ビートルズ来日パート2(日本外交史外伝)
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beatlesinjapanザ・ビートルズ来日パート2
1966年6月に行われたビートルズの来日コンサートにまつわる話題を特集
パート2はビートルズ来日時の演奏曲目と使用楽器、トリビアについては紹介しています。
来日前後の出来事、来日に関わった有名人などはパート1へ!

 

演奏曲目


来日時までに発売されていたオリジナルアルバム(発売順)↓
1.ロック・アンド・ロール・ミュージック Rock And Roll Music
チャック・ベリーの曲。ビートルズのデビュー前からのレパートリーだった。日本独自にシングル盤として発売されていた(裏は『エブリー・リトル・シング』)。レコードではポールが主にピアノを弾き(プロデューサーのジョージ・マーティンと)、ジョージがベースを弾いていている。ほとんど一発録りで短時間で録音された。(アルバム『ビートルズ・フォー・セール』収録)

2.シーズ・ア・ウーマン She's A Woman
ポールが作った曲で本人のお気に入りらしく、今もコンサートでよく歌っている。この日本公演でポールはタイトルを繰り返すフレーズで一度だけ「シマウマ」と歌っている。(『I Feel Fine』のB面としてシングル発売。現在は『パスト・マスターズ Vol.1 』などに収録)

3.恋をするなら If I Needed Someone
ジョージの曲。ポールが曲を紹介している。この曲は12弦ギターで演奏されている(カポを付けて)。ザ・バーズのロジャー・マッギンとともに後に「12弦ギターを世界的に広めた」記念すべき曲。ジョージのお気に入りの曲であり、当時ホリーズがカバーしたのだが、ラジオで聴いたジョージは「俺の曲じゃない。あんな変な曲を作った覚えはない」とコメントしている。エリック・クラプトンとの来日時('91)でも演奏している。(アルバム『ラバー・ソウル』収録)

4.デイ・トリッパー Day Tripper
主にジョンが作りポールも一部手伝っている。ビートルズでは通常は作った本人がリード・ボーカルを取るがこの曲はリードをポールが務めており、作者と歌が違うのはたぶんこの曲だけだろう。ギターリフを活かした曲は後世のバンドに大きな影響を与えている。ジミヘンも当時ライブでよくカバーしていた。(シングル『We can work it out』のB面。米キャピトル社編集のアルバム『ヘイ・ジュード』に収録。現在は『パスト・マスターズ Vol.2』などに収録)

5.ベイビーズ・イン・ブラック Baby's In Black
ジョンとポールの共作による珍しい三拍子(8分の6拍子)の曲。ハンブルグ時代に知り合った写真家アストリッド・キルヒヘル(元メンバーのスチュアート・サトクリフの彼女)を歌ったものと言われている。歌詞は「帰るはずのない男(亡くなったサトクリフ)を想って喪服を着ている彼女」とある。因みにアストリッドはマッシュルームカットの考案者らしい。(アルバム『ビートルズ・フォー・セール』収録)にされていたがシングルでは発売されておらず、非常に地味な選曲といえる。『ビートルズサウンズ大研究』のチャック近藤によればジョンとポールが最初から最後までハモっているのは、数多いビートルズの中でこの曲だけだそうだ。なるほどそういえばそうか!

6.アイ・フィール・ファイン I Feel Fine
ジョンの曲でこれもギターリフが強い印象を残す。レコードではいきなりフィードバックがかかった音で始まるが、その斬新な手法も当時の音楽界にショックを与えた。ジョンは後に「フィードバックを使ったのはジミヘンより先だ」と自慢している。英国では初登場1位、6週連続1位、アメリカではわずか1週間で100万枚売れ、3週連続1位になった。ジョンはボビー・パーカーの『ウォッチ・ユア・ステップ』からヒントを得たことを明かしている。(『She's A Woman』とのカップリングでシングル発売された。現在は『パスト・マスターズ Vol.1 』などに収録))

