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12月8日は日本がアメリカに戦争を挑んだ真珠湾攻撃(1941年)の日であり、奇しくも日本人ヨーコ・オノを妻とし平和を愛したビートルズジョン・レノンの命日(1980年)でもあります。というわけで真珠湾攻撃と太平洋戦争について、ジョン・レノンについてを特集します。これに因んだ書籍・DVDも紹介します。
真珠湾攻撃
日本時間1941年12月8日未明(米国ハワイ時間12月7日)は、ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃。

1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六が基本構想を練り、海軍将官きっての航空通大西瀧治郎少将、参謀であった源田実中佐とともに作戦を構築した。1941年9月には日本と米英間の関係が急速に悪化、日本に対する経済制裁が行われたことから、攻撃を想定した訓練が始められている。

同年11月1日、東条英機内閣は米英に対する宣戦を決定、要領は11月5日の昭和天皇の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。

日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島・単冠湾に集結、11月26日ハワイへ向けて出港。 12月2日大本営より機動部隊に対して暗号文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信される。これは「12月8日零時に戦闘開始」の命令である。

攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐率いる第一波空中攻撃隊は12月8日(ハワイ時間7日)朝7時49分に真珠湾に到達、旗艦赤城にトラ!トラ!トラ!を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号である。

同8時50分に野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を渡す(事実上の宣戦布告)。これは攻撃開始の30分以上前に行う予定であったが、ワシントンの日本大使館で準備に時間がかかり遅れたものである。事後になってしまったことによってアメリカ側は「卑怯な騙まし討ち」として宣伝材料にし、「リメンバー・パールハーバー」の標語が流布されることになった。

日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」など8隻を撃沈または損傷により行動不能とした。これはまた同時に世界で初めて空母から飛び立った戦闘機が戦艦を撃沈させた作戦であり、以後大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へとなった。 (しかし、当の日本はこの成功にも関わらず大艦巨砲主義を最後まで貫き、戦艦大和、武蔵など巨艦を次々失い破滅を迎えることになった)

真珠湾攻撃によって日本は太平洋の広い地域で制空権・制海権に有利に立ち、以後の南方政策を進めるきっかけになった。12月8日同日には日本陸軍はマレー半島に上陸。当時イギリス領のこの地域を支配した。

翌日、米国フランクリン・ルーズベルト大統領とアメリカ議会は正式に日本に宣戦布告を決定し、日米両国は本格的な戦争に突入。同盟国日本の真珠湾攻撃の報を聞き、ドイツ・ヒトラー総統も12月10日にアメリカに対し正式に宣戦布告を発し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

ルーズベルト大統領は攻撃を事前に知っていたのだが、日本に奇襲をさせた方が政治的に有利であると判断し、攻撃を黙認したという陰謀説は戦時中からあった。これは今なお様々な研究・検証が行われている。


Attack on Pearl Harbor 真珠湾攻撃
太平洋戦争開戦ラジオ放送

アメリカ映画で真珠湾攻撃を描いたものは
攻撃前夜の真珠湾を描いた傑作『地上より永遠に
トラ!トラ!トラ!
パールハーバー
危険な道
異色SF『ファイナル・カウント・ダウン
直後の米国西海岸の騒動を描いた『1941』などがある。その他は「第二次世界大戦・太平洋戦争を描くもの」をご参考ください。
日本映画では山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』『連合艦隊』など。
最近読んだ本の中で面白かったのは半藤一利の『山本五十六』。これは山本がどういう環境で育ち、どういう考えを持つ人間だったのかを解くドキュメンタリー小説。もう一冊は『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』。こちらは淵田中佐(『トラ!トラ!トラ!』で田村高廣が演じた)が戦後はキリスト教に改宗し伝道師となるという自伝。2冊とも感動の作品だ!

