「鎖国」とは 文字通り「国」を「鎖(とざ)す」ことを指し、他国との貿易や交渉(国交)をしない、または制限することである。日本では主に徳川時代を中心におよそ300年近く「鎖国体制」を取った。このように極端な体制を長く続けたのは世界史上を見ても極めて稀なことである。実は、秀吉や徳川幕府は一度も「鎖国」という言葉を使っておらず、また「鎖国令」というものも発布しているわけではない。キリスト教の禁止、外国船の来日の制限、日本人の海外渡航、許可のない貿易・交渉の禁止などを命じているだけである。従って当時の民衆には「鎖国」という概念は無かった。「鎖国」という言葉は出島に滞在したドイツ人医師ケンペルが帰国後に書いた『日本誌』に「日本帝国を鎖して」という文面があり、それをオランダ通詞の志筑忠雄が訳した時(1801年)に「鎖国論」と名づけたのが始まりである。幕末になってペリーらの来航後に、武士階級を中心に巻き起こった「開国」か否か?という論争のためにこの「鎖国」という言葉が使われて一般に広がったものである(なお、このページでは便宜上「鎖国令」として著している。琉球・アイヌ民族はここでは申し訳ないが「日本」の一部とし、特に著述をしていない)。 また、「鎖国中」は全く外国との交渉を絶ったわけではなく、長崎に出島を築き、ここにオランダと中国の貿易関係者を滞在させ、交易は続けた。朝鮮(李氏朝鮮)は日本と同じように鎖国体制を取っていたが、朝鮮通信使が主に徳川将軍家を祝賀するため国使として何度か来日しており、徳川幕府は彼らを日本国として招き入れ、正式な国交を結んでいた。 |
「鎖国」への経緯 ポルトガルからもたらされた「鉄砲」の登場で「戦(いくさ)」の様相は大きく変わった。鉄砲の威力をいち早く取り入れ、戦国大名の中からひとつ抜きん出た存在が織田信長であったことは有名だが、彼は西洋との貿易による莫大な利益に目を向け、キリスト教の布教を目的としたポルトガル人やスペイン人の来日も容認し庇護した。また宣教師らと積極的に対面し、西洋の様々な思想や文化・技術について知識を取り入れている。それは彼の旺盛な好奇心・新し物好きの気質によるところも大きいが、現実には鉄砲に使う火薬の原料「硝石」を欧州から大量に輸入する必要があったためとも言われている。 しかし秀吉の時代になるとこれは一変する。秀吉は九州征伐に出張った際にキリシタンの現状を見て、キリスト教とヨーロッパ人の植民地政策が危険であることを察知する。そのひとつはキリスト教の教えの源流が「神の前では人はすべて平等である」こと。秀吉は後に刀狩を行い、侍とそうでない者の身分を厳しく分けて支配する政策をとるが、封建制を根本から覆すキリスト教の「平等思想」は大きな障害となった。もうひとつは、ポルトガル人らと密接した関係を持ったキリシタン大名らが貿易によって大きな利益を上げ強大になっていること。苦労して九州地方を治め全国制覇を遂げた秀吉にとっては脅威であったに違いない。また、サン=フェリペ号事件をきっかけに欧州諸国がどのようにしてアジア諸国を支配していったかを知り、ますます警戒心を高めている。 次いで政権を握った家康は基本は秀吉の政策を踏襲するが、オランダ人ヤン・ヨーステンらを顧問に採用するなど欧州との貿易にはむしろ積極的であった。オランダはカトリック系のスペイン・ポルトガルと違って「プロテスタント」の新興国である。オランダ人はカトリックとは敵対しており、布教を目的としないことを明言し家康に近づいた。こうして「欧州との交渉は貿易だけに絞る」という政策でキリスト教を封印して封建制を保ち、かつ利益を上げるという道を選んだ。 |
以下、鎖国に関する事件や出来事を時系列で紹介 |
1543年 | 種子島にポルトガル人が漂着、鉄砲伝来 | フランシスコ・ゼイモトらポルトガル人の他、中国人・琉球人など百人ほどが乗っていた船が九州・種子島に漂着。鉄砲(火縄銃)の他、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、鋏なども伝えた。 『真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)』 |
1549年 | ザビエル来日、キリスト教の布教を開始 | スペインの出身・カトリック系イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。平戸(長崎)、山口、京都と布教をして回り、多くの信者を獲得。ヨーロッパ人の本格的な最初の来日であり、キリスト教の教えやヨーロッパの文化・技術は日本人に大きな影響を与えた。 『ザビエルとその弟子 (講談社文庫)