7.イエスタデイ Yesterday
ステージではジョージが曲の紹介をしている。言わずと知れたビートルズの代表曲ともいえるバラード(「世界で最もカバーされた曲」としてギネスの記録になっている)。ポールが「ある朝目が覚めたら曲が自然と湧いてきた」という伝説もある。レコードではストリングスが使われていてポール以外は演奏に関わっていない(ジョンがオルガンで伴奏したバージョンがあるのだが、没になった。これ聴きたいねえ!)他のメンバーから「ソロ名義で発売したら」と勧められたが、ポールが頑なに拒んだ。日本公演では4人で演奏するようにアレンジされている。(アルバム『ラバー・ソウル』収録)・参考資料『ポールマッカートニーとイエスタデイの真実

8.彼氏になりたい I Wanna Be Your Man
主にポールが作り、ジョンが仕上げた曲。もとはザ・ローリング・ストーンズのために作った曲で、ミックとキースのいる前で作り、あまりに簡単にできてしまうので、ミックもキースも「自分たちも曲を簡単に作れるのでは?」と思ったというエピソードがある。驚くことにこの時まではストーンズはオリジナル曲を持っていなかったのだ(日本ではストーンズのデビュー曲となった)。しかしビートルズは次の日にはもう自分たちの曲としてレコーディング(これは未完成に終わったが後に再録音して仕上げた)、この頃のコンサートでは「リンゴの持ち歌」としてよく演奏されている。(アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』に収録)

9.ひとりぼっちのあいつ Nowhere Man
ジョンの曲。サリー州の自宅で曲作りに悩んでいた時に椅子に腰掛けてぼんやりしている自分の姿を曲にした。日本公演ではモニタースピーカーが無いため、いきなり3声のコーラスで始まるこの曲の演奏は極めて難しかった。ジョージは「難しかった」、ポールは「ちゃんとできていた」と回想している。ジョンは一度歌詞を間違えて苦笑いしていた。アニメ『イエロー・サブマリン』でも使われていてその映像は僕も大好きである。(アルバム『ラバー・ソウル』収録)

10.ペイパーバック・ライター Paperback Writer
ビデオではこの曲のあたりからスタンドマイクが異常に回り始めて歌い難そうだ。この曲はポールの曲だが、ジョンが一部歌詞を手伝っている。親戚のおばさんに「ポールは職業を扱った曲を書いたことがないわね」といわれたことが作った動機である。ザ・フーのピート・タウンゼントは「ラブソングでもない何でも無いことをリズムに乗せて歌う」という手法にショックを受け、焦りを感じたといい、ビーチボーイズに『グッド・バイブレーション』を作るきっかけを与えたと言われる。日本公演当時最新の曲だった。当時のエンジニアのジェフ・エメリックの著書『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』によればベース音を強調するために実験的にマイクの代わりにスピーカーを前に置いてベースアンプの音を拾ったそうだ。EMIがほぼビートルズのために開発した「信号過入力自動制限装置ATOC」という当時最新の技術を駆使してカッティング(レコード化)され、ベースの生々しい重低音が家庭で再生可能になった。レコーディング技術史上にも残る一曲でもあった。(『Rain』とのカップリングでシングル発売されたが後に米キャピトル社編集のアルバム『ヘイ・ジュード』に収録。現在は『パスト・マスターズ Vol.1 』などに収録)

11.アイム・ダウン I'm Down
ポールがリトル・リチャードの作風を真似て作った作品。従ってこの当時のビートルズ公演はリチャードの『のっぽのサリー』かこの曲が最後に演奏された。『イエスタデイ』と同じ日にレコーディングされた。ポールはこの録音に何テイクもさんざシャウトしまくった後に『イエスタディ』を歌ったそうだ。ジョンがオルガンを弾くこともあったために日本でもオルガンが用意されたが結局一度も弾かなかった。(『HELP!』のB面としてシングル発売された。現在は『パスト・マスターズ Vol.1』などに収録)。この年のミュンヘン公演ではポールが歌い出しの歌詞を忘れ、演奏が始まらないという失態があった。ステージでジョンに教わったものの何故か2番から歌い出してしまったというエピソードがある。