この他参考資料は以下多数。2011年、日米開戦70周年の年に半藤一利の原作が役所広司主演で映画化されたため関連書が大量に発刊されている。
日米開戦と山本五十六
山本五十六は何を見たか日米開戦に反対したある軍人の本心
山本五十六の生涯 (幻冬舎文庫)
山本五十六自決セリ (学研M文庫)
連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像
●補足
真珠湾攻撃を発案したといわれる海軍大将(連合艦隊長官)山本五十六は海軍少佐時代アメリカに駐在、ハーバード大学に留学経験があり(1919〜1921年)、アメリカの軍備を含めた国力を熟知していた。そのため日独伊三国軍事同盟や日米開戦には最後まで反対していた。また航空機の戦闘力と作戦を研究し、来るべく戦争は戦力の中心が戦闘機になると予見、巨艦建造にも反対し、戦闘機の製造に力を入れるべきと主張していた。真珠湾攻撃は、山本が近衛文麿首相に述べたという「初め半年や一年は随分暴れてご覧に入れます。しかしながら、二年、三年となれば全く確信は持てません」という言葉からも分かるように、零戦など戦闘機による先制攻撃で戦艦を破壊し敵が混乱している間に和平を結ぶという想定で、あくまでも短期決戦のつもりで編み出した作戦であった。真珠湾攻撃は成功はしたが、しかし日清・日露で戦艦での勝利を経験している海軍・陸軍の上層部・政府は巨費を投じて武蔵・大和などの巨艦を建造しており、なお戦艦の力を信じ戦争を推進した。 従ってミッドウェイ海戦などで日本海軍が誇る戦艦・空母が次々と撃沈されると一気に日本が劣勢に回ることになり、破滅の道を辿ってしまった。皮肉なことに山本長官は戦艦でなく、戦闘機で移動中に敵戦闘機によって撃墜され戦死している。なお、戦争当時新潟県でアメリカに空爆されたのは山本の生地である長岡市だけである(民間人を含む無差別攻撃としては)。長岡市は約1500人の市民が犠牲になった。それを偲んで毎年8月1日に行われるのが有名な長岡花火である。伝えられる山本五十六は非常に人間的な魅力にあふれる人物で、黒澤明は彼にほれ込んで一気に『トラ!トラ!トラ!』のシナリオを書いたが、戦闘シーンよりも山本の人間像を重視し精緻に描いたものであった。


ジョン・レノン暗殺
1980年12月8日(米ニューヨーク市時間)、ニューヨーク市のジョンとヨーコ・オノの自宅がある高級アパート、ダコタハウスの玄関前で起きた殺人事件。以下、その日の出来事を時系列に記します。

その日、ジョン・レノンは朝6時(日本時間20時)に起き、近くの馴染みのレストラン、カフェ・ラ・フォーチュナで朝食。

9時、ジョンは近くの行きつけの理髪店に散髪にでかけた。前月発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)よりももっと髪を短く刈り、初期のロックンローラーのようなリーゼントカットにした。アルバムの宣伝用に雑誌に向けての撮影が予定されていたためだった。
9時45分頃タクシーで帰宅。

10時頃、女性写真家アニー・リーボヴィッツがダコタハウスにやって来てフォトセッションが始まる。アニーは二人が裸になるのを要求したが、ヨーコは服を着たままでいたいということで、ジョンだけが裸になった。何枚か撮影が行われ、服を着たヨーコに抱きつく裸のジョンの写真が選ばれた。試し撮りのポラロイドを覗いたレノンは「これで決まりだね。僕らの関係を凄く正確に捉えているよ」と言ったという。これがジョンとヨーコが一緒に写った最後の写真となり、後に雑誌『ローリングストーン』335号の表紙になった。これは雑誌史上最も有名な表紙と呼ばれている。

午後2時、ジョンとヨーコはRKOラジオのスペシャル番組のインタビューを受ける。ここでレノンはビートルズ以前の懐かしい話や、ポール・マッカートニージョージ・ハリスンとの出会いなどを語った。そして「ヨーコより早く死にたい。ヨーコが死んだら僕は生きていけないから」などと述べている。