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1582年 | 天正遣欧使節が渡欧
| 大友宗麟らキリシタン大名とバリニャーノによって4人の少年がスペイン王フェリペ2世とローマ教皇との謁見のため派遣された。彼らが長崎を出向してわずか3ヶ月で本能寺の変が起き、8年後に彼らが帰国した時はすでに豊臣秀吉によって禁教が行われていた。 |
1587年 | バテレン追放令、カトリック教会の宣教師を追放する | 九州征伐で苦心をした秀吉は、キリシタン大名が10人を越え、信者が数十万人に上り、またポルトガルが日本人を奴隷として南方に売買しているという実態を見て危機感を抱き、博多で突然宣教師らを追放する命令を出した。 |
1591年 | 秀吉の欧州との外交政策 | 秀吉、インドのゴアにあったポルトガル政庁、ルソン島のイスパニア政庁に国書を送り、入貢を求める。翌年には高山国(台湾)にも入貢を求めた。 |
1592年 | 文禄の役 | 秀吉、朝鮮および明に入貢を求めるが拒絶されたため激怒、小西行長、加藤清正らを大将に朝鮮に出兵。1597年には再び派兵(慶長の役)。 『四百年の長い道―朝鮮出兵の痕跡を訪ねて』 |
1596年 | サン=フェリペ号事件 | 土佐に漂着したイスパニア船の水夫が、検分を行った増田長盛に「イスパニアはまず宣教師を送って住民を手なずけ、次に軍隊を送って占領する」と失言したといわれ、これが秀吉を激怒させ、最初の禁教令を発令、翌年には宣教師・信者の弾圧が始まった。 |
1597年 | 26聖人殉教 | 秀吉は京都奉行の石田三成に命じ、京都のフランシスコ会員、イエズス会の宣教師・信者を処刑させた。捕らえられた一行は京都から処刑地の長崎まで徒歩で引き回された挙句、磔によって処刑された。この事件は日本よりルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によって欧州諸国に伝わり、元和の大殉教とともに「最も有名な殉教」として知られている。彼らは1862年ローマ教皇により列聖され、聖人の列に加えられた。秀吉死去、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下を取る。 『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 (小学館ライブラリー)』 |
1600年 | リーフデ号漂着 | オランダ東インド会社の貿易船リーフデ号が豊後(大分)臼杵湾に漂着。船員ヤン・ヨーステンと航海士でイギリス人のウィリアム・アダムスが家康に謁見。二人は家康に気に入れられて「顧問」として雇われる。1603年に家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。 『家康とウィリアム・アダムス』 |
1604年 | 糸割符制度創設 | 中国産生糸の輸入はポルトガルがほぼ独占し莫大な利益を得ていたが、オランダとイギリスがこれに参入したため、これら外国との間に貿易統制を取る必要が生じた。幕府は日本の商人たちに糸割符(輸入専売特権)を与え統制を行った。 また、幕府はこの当時はまだアジア諸国との貿易を奨励しており、特定の商人に許可(御朱印)を与え、積極に交易に当たらせた。この御朱印船は1635年までの間に、ルソン、カンボジア、高砂などに渡航、角倉了以、茶屋四郎次郎、末吉孫左衛門、末次平蔵らの商人が大きな利益をあげた。 『京都 高瀬川―角倉了以・素庵の遺産』 |
1607年 | 江戸時代最初の朝鮮通信使来日 | 徳川幕府は、秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって国交断絶していた李氏朝鮮の使節を招いた。以後将軍の代替わりの時など定期的に来日することになった。 |
1609年 | マードレ・デ・デウス号事件 | キリシタン大名・有馬晴信の兵が地元・長崎に来航したポルトガル船マードレ・デ・デウス号(ノッサ・セニューラ・ダ・ラグーサ号)を攻撃した事件。前年にマカオで日本人船員が乱暴を働き、それをポルトガルの司令官が鎮圧した事件があり、その司令官がこの船に乗船していた。有馬の兵はそれに対して報復を行ったものといわれている。この事件に関連して家康の側近・本多正純の家臣でキリシタンであった岡本大八が有馬の代理で幕府に恩賞を願い出ることを条件に有馬に賄賂を要求。これが幕府にばれて岡本は投獄、有馬は甲斐国に追放という大事件に発展した(岡本大八事件)。この事件を契機に幕府・家康はキリシタンへの警戒をますます強めた。 |