これらの選曲が意外だと思った人も多いだろう。これまでの彼らの大ヒット曲『抱きしめたい』『シー・ラブズ・ユー』『キャント・バイ・ミー・ラブ』『ハードデイズ・ナイト』などが省かれている。そのかわりシングルで発売されたばかりの『デイ・トリッパー』、『ひとりぼっちのあいつ』が演奏されているが、最新作といえるのは『ペイパーバック・ライター』のみで、通常なら新作のプロモーションも兼ねて発売前でも演奏するのだろうが、すでにレコーディングを終えていたアルバム『リボルバー』からは一曲も演奏されていない。『リボルバー』の曲はすでに生演奏が難しいものが多かったからだろうか?また、過去のヒットを封印したのは彼らが新曲に自信があったからだろうが、昔からのレパートリー『ロック・アンド・ロール・ミュージック』など比較的演奏しやすい曲ばかりを取り入れているのは、「楽」をしたかったのでは?と思いました。実はプロモーターとの契約で時間制限があったため、曲目を厳選したことがジョンの証言にあり、実際この年のコンサートは欧米アジアどの国もほぼ同じ曲目であった(アメリカでは『アイム・ダウン』の代わりに『のっぽのサリー』が演奏されることもあった)。だが、彼らは余りにも人気者過ぎて警備上の問題もあったため、ステージ上でのリハーサルが出来ず、どの会場でも楽屋での音合わせ程度で即本番に臨むしかなかった。練習不足は実際顕著で、ミュンヘンでの『アイム・ダウン』の失敗はそれを物語っている。ともあれ、ビートルズはこの年以降、人前での演奏よりもレコーディングの方に興味が移り、レコーディング技術を駆使した表現方法を極めることに情熱を注ぐことになった。それは後の歴史的名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を生む原動力になった。
ビートルズ来日時の出来事と関係者についてはパート1へ!ビートルズ来日
使用楽器



ジョン・レノン:エピフォンE230T(通称カジノ:セミアコースティックギター)
当時のジョンはこのカジノがお気に入りで、ステージだけでなく録音にもよく使われている。ギブソンの名器ES330の廉価版といった風情でシェイプはよく似ているが、ボディ内部が若干異なり、生音もかなり大きな音が出るようになっていて、ギブソンとはまた違った独特の音色を持っている。ジャズやブルースのミュージシャンにもよく使われている。来日公演にはサンバーストの方が使われている。ジョンはビートルズ末期のいわゆるアップル屋上ライブ」でこのカジノ(ナチュラルフィニッシュ)で『ゲットバック』などを演奏。ソロになってからも愛用しているので本当にお気に入りの楽器のようだ。

↑これは右利き用。
ポール・マッカートニー:カールヘフナー500/1(いわゆるバイオリン・ベース。もちろんレフティ仕様)
ポールのトレードマークともいえるベースで、ハンブルグ時代に手に入れて以来、ステージ、レコーディング共によく使われた。カールヘフナーはドイツの楽器メーカーでバイオリンやチェロを専門とした。ポールの使用したバイオリンベースで飛躍的に知名度があがり、売上げも倍増している。僕は中学時代このベースをコピーしたグレコのベースを弾いたことがあるのだが、ボディが小さい上に空洞で軽いため、肩に下げて手を離すと重いネックがグイグイと下がってしまい、いつも左手でネックを支えていなければならなかった。ポールがステージ上でいつもネックを持っているのはそのためだと分かった。音は非常に独特でかなり固い音が出た記憶がある。
ジョージ・ハリスン:エピフォンE230T(ジョンと同じタイプ)、リッケンバッカー360-12(12弦のアコースティック)
そもそもエピフォンをジョンやポールに勧めたのはジョージらしく、彼もかなりの頻度でエピフォンを使用している。360-12は上記『恋をするなら』で全面的に使用され、「12弦エレキ」の音を広く知らしめた名器といえる。バーズのロジャー・マッギンの名曲『ターン・ターン・ターン』などに大きな影響を与えている。ギブソンやフェンダーにも12弦ギターはあるが、リッケンバッカーのはヘッドのノブ(糸巻き)が縦横に並べられた特殊な構造で、正面から見ると6弦ギターと一見変わらない革新的な作りになっている。

