、事件そのものより、立憲君主国となった日本が初めて「司法権の独立を守った」ことが重要だとして教わったような気がする。後でいろいろ調べたら、明治の時代には学校や会社が休みになるほどの大事件だったのが分かり、当時の日本のアタフタした様子が非常に面白いと思った。しかし、僕はしばらくの間、この事件の主役として登場するニコライ皇太子と、その彼が後にロシア皇帝となり「日露戦争」を引き起こした人物と同じであることがなかなか結びつかなかった。しかも、あの悪名高い怪僧ラスプーチンと関わったのもこのニコライだし、ロシア革命によって家族ともども悲惨な最期を迎えたこともよく知っている。また革命数年後に娘アナスタシアと名乗る女性が登場した物語も、映画『追想』、テレビのミニシリーズ『アナスタシア 光・ゆらめいて』(実はこのビデオの日本配給には僕が少し関わっている)、アニメ『アナスタシア』などで何度も目にしているのだが、どうもこれらが同じ人物と理解し難かった。 つまり、大津事件で殺されかけた皇太子=日露戦争時の敵・皇帝=ラスプーチンの雇い主=ロシア革命で一家ともども処刑された皇帝=アナスタシアの父という関係だ。これだけ毀誉褒貶・塞翁が馬的な人生を送った人物は世界史上でも珍しいのではないだろうか?だから歴史は面白い。 最新刊は→ 湖の南――大津事件異聞 (岩波現代文庫) 加納格著『ニコライ二世とその治世―戦争・革命・破局 (ユーラシア・ブックレット)』 参考資料一覧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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