1612年 | 家康、天領にキリスト教禁教令 | 江戸・京都・駿府などの直轄地に教会の破壊と布教の禁止を命じた。また、諸大名にも同様の命令が下され、これらの結果、多くのキリシタンが厳しく処された。追放されていた有馬晴信はこれを受けて死罪となり、キリシタン大名は遂にいなくなった。 |
1613年 | 禁教令、全国に及ぶ 慶長遣欧使節 | 伊達政宗、家臣の支倉常長をスペイン・ローマに派遣。 『侍 (新潮文庫)』 |
1616年 | 外国船の入港を長崎、平戸に制限 | |
1622年 | 元和の大殉教 | 幕府は長崎で神父や宣教師、55人の女性子どもを含むキリシタンを処刑。オランダ商館員やイエズス会の宣教師らによってこの様子はヨーロッパに伝えられた。 |
1623年 | イギリス人、日本を退去 | アンボイナ(モルッカ諸島・アンボン)でオランダ人が、イギリス人10人とそれに加担したとして日本人9人を拷問・虐殺。このアンボイナ事件をきっかけにイギリスとオランダの対立が激化、イギリスはアジア諸国から撤退、インドを中心に貿易を開始することになった。 |
1624年 | イスパニア船の来航禁止 | |
1630年 | 寛永の禁書令 | 幕府、キリスト教関連の漢訳洋書の輸入を禁止。これはほぼ同時に西洋の科学書(数学、天文学、医学、測量・土木など)も禁じられることとなり、一般に手に入らなくなった。 |
1631年 | 奉書船制度 | 幕府は海外渡航船には朱印状の他に老中発行の奉書(老中奉書)の所持を命じた。 |
1633年 | 鎖国令1 奉書船以外の海外渡航禁止 | 同時に海外移住5年以上の者の帰国を禁止。 |
1634年 | 鎖国令2 長崎に出島築造 | 朱印船主や糸割符商人など長崎の出島町人ら25人が出資し、中島川河口に建設。当初はポルトガル商人に土地を貸し与え商取引を行うためであった。 |
1635年 | 鎖国令3 日本人の海外渡航を全面的に禁止 | 海外移住者の帰国も全面的に禁止。同時に大船の建造も禁じた。このため、朱印船貿易は廃止となった。また寺請制度を創設、民衆をどこかの仏教宗派に所属させ、キリシタンないことを証明させた。
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1636年 | 鎖国令4 ポルトガル人を出島に集める | 長崎に出島を築き、キリスト教の布教を防ぐためポルトガル人商人をここに集め、貿易を行った。 |
1637年 | 島原の乱(〜1638年) | 島原の乱は天草四郎を盟主としたキリシタン農民の百姓一揆であったが、幕府は原城に立て篭もった3万8000人の農民をなかなか陥落させることが出来なかった。このことが幕府の態度を一層硬化させ、有力大名の五百石以上の船の保有を禁じたり、ポルトガルとの貿易を禁じる政策のきっかけになった。 |
1639年 | 鎖国令5 ポルトガル船の来航禁止 | 出島で貿易を行っていたポルトガル人を帰国させた。このためしばらくの間出島は無人となった。 |
1640年 | 宗門改役の設置 | 幕府は寺請制度をさらに発展させ、新たな職として大目付らに命じ、各家・各人ごとに宗旨を調べさせた。これによってキリシタンの摘発・弾圧を強め、また民衆の統制にも役立てた。 |
1641年 | オランダ人を出島に集める | 平戸にあった東インド会社の商館を移し、ここでのみオランダ人と貿易・交流を行うようになった(鎖国の完成)。商人だけでなく、ケンペル、ツンベルク、シーボルトら医者や学者らもここで生活した。 |
1646年 | 江戸に切支丹屋敷ができる | イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着する事件があり、彼らは捕らえられ江戸に送られた。宗門改役の井上政重の下屋敷内(現在の文京区小日向)に牢・番所を置き、彼ら異国の漂着民や宣教師らはここに収容することになった。
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1666年 | オランダ風説書のはじめ | |
1668年 | 長崎郊外に唐人屋敷を建築 | 1669年に完成、来日した清国の商人はここに居住し長崎奉行支配下に置かれ輸出入を管理された。 |