↑ファン垂涎の名器AC30。ブライアン・メイ博士も愛用。
アンプはVOXスーパー・ビートル AC-100(ビートルズのために開発されたスタックアンプ)
ビートルズといえばVOX AC30というこれまたアンプの名器中の名器を連想させるが、メンバーはAC30をデビュー時からずっと愛用していた。武道館のような大会場では全く出力が足りないので、新たに開発されたものを使用している。VOXの音は典型的な真空管アンプの音で太く温かみがあるが、マーシャルやフェンダーとはまた違った味があり、クイーンのブライアン・メイ、ジミー・ペイジ、ロリー・ギャラガーなどの使用でも知られる。

↑これはミニチュア!欲しいぞ。
リンゴ・スター:ラディック981-1P(シンバルはパイステかジルジャンらしいが不明)
983-1Pは通称「ブルーノート」と呼ばれた。創設者のドイツ系アメリカ人の名前をとった「ラディック」は英語読み。ドイツ語では「ルードウイッヒ」。つまりベートーベンと同じ名前だ。もとはティンパニーの専門メーカーとして知られていたが、ジャズ用ドラムセットを開発、大御所バディー・リッチに愛用され、以来ドラムといえば「ラディック」というほどのブランドになった。ジンジャー・ベイカー、ジョン・ボーナム、カーマイン・アピスら大物ロックドラマーのほとんどが使用。現在は日本のドラムメーカーのようにドラムヘッドに合成樹脂(皮革)を使ったものが主流だが、ラディックは昔からの天然皮革にこだわっている。それも今なお多くのドラマーたちに愛される理由のようだ。
使用楽器についての最高の参考資料は↓

こちらも↓
このほかリッケンバッカーベースやギブソンSGなども持参したがステージでは使用されなかった。バイオリンベースもボディは空洞のセミアコースティック構造なので、結局3人ともソリッドボディの楽器は使用せず、セミアコで演奏していたことになる。ステージでは「軽い楽器」を好んでいたのだろう。
また上記『アイム・ダウン』用に電子オルガンとしてVOX社コンチネンタル・デュアル・マニュアル・オルガンも持ち込まれたが使用されなかった。ギター、ベースは半音下げでチューニングされているので、当時キーボードのチューニング変更は不可能だったため、半音下げを指使いで変更して演奏するのがジョンにとって難しかったのではなかろうか?
また、日本のスタッフの証言では、当時最高のPA機材がイギリスから持ち込まれていたのだが、アンプの一部が故障していて使えなかった。ところが次の日にはもうイギリスから代わりの機材が空輸されて来て仰天したそうだ。今では普通のことだろうが、当時の日本と海外との行き来の状況から想像すると(何しろ外貨のやりとりすら規制されていた時代)やはり凄いことだろう。
ビートルズ来日時の出来事と関係者についてはパート1へ!ビートルズ来日
その他トリビアなど ●来日時すでに彼らの新しいアルバムは出来上がっていたがまだタイトルを決めていなかった。ポールがヒルトンホテルの警備に当たっていた警官の持っていた拳銃を見て『リボルバー REVOLVER』と名づけたとされる。実は「リボルバー(回転式拳銃)」は以前から候補に挙がっていたのだが、日本滞在中にEMI本社に電報で最終決定が伝えられているので、この噂は確かなようだ(ただし中山康樹著『ビートルズの謎 (講談社現代新書)』ではアルバム中最大の自信作『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』で試みた録音テープのループを使った手法を表した「リボルブ(回転する」からインスパイアされたものであり、この話の信憑性は乏しいとしている)。因みにジョン・レノンは38口径のリボルバーで撃たれ落命した。リボルバー以外の候補は「Magic Circle」「Four Side To The Circle」「Beatles On Safari」「After Geography」「Aftermath」などがあった。因みに「Aftermath」はストーンズの傑作アルバムの名になった。

●リンゴ・スターは来日直後からお腹をこわし、ずっと体調が悪かった。公演でも愛想が悪いのはそのせい。彼は「僕たちは今まるで虫かごの中のカブト虫さ」とホテルに足止めされた状態を皮肉った発言をしている(『女性セブン 1966年7月21日号』)