午後5時、ヨーコの新曲『ウォーキング・オン・シン・アイス』のミックスダウン作業のため、レノン夫妻はニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ、ヒット・ファクトリー(一説にレコード・プラント・スタジオ)へ出掛けた。手配したリムジンが来なかったため、RKOラジオの車で向かう。
車に乗る時、ダコタハウスの前にはジョンの顔見知りの雑誌カメラマン、ポール・ゴレッシュと、熱狂的なファン、マーク・チャップマンがいた。チャップマンはこの時、レノンに『ダブル・ファンタジー』を差し出し、ジャケットにサインを貰った。この様子をポール・ゴレッシュが撮影したが、レノン生前の最後の写真はチャップマンとのこの2ショットである。ベビー・シッターと共に両親を見送りに出てきた息子ショーンは、チャップマンと握手をしている。

午後6時、プロデューサーのデビッド・ゲフィンがスタジオに来て、レノン夫妻に『ダブル・ファンタジー』が発売後2週間でプラチナアルバムになったことを告げる。

午後10時30分、スタジオ作業を終えたヨーコは「途中で食事して帰る?」とレノンに聞いたが、レノンが「いや、帰ろう。ショーンが寝る前に彼の顔が見たい」という理由で自宅に直行することになった。

午後10時50分、レノンとヨーコ、友人2人が乗ったリムジンがアパートの前に到着した。前庭に隠れていたチャップマンは、レノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると、銃を手に取り前に進み、両手で構え5発を発射した。4発がレノンの胸、背中、肩に命中した。レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口の階段を6段上がって倒れた。抱えていた最後のセッションテープが落ちてバラバラに飛び散った。ヨーコはすぐにレノンの頭を抱いて、「撃たれた!誰か早く!」と叫んだ。

ダコタハウスのドアマンはすぐに警官を呼び、ジョンに駆け寄って眼鏡をはずし、制服のジャケットをかけて「大丈夫だ。助かるよ」と声をかけた。ジョンの口からは夥しい血が流れていた。

数分後にパトカーが到着した。ドアマンを犯人と勘違いした警官は「手を上げろ!」といったが、他のドアマンによって真犯人チャップマンが指差された。

この時、レノンはまだ意識があったが、出血がひどいため救急車を待たず、パトカーで近くのルーズベルト病院に搬送した。意識を失わないようにパトカーでは刑事が名前を尋ねたりしていた。「あなたはジョン・レノンですね?」「そうだ」「今の状態は?」「痛む」と力なく答えていたが、まもなく意識を失った。病院で懸命の蘇生が行われたが、レノンは失血性ショックによりルーズベルト病院で午後11時07分(日本時間9日午後1時07分頃)死亡が確認され、同15分、ヨーコに臨終が知らされた。
スチーブン・リン医師によれば胸、左腕、背中に弾を受けた跡があり、全身に計7ヵ所の銃傷があった。運ばれた時にはすでに80%近い血を失っており、ほぼ死亡状態だった。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』だったという。

ドアマンに指差された犯人チャップマンは、現場から逃亡せず、手にしていた銃とサイン入りの『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』を読んだりブラブラしていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、「僕はふたりいる。立派な僕とひどい僕だ。ひどい方の僕が引き金を引いた」と証言、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。所持品を調べたら数個の鍵と2000ドルの入った財布と『ライ麦畑でつかまえて』だけだった。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときにも"I just shot John Lennon."(「ジョン・レノンを撃っただけ」)と答えた。

犯人チャップマンは当時25歳。精神疾患を患った経歴があり、真珠湾のあるハワイ州オアフ島に妻と住んでいた。撃った38口径のリボルバーはハワイで買ったものだった。

死亡宣告を受けた時ヨーコは「ノー!嘘だと言って!」と泣き崩れ、大きく取り乱した。
翌日、ヨーコは「ジョンのために葬式はしません。彼は人々を愛し、人々のために祈りました。皆さんもジョンのために祈ってください。愛を込めて。ヨーコ&ショーン」という声明を出した。

ジョン・レノンの生前の反戦運動・反米活動が大きな反響を呼び危険だと考えた政府当局か誰かが、チャップマンに催眠術をかけて殺させたという陰謀説なども多数囁かれたが、逮捕後の裁判で弁護士側が主張した精神障害による無罪説が退けられて、チャップマンは第二級謀殺の罪で告発された。禁固20年であったが、現在もニューヨーク州バッファローの近くにあるアッティカ州刑務所に収監されている。4回の仮釈放の機会があったが、ヨーコや、他の市民運動により拒否されている。
以下YouTubeより(全部英語ですが)