1685年 | ポルトガル、長崎に日本の漂流民を送還 | ポルトガル政庁、保護した伊勢の漂流民12人を連れて長崎に寄港。貿易の再開を求めるが拒絶される。 |
1709年 | イタリア人シドッチ捕らえられる | 日本に潜入し捕らえられたイタリア人司祭シドッチは江戸小石川に送られた。徳川家宣のブレーンであり儒学者であっ新井白石が、獄中のシドッチを尋問。その話をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著す。 |
1715年 | 海舶互市新令(長崎新令・正徳新令) | 新井白石によって定められた法。清船は30隻6000貫目、オランダ船2隻3000貫目に貿易額を制限。 |
1774年 | 杉田玄白、前野良沢、オランダの医学の翻訳書『解体新書』出版 | |
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1792年 | 林子平『海国兵談』を自費出版 | 『海国兵談』は幕府の海防政策批判書であったため老中松平定信の寛政の改革の際に処分され林も蟄居を命ぜられた。 |
1792年 | ラックスマン、根室に来航 | |
1796年 | 稲村三伯、宇田川玄随、最初の蘭日辞書『ハルマ和解』出版 | |
1804年 | レザノフ、長崎来航 | ロシアが保護した石巻の漂流民・津太夫ら4人を連れて来航、通商を求めるが、幕府は漂流民は受け入れるも貿易は拒絶。 |
1808年 | フェートン号事件 | |
1811年 | 最後の朝鮮通信使来日 | |
1825年 | 無二念打払令(異国船打払令) | オランダ・清国以外の外国船が来た場合、撃退することとした。 |
1828年 | シーボルト事件 | |
1837年 | モリソン号事件 | アメリカの商船モリソン号が三浦半島から江戸湾に侵入した。船には尾張の音吉ら3人、九州の庄蔵ら4人の漂流民がおり、アメリカは彼らの送還し、それをきっかけに日本との国交を求めようとしたものだったが、無二念打払令により、浦賀奉行所はこれを砲撃、同船は退散。後に鹿児島でも交渉を試みるも再び砲撃されてマカオに去った。日本の漂流民は結局帰国できず、中国で残りの一生を終えた(彼らは後に中国に送られてくる日本人漂流者を援助し、帰国に尽力した)。この事件をきっかけに幕府は江川太郎左衛門に江戸湾の警固の強化を命じ、この事件について意見した蘭学者らを処分する「蛮社の獄」が行われた。 |
1839年 | 蛮社の獄 | 幕命を受け、目付・鳥居耀蔵(大学頭・林述斎の子)らが渡辺崋山、高野長英らを弾圧。 |
1842年 | 天保の薪水令 | 外国船が来たら燃料・食料を提供して穏やかに退去させることにした。前年に起きたアヘン戦争の影響で、外国船を刺激しないように考えたため。 |
1844年 | オランダ国王から開国を勧める国書が届く | オランダ国王ウィルレム2世が特使コープスを江戸に派遣し、「世界はすでに蒸気船の出現で一変した。そろそろ鎖国政策を改めたらどうか」という内容の親書を時の将軍・家慶に送った。しかし幕府は「鎖国は祖法(先祖代々守るべき絶対の法律)である」として拒絶した。 |
1846年 | 米・東インド艦隊司令長官ビッドルが来航、国交を求める | |
1853年 | ペリー来航 | |
1853年 | ロシアのプチャーチン来航 | |
1854年 | 日米和親条約 | |
1856年 | 駐日総領事ハリス来日、下田に駐留 | |
1858年 | 日米修好通商条約 | |
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鎖国が及ぼした影響
損失: 1・外国からの文化・技術が入らず世界の進歩から著しく遅れた 2・日本人の精神から「進取の気質」、「冒険心」、「チャレンジ精神」などを奪い、「国粋主義」、「民族主義」、「排外主義」的な心が深く根ざされ、所謂「島国根性」が根本になってしまった。 3・海外からの食糧供給がないため、何度か深刻な飢饉に襲われた
4・今日まで続く日本の「外交下手」の原因となった
利点: 1・欧米諸国による植民地化を防いだ 2・日本独自の文化・技術が熟成した 3・外国語の流入による混乱が避けられ、日本語の識字率など国民の教育水準が向上した。 4・300年近く他国との戦争が無い「長期的な平和」を築いた 5・金・銀などの日本の貴重な資源の流出を防いだ
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