カメラマン浅井慎平はヒルトンのビートルズと同じ階の部屋に泊まり撮影が許された。しかし実際に部屋に入って彼らを撮影できたのはたったの2時間(いつか不明)。この2時間の間ジョージに「君はニヒルだと言われているけどニヒリストなのか?」と質問したら「何だ?そのニヒリストって?」。ジョンがその「ニヒルとは」を30分かけて説明、それを聞いたジョージが「それなら俺はニヒルじゃないよ」と答えたそうだ。あとは公演中の留守の部屋に入って彼らが使った灰皿やら飲みかけのビール瓶などを撮った。部屋のドアを少し開けて寝て、明け方に赤いパンツ姿で廊下を歩くジョンの撮影に成功した。これが浅井の最初にして最後の「盗撮写真」だそうだ。これらは写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』として出版された。しかし当時の写真家たちからは無視され、評価されたのはずっと後になってからである。因みにこの写真集のギャラはすべて中間に立った人に取られ、一切もらってないそうで、また写真集に載った以外の何千枚もの写真も行方不明だそうだ。浅井は当時のことなどを『気分はビートルズ(角川文庫)』『シリーズ20世紀の記憶・高度成長ビートルズの時代』などに書いている。


●テーラー山形屋で仕立てたスーツはこの後8月に行われたアメリカ公演で着用された。因みにビートルズはこの公演を最後に観客を前にしたライブを一切辞めた。次の公演地フィリピンではイメルダ大統領夫人の歓迎会の誘いをすっぽかし、フィリピン国民の感情を損ね、公演は無事済んだもののマニラ空港で若者から暴行を受けるなどした(ビートルズらは歓迎会の予定をプロモーターから聞いていなかった)。その後ジョンが「ビートルズはキリストより有名だ」発言が世界中で問題となり、とりわけ8月の公演地であるアメリカで排斥運動が高まるなどしたためツアーにはもううんざりといった感じだった。この年は実はビートルズにとって大きなターニングポイントとなる。ライブを止めることで「レコーディング」という表現を重視するようになった。(演奏曲目の項もご参考ください)

●来日中ビートルズが乗り回していたピンクのキャデラックはジョニー・ティロットソン公演に来ていた埼玉県川口市の会社員に抽選で贈られた。

●ジョンは日本に特に関心を抱いていた。「日本人に会うたびに日本に行ってみたいと思っていた。日本製のトランジスタラジオを持っているよ。(ジョージの影響でインドや)東洋音楽に関心を持って日本の音楽も聴いてみた。どちらも素晴らしいものだと思った」という発言が残っている。機内で真っ先にハッピを着たのも彼だし、すき焼きの食べ方を加山雄三に教わったり、おみやげも大量に買っている。因みにこの来日からおよそ4ヶ月後の11月9日の夜、ロンドンのインディカ・ブックス&ギャラリーで個展を開いていた日本人アーティスト小野洋子と運命の出会いをしている。

東京ヒルトンホテルは北大路魯山人の美食倶楽部(漫画『美味しんぼ』のモデル)が開催されていた「星ヶ岡茶寮」の跡地(東京永田町・日枝神社の隣)に日本初の外資系ホテルとしてビートルズ来日の2年前に東京オリンピックに合わせて開業(東急と共同経営)。彼らの泊まったプレジデンシャル・スイート(1005号室)は50〜60坪の広さで当時一泊7万円(因みに大卒初任給が24,900円の時代である)。寝室は左右にあり、2人ずつ分かれて寝た。ホテル側は、「ビートルズ来日」のあまりの反響に彼らを泊めることに怖れを抱き、直前になって主催者CBC側にキャンセルして欲しいと申し出た。CBCが損害保険をかけることでなんとか承知してもらっている。その後母体であるヒルトンと東急が分裂、東急側が継続し「東急キャピトルホテル」となり、エリック・クラプトンデビッド・ボウイマイケル・ジャクソンら、有名海外ミュージシャンやハリウッドセレブの定宿としても知られる高級ホテルであった。また、映画『007は二度死ぬ』のロケでも使用されている。ここの地下にあったコーヒーハウス兼レストラン「オリガミ」も有名で、ジャイアント馬場やユーミン、ピンクレディーもよく利用していた。2006年に建て直しのため一時閉業、2010年ザ・キャピトルホテル 東急としてリニューアルした。因みに西新宿にあるヒルトン東京はヒルトン側が後に建てたホテルでビートルズとは無縁である。『東京ヒルトンホテル物語