"Death fo John Lennon" from Various News Sources地元テレビ局のニュース
John Lennon Shot BBC NEWS 1980イギリスBBCのニュース。ジョージ・マーティンらのインタビューなど。
Paul McCartney reaction to news of John Lennon Death ポールへのインタビュー。
John Lennon`s last interview 8th December 1980 最後のインタビュー(抜粋)

参考資料などは以下

ジョン・レノン写真集 In His Life (P-Vine Books)』生誕70周年&没後30年の2010年に出版された5000部限定のメモリアル写真集。ヨーコが序文を寄せている。

←同じく2010年11月に出版された、最新の参考書『1980年12月8日ジョン・レノンのいちばん長い日』。

映画『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』最後の日に写真を撮った女性写真家の記録映画。

最後のインタビューは『ミルク・アンド・ハニー(紙ジャケット仕様)』のリマスター盤に収録。

ジョン・レノンラスト・インタビュー』プレイボーイ誌が行ったインタビューを本にまとめたもの。

チャップマンの伝記映画『チャプター27』タイトルは『ライ麦畑でつかまえて』が「Chapter 26」までしかなかったことに由来。チケット購入はこちら。

最近の発刊はフィル ストロングマン、アラン パーカー著『ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男

ジョン・レノンを殺した男(1)』獄中インタビューを元に描く犯人像。上の映画の原作。

ジョン・レノン伝説〈下〉』ジョンの暗殺の状況はこれが一番冷静に詳しく書かれている。

僕らのジョン・レノン ~ジョン・レノン生誕65年&没後25年~』ジョンの年表やトリビアが分かりやすく書かれている。本ページの暗殺当日の様子はこの本を主に参考にした。

ジョン・レノン その存在と死の意味』ジョンの死が世界にもたらしたものを分析。

誰がジョン・レノンを殺したか?』フェントン・ブレスラーによるCIA陰謀説。

ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男』こちらはFBIファイルに残された記録から探る陰謀説。

ジョン・レノンに恋して』ジョンの先妻の手記。ジョンが死んだ日の偶然起きた出来事、死後数年たってミミ叔母さんのお葬式のためにイギリスにやって来たヨーコとショーン母子と会った話など興味深い。

ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド Instamatic Karma』ほんの一時期だったが、ヨーコと別居したレノンが一緒に暮らした愛人メイ・パンによる回想記。初めて見る貴重な写真が多数でびっくり。

←清水義範著。1980年にタイムスリップした少年が若き日の父(ダメ青年)と協力してジョン・レノン暗殺を阻止しようとするというとんでもないお話。

この他『ジョン・レノン アメリカでの日々』など多数。以下もご参考ください。
●補足・ダコタハウスはニューヨークのセントラルパーク西に、1880〜1884にかけて建築されたアパートメントである。ニューヨーク市の歴史的建物として登録されている。アパートというと日本では安っぽいイメージだが、ホテルと同じように、ドアマン、警備員、エレベーターの昇降係、コンシェルジェ(フロントのように訪問者の受付、郵便物や荷物の受け取り、クリーニングなどもやってくれる)、掃除係などがいる高級マンションである。ロマン・ポランスキー監督の近未来SFホラー映画『ローズマリーの赤ちゃん』、ジャック・フィニイの傑作SF小説『ふりだしに戻る』の舞台はこのダコタである。かつてここで暮らしたのはローレン・バコール(女優、ハンフリー・ボガートの妻)、レナード・バーンスタイン(指揮者・作曲家)、ロバータ・フラック(歌手)、ホセ・フェラー(俳優)、ジュディ・ホリディ(歌手)、ジュディ・ガーランド(女優・歌手)、ボリス・カーロフ(怪奇俳優)、スティーブ・グッテンバーグ(俳優)、ニール・セダカ(歌手・作曲家)、ルドルフ・ヌレエフ(ダンサー)などの他小説家やキャスターなど著名人多数。キッスのジーン・シモンズやビリー・ジョエルは居住が却下された。『ザ・ビートルズ 1976ダコタ・ハウスにて…TWO OF US』という解散後にジョンを訪れるポールの話を映画化した作品があるが、この映画でダコタのスタッフの様子がよく描かれていた。