●ヒルトンの部屋でテレビで柔道の中継を観たジョージは、イギリスに帰ってからレコーディングの合間に柔道の真似をしてリンゴをスタジオの床に投げ飛ばしてしまった。

●ポールはテレビで放送していた時代劇『名月走馬燈』(1951年・衣笠貞之助監督・長谷川一夫主演)を鑑賞した。

●ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインを取材した浅井慎平は禁じられていた彼の写真を撮ってしまい、「何故撮るんだ?」と怒られるが「俺はカメラマンだから」と答えたらOKとなったそうだ。エプスタインは若い頃ハムレットを演じたくて王立演劇学校に入ったことなど話してくれたという。エプスタインはよく知られるように同性愛者である(徴兵された軍隊をその理由で除隊されている)。何とジョンとも噂があり、二人だけでスペイン旅行に行ったことがある(映画『僕たちの時間』参照)。この来日時は「彼氏」同伴でビートルズとは別の部屋に泊まっていた。彼はこの来日から約1年後1967年8月に亡くなっている。ビートルズをつくった男―ブライアン・エプスタイン (新潮文庫)

●ビートルズ来日公演が与えた影響
上記内田裕也が述べた、「もしビートルズが来なかったら日本の音楽シーンは演歌とポップスとフォークだけだったろう」という言葉に集約できると思うが、確かに「グループサウンズ」から本格的な「日本のロック」へと変化を生む大きな契機になった。また阿久悠や松本隆など「作詞」の改革者も多く生み、愛だの恋だの一辺倒だった歌詞が多彩なバリエーションを展開してくことになった。
こうした音楽家だけでなく、「巨大ホールでの来日コンサート」の方法は音響関係者や楽器メーカー、音楽プロモーターへも多大な影響を与えている。また若者だけでなく一般のファッションや文化にも大変な足跡を残している。
日本武道館はこれ以降、武道やスポーツだけでなく、コンサート会場、イベント会場として幅広く利用されることになった。「日本武道館」の項にも書いたが、「ビートルズが日本で演奏した唯一の会場」というブランドが生じ、多くの洋楽アーティストがブドーカンで演奏することをステータスとした。中でも有名なのは以下

↑超大物。この『風に吹かれて』は絶品

↑「アット武道館」の金字塔。

↑超絶ギター&コージーのドラム!

↑「変てこ日本」も満載DVD!

↑ベーシストがライブ直後に急死。

↑これはパロディ。

クラプトン様は70回も公演(外国アーティストで最多)!

↑カレンが日本語で歌う『シング』

↑素晴らしいパフォーマンス

↑これも金字塔。

↑世界中継された。しかしウエットンでなくレイクさんです。
↑シンプルかつハード!
ビートルズ来日時の出来事と関係者についてはパート1へ!ビートルズ来日
参考資料


参考資料については
『外国曲に描かれた日本とは!?日本を歌った外国曲パート1』ザ・ビートルズのコーナーにもあります。
↓日本ライブの映像(日本テレビで放送されたものではなく後にビデオソフト化されたエプスタインがNGを出した6月30日の版)


The Beatles - Live In Japan 1966 1_4
The Beatles - Live In Japan 1966 2_4
The Beatles - Live In Japan 1966 3_4
The Beatles - Live In Japan 1966 4_4

ジョン・レノンの死についてはこちらをご参考ください。

参考書一覧

参考書パート2

特集:
外国人が見る日本と日本人(前編)

特集:
外国人が見る日本と日本人(後編)

参考書パート4

CMで使われた洋楽

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