●ダコタハウスの前で、犯人チャップマンは女優ミア・ファローと偶然会って、握手を求めている。ミア・ファローは前述の『ローズマリーの赤ちゃん』の主演女優である。ちなみにこの映画の撮影の頃(1968年)、彼女は姉のプルーデンス・ファローとともにインドのマハリシ・ヨギ師指導による講義・瞑想に凝っていた。ここでビートルズの連中とは会っており交流があった。ジョン・レノンが作った『ディア・プルーデンス(アルバム『ザ・ビートルズ』収録)』という曲はミアの姉を歌った曲である。

●ジョンはショーンとヨーコを連れて何回か日本に遊びに来ていた。ヨーコの実家の軽井沢の別荘やホテルオークラなどに滞在した。一番長かったのは1977年の5月から10月までの5ヶ月間。ジョンはヨーコの親族とパーティをしたり、サイクリングやヨガ、水泳などを楽しんだ。この滞在中に尊敬していたエルビス・プレスリーが亡くなりマスコミにインタビューを受けたりしている。また、9月のある日、オークラのスウィートルームで『ジェラス・ガイ』をギター弾き語りしていたところ、日本人のカップルが間違えて入って来てしまった。二人はジョンとは気づかなかったらしい。これがジョン・レノンが生前に一般人を前でパフォーマンスした最後になってしまった。またこの滞在中日本の美しい景色にインスパイアされて『フリー・アズ・ア・バード』を作っている。3回目の来日は1980年の7月28日〜8月28日までの1ヶ月間で、これが最後の来日となった。

デビッド・ゲフィンは音楽活動を再開したジョン・レノンと5年間で8枚のアルバムを作る契約を結んだ。契約金は約100億円といわれている。アルバム『ダブル・ファンタジー』は英米でヒットチャート1位になり、ゲフィン・レコードの礎を築いた。ゲフィンは後にスティーブン・スピルバーグらとドリームワークスを設立した。

●10月9日はジョンと息子ショーンの誕生日。1980年の10月9日、ヨーコは飛行機をチャーターし、雲でマンハッタンの空に「Happy birthday John & Sean Love Yoko」と7回書かせた。 これがジョンの最後の誕生日となった。セレブだ。いくらかかったんだ?

●ジョンが死んだ時病院で流れていたという『オール・マイ・ラヴィング』はザ・ビートルズの曲(アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録)だが、ポール・マッカートニーの作である。生前、ジョンはこの曲を絶賛していた。僕もこの曲は大好きで、ゆっくりテンポでバラード風にアレンジしてみると、メロディラインの美しさがよくわかる。ジョンはこの曲ではあまりコーラスでは参加せず、リズムギターに徹しているが、早い三連符のカッティングはビートルズの数ある名曲の中でもジョンのベストプレイだと思う。

●1966年初来日の時、ビートルズの連中は混乱を避けるためホテルに缶詰になったといわれるが、実は極秘に脱走を試みている。ポールがすぐに捕まって戻された話は有名だが、ジョンはうまく逃げ出して、原宿のオリエンタルバザーなどに行って骨董品を漁ったりしている。1971年、ヨーコとともにお忍びで来日したジョンはヨーコの両親に会った。「オ嬢サンヲワタシニクダサイ(嘘)」。歌舞伎座で『隅田川』を観劇、言葉もわからないのに涙を流していたと言われる。また俳句にも感銘を受け、「今まで読んだ詩の中で一番美しいもの。僕の詩も俳句のように短く簡潔になっていくのでは?」と述べている。確かに『Love 愛』『Mother 母』『God 神』といったその直後の彼の代表曲はビートルズ時代の歌詞とはだいぶ違っていて簡潔で鋭いものになっていると思うが。

ビートルズ来日については「ビートルズ来日(日本外交史外伝)」もご参考に